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「アカネって誰?友達?」
穏やかにサンは訊き返したが、シズクの悲しみが伝わってきて、心が締めつけられていた。失ってはいけないものを、シズクは失くしたのだとわかった。
「私は悪くない。だって、あんなこと、あの日ライブがなきゃ、起こらなかった」
サンの問いには答えず、声を震わせながら、シズクは言った。
サンはライブと聞いて、さっきのあいつはMAYのことなのかな、と推察した。
「何があったとしても、それはシズクのせいじゃないよ」
静かにサンは言った。苦しむ必要なんてない。大切な人を失ったら、悲しむだけでいい。
「そうだよ、私のせいじゃないんだ。私は悪くない」
何かから逃れるようにシズクは言って、上体を起こした。シズクが起きたので、サンはシズクから離れて、椅子に座った。
「シズク、ちゃんと話して。シズクが辛そうなの、見てられない」
「なんで?なんで、そんなこと言うの?」
シズクの瞳に狂気が見えた。猜疑心、怒り、恐怖が混ざっている。
「私のせいだって、思ってるんだろ!吐かせて、私を壊す気だろ!」
「思ってない、思ってない。話せばシズクが楽になると思ったの。何があったかもわからないのに、シズクのせいだなんて思えないよ」
笑みを浮かべながら、落ち着かせるようにサンは言った。
シズクは狂気の瞳のまま、でもサンの言葉に客観的にもなったようで、押し黙った。
「話して、シズク。何がそんなに辛いの?
それがわからないと、私も何もしてあげれない」
サンの言葉にシズクは、猜疑心に満ちた顔をして、それから何か理解したように目を丸くした。
「そっか。そういうこと。私に自白させて、訴えるんだ。私から何もかも奪う気だ」
「ないない、そんなこと。私が何をシズクから奪うの。奪われて困るもの、シズクにある?」
シズクはまた押し黙った。自分でも辻褄の合わないことを言っていると、何処か理解しているようだった。
「クソおやじ達と結託してーーー」
「ないってば。私とシズクのお父さん、そんな仲に見える?お母さんとだって、この前初めてあったんだよ?」
シズクは何かを抑え込むような顔をした。湧き上がってくる被害妄想を自分の中に留めているようだった。
シズクは強張った表情で、視線を落とし、それから何度か深い深呼吸をした。
「ごめん。私いま変だった。冷静になったら、そんなことあるわけない」
「うん、変だったよ。でも落ち着いてよかった」
シズクは、再び深呼吸をした。
「でも何があったかは話したくない」
「話さなくていいの?もう胸に抑えられなくなってるんじゃない?」
「話したって、何も変わらないし。アカネは戻ってこない」
悲しそうにシズクは言った。
「アカネって誰?友達?」
「姉だよ。ってやめて。話させようとしないで」
「はいはい。じゃあ今日はこの辺にしときます」
サンは言うと立ち上がって、掃除道具を取りにドアの方へ向かった。
「まぁ、いつか話すよ。気が向いたら」
サンの背中に、シズクは言った。
サンは、はーい待ってまーす、と言い、歩いていった。
「しっかし、ママさんもよくやるよな、シズクちゃんの為に店まで閉めて」
拓馬が言った。3人は、レイジのマンションまで歩いている。レイジの住むマンションは喫茶サンの近くにある。
「え?店閉めてたっけ?」
レイジが聞き返した。
「看板片付けてたろ。腑抜けてんな、MAYのせいで」
「逆になんで拓馬は冷静なんだよ」
「俺はファンじゃねーし。お前らみたいな感覚もわかんねぇ」
「でもMAYじゃなくても、誰かのファンだろ、拓馬も」
「バンドで成功するって決めた時にそういうのはやめたな。憧れとか尊敬持ってたら、いつまでもそのレベルにしかいられねーだろ」
「あー何かむかつく。馬鹿にしたー今私達のこと」
ショーコが少し拗ねたように言った。
「別にファンはファンのままでよくね?」
訝しそうに、レイジが言う。
「覚悟だよ、覚悟。俺はこういう人達と絶対肩並べる人間になるって。その為には、お前らみたいにキャーキャー言ってらんねぇんだよ」
「好きなものは好きでいいじゃん。俺は自分の好きなものは好きと胸を張って言える人間でいたい」
「MAYはいいけど、ママさんのことはもうやめてよ」
釘を刺すようにショーコが言った。
「もう今日のでわかったでしょ?」
「うーん、、、」
レイジはまだ諦めきれない様子だった。
そんなレイジを見て、拓馬が口を開いた。
「あー多分、ママさんとシズクちゃん親子だろ。お前それでもいいの?」
「いや、ママさん子供いないって言ってたじゃん」
「嘘に決まってんだろ。他人の娘の為に店閉めたりしねーって」
「え?シズクちゃんの為に閉めたの?」
「明らかにおかしかったろ、さっきシズクちゃん」
「そう?