09
「はあ、はあ、はあ……」
「はぁ……はぁ……。なんてこと、なの……」
しばらく走り続けて、ユーリアから距離をとった二人。息を整える余裕もなく、振り返ってユーリアの追撃に警戒する。幸いなことに、今の彼女は積極的に瑠衣たちを追ってこようとはしていない。
……いや。というより、その姿がもはやほとんど人の形を留めておらず、体全体が『白い霧』になってしまっているユーリアにはもう、そういう感情さえなくなってしまったのかもしれない。
電車の券売機、床に散らばったガチャガチャのカプセル、柱、壁……。『白い霧』の塊は、その周囲のあらゆるものをどんどん『霧』化して取り込んで、その領域を拡大している。『霧』の濃度も強くなって、もう向こう側の風景が透けて見えることもない。駅の構内が、一歩入ったら迷って抜け出せないほどの深い濃霧につつまれてしまったようだった。
「『触ったものを白い霧に変えてしまう』能力なんて……そんな、そんなのって……」
ようやく自分たちが置かれている危機的状況を完全に理解したらしい瑠衣が、恐怖で体を震わせている。
「く……」
その一方で隣のマリーは、苦虫を噛むような忌々しい表情を作りながらも、ユーリアが覚醒した新しい能力についての考察を始めていた。
「能力が変わったと言っても、どうやらその根幹部分は元の能力と同じみたいね……。『右手で触れたものを白くする』という能力をベースに、覚醒によって、それが強化されたのよ。その証拠に……ほら、見てみなさい? あの子の周囲の物のうちで『霧』化しているのは、ほとんどが、あの子の右側にあったものよ。つまり……すでにあの子はほとんど『霧』状になっていて人の形なんて残っていないけれど、それでも、触って他のものを『霧』に変えられるのはそのうちの一部分のみ。体全体が『霧』になっているとしても、触って他のものを『霧』に出来るのは、もともとあの子の『右手』だった部分のみ、ということなのよ。そういう意味では、あの『白い霧』自体も、普通の霧とは別物だと考えたほうがいいのかもしれないわ。あれは、ただの水蒸気や空気に白い色がついている状態ではなく、『霧』になる前の元の性質を保ったままの『白い新しい概念』……ということなのかもしれないわね」
「ど、どうしましょう⁉ 触っただけで霧になっちゃうような無敵の能力なんて⁉ わ、私たち、どうすれば……⁉」
完全に取り乱してしまっている瑠衣。それでも彼女は、マリーならこんな状況をどうにかしてくれるのではないかと思っていた。
今までどんな事態でも、慌てずに、冷静に進むべき道筋を示してくれたマリー。いまだって、混乱している自分とは違って、ユーリアの覚醒した新しい能力についての適切な考察を進めている。そんな彼女ならきっと、今の自分たちがとるべき行動をひらめいて、この状況をなんとかしてくれる。この勝負に勝つことだって出来るはずだ。瑠衣は、そんな風に思っていた。
「そうね……」
そんな彼女の期待に、応えるように。
すっかり落ち着いた様子のマリーが、こう言った。
「まず……私は瑠衣、貴女に謝らなければいけないでしょうね」
「え?」
「ごめんなさい。貴女の言った通りだったわ」
「ちょ、ちょっと……マ、マリー様?」
それは、瑠衣にとって想像もしていなかった言葉だった。ある意味では、対戦相手が最強の能力に目覚めてしまったことよりも、遥かにありえない事態だった。
「さっき私がたてた作戦……『先にメイドを倒してしまえば、残った主の方は簡単に倒せる』というのは、全くの間違いだった。だって、先にメイドだけを倒して、強い絆で結ばれていた彼女たちを引き離してしまったせいで、あのユーリアって子は最強の能力に覚醒してしまったわけでしょう? その状況だけを考えても、私の作戦は明らかに悪手だったわ。さっき瑠衣が言ってくれたとおり、彼女たちとは、最後まで二対二を保ったまま戦うべきだったみたいね」
「こ、こんなときに、な、何を言ってるんですか……?」
今まで、どんなときでも強気な態度だったマリー。そんな『傲慢お嬢様』の彼女が自分の非を認めて誰かに謝っている。そんな姿を見るのは、瑠衣はこれが初めてだった。
「貴女の意見を聞けなかった自分の過ちを、反省しているのよ。ごめんなさい」
「だ、だから、今はそんなことどうでもよくって……!」
「それから……」
マリーは戸惑うように一瞬下を向き、すぐに瑠衣に向き直る。
「それから私は……貴女にもう一つ、言わなければいけないことがあるわ」
「マ、マリー……様……?」
彼女の緑色の瞳は、いつものようにエメラルドのごとく凛として、美しく輝いている。……しかし、なぜか同時にそこには薄い氷で出来た彫刻のような、脆く儚い雰囲気も含んでいた。
瑠衣は、その瞳に何か特別な想いがあることを感じ取って、言葉を失ってしまった。
「私は、ほら……自分で言うのもなんだけど、少し扱いづらい性格をしているでしょう? だからね。この戦いに参加して、最初に自分のパートナーとなるメイドを決めなければいけないという『設定』を知ったとき、実はちょっと、困ってしまったのよ。だって……こんな性格の私じゃあきっと、どんな人間をメイドに選んでも、うまくいかない。傲慢な性格の私は、きっとすぐにそのメイドを怒らせてしまって、愛想をつかされて一人ぼっちになってしまう。淑女とメイドのペアで戦いを勝ち進めることなんて、できなくなってしまう。……そう思っていたから」
マリーは、切ない微笑みを浮かべる。
「だから、この世界にやってきてすぐに、学校の教室で貴女を見かけたときに、こう思ったのよ。『ああ、ちょうどいいわね』……って。自分の机にラクガキをされて、黙々とそれを消しているような貴女なら……。この世界に誰も味方がいなそうな……最初から孤独で……すでにその孤独に慣れてしまっているような貴女なら……。きっとこんな私でも、文句も言わずに受け入れるしかない。『傲慢お嬢様』の私の命令にも、反発する勇気なんてない。気弱で、意気地なしで、一人ぼっちの貴女なら、私のメイドとしてちょうどいい……って。だから私、貴女を自分のメイドに選んだのよ。つまり……私は貴女のことを、心の中で侮辱していたの。最初に戦った貴女のクラスメイトと同じように、あのときの私は貴女のことを見くびっていて、バカにしていたの。……ごめんなさい。本当に、申し訳なかったと思っているわ」
「そ、そんな……謝らないでください!」
瑠衣は、マリーのその言葉は何も間違っていないと思った。
かつての自分は、小鳩をはじめとしたクラスメイトたちからイジメられ、孤独を感じていた。でも、何の取り柄もない自分ならそれでも仕方がない。自分に問題があるのだから、我慢しなければいけない。ずっとそう思っていたのだ。
マリーは、そんな自分をメイドに選んでくれた。何も持たない自分を、彼女のメイドにしてくれた。そのことに、自分がどれだけ救われたか。『傲慢』で、いつも偉そうで、傍若無人な彼女に辟易しながらも、瑠衣はずっと彼女に感謝していた。彼女のそばにいられることに。自分みたいな人間が、自信に満ち溢れた彼女のメイドでいられることを、誇らしく思っていた。
だから、そんな彼女が本当はどんな思いを持っていたとしても、自分には何も言う資格なんてない。メイドに選んでくれたマリーに自分が感謝することはあっても、マリーのほうが自分に謝る必要なんて、あるわけがない……なのに。
「……でもね、瑠衣」
マリーの微笑みが、我が子を抱く母親のように優しいものに変わる。
「貴女はそんな私の想像を、あっさりと超えてくれた。……最初の戦いのとき。貴女は、出会ったばかりで勝手なことばかり言っていた私のことを最後まで信じて、そんな私のために、自分の苦手なものと勇敢に戦ってくれたわね? それにその後の戦いでも貴女は、私の言うことをきくだけの、気弱な意気地なしなんかじゃなかった。貴女は……瑠衣はこれまで何度も、私には思いもよらないような行動をとって、私を驚かせた。そして、その戦いを勝利に導いてくれた。私が……いいえ、私たちが進むべき道を、瑠衣が導いてくれたのよ。私は、傲慢な自分の命令に黙って従ってくれるメイドとして、貴女を選んだはずだったのに……。いつの間にか、貴女の勇敢さに負けないようにと、私のほうが貴女の行動に引っ張られていることに気づいたわ」
「そんな、はずは……」
「貴女がいてくれたおかげで、私は今までのどんな強敵に対しても、諦めずに戦ってこれた。貴女が私のメイドになってくれたから、私たちは今までの戦いに勝つことが出来た。私たちがここまでこれたのは……瑠衣、貴女のおかげなのよ」
「マ、マリー様…………だ、だから、さっきから何を言ってるんですかっ⁉」
らしくもないマリーの言葉に、瑠衣は彼女の肩を掴んで、拒絶反応のように声を荒げる。
「そ、そんな……そんな変なこと言うの、やめてくださいよっ! そんな、そんなマリー様らしくないことを言うなんて……。『今まで』とか……『ここまでこれた』とか……そ、そんなのまるで……もうこれで私たち、最後みたいじゃないですかっ⁉ 私たちがここで負けちゃって、これ以上、先に進めないみたいじゃないですかっ⁉ な、なんで、もう諦めちゃったみたいなこと言うんですかっ⁉ そんなことないでしょうっ⁉ 私たちはこの戦いにも勝って、またこれからも、一緒に戦って行けるんでしょうっ⁉ だ、だから、そんなことを言うのは…………っ⁉」
そこで瑠衣は、気づいてしまった。
マリーがここに逃げてくるまでずっと、瑠衣に見えないように自分の背中に左腕を隠していたこと。そして今、その背中からわずかに、『白い霧』が漏れ出していたことに。
瑠衣は慌ててマリーの左腕をつかみ、自分の前に引っ張り出す。
すると……現れた彼女の腕は、肘の位置まで『白い霧』になって消えかかっていた。
「こ、これって……ま、まさか……」
「ふふ……。どうやら、さっき貴女に体当たりをしたときに、ユーリアの『右手』に触られてしまっていたみたいね。遠くまで逃げて彼女から距離をとれば、もしかしたら『霧』の症状も止まるかもしれないと思ったんだけど……でも、そんなに甘くはなかったわ。彼女の『触ったものを白い霧に変える』能力で体の一部でも触られてしまったら、その時点でもう、どこに逃げても意味はないみたい」
そう言うマリーの左腕は、今も徐々に侵食されていくように『霧』に変わっていく。肘までだったのはすでに肩まで広がっていて、やがてそれは胸や体にまで伸びていく。
「そ、そんな……そんな……」
だが彼女は、取り乱すことなく落ち着いた様子で喋り続ける。
「この戦いが終われば、戦いの中で負った怪我は治る。……でも、『白い霧』になって空気中にバラバラに散らばってしまっても、ちゃんと元通りになるのかしら? あの能力が、ユーリアが暴走したことによるイレギュラーなものだとすると……もしかしたら、一度『白い霧』になってしまったものは、もう元に戻ることなんて出来ないかもしれない。これが本当に、私たちにとっての最後になるのかもしれない。……そう思ったら、今までずっと言えなかったことを、言っておかなくちゃって思ったのよ」
「そ、そんな……そんな……。き、きっと、まだ何か、方法がありますよ! 今からでも、マリー様の『霧』を止める方法が……!」
「ねえ、瑠衣……」
もはやほとんど全身が『霧』化して、色味が薄くなってしまっているマリー。体がほとんど気体のような状態だからか、その声はかすれて、ひどく聞き取りづらい。それでも彼女は、変わらずに穏やかな笑みを浮かべていた。
「貴女は……いままで……自分のことを必要以上に……低く見積もって……自分が私のパートナーでいることに……引け目を感じているよう……だったけど……。それは……ひどい思い違いよ……? だって……私たちがここまでこれたのは……瑠衣、貴女のおかげなんだから……。貴女が……いてくれたから……こんな私でも……いままでやってこれた……。瑠衣が……私のメイドになってくれたから……私は……私のままでいられた……。私を『傲慢お嬢様』でいさせてくれたのは……瑠衣、貴女なのよ……?」
「マ、マリー様……」
瑠衣は、絶対に手放してはいけないくらいに大切なものをしっかりと抱きしめるように……。しかしそれと同時に、決して触ることの出来ない幻に触れようとするように、恐る恐るマリーに手を伸ばす。
しかし……。
「今まで……素直になれなくて……ごめんなさい……。それから……」
「い、いや……マリー、様……いや……」
「それから瑠衣……私のパートナーになってくれて…………ありが……」
次の瞬間。マリーの体は完全に『白い霧』に変わってしまった。
「っ⁉」
彼女に伸ばした瑠衣の手は、さっきまでマリーだった『霧』の塊をすり抜ける。それによって『霧』は拡散され、周囲の空気と混ざり合い、すぐに消えてなくなってしまう。
「いやぁぁぁーっ!」
あとに残ったのは、両腕で何もない虚空を抱きながら悲痛な絶叫をあげる、瑠衣だけだった。




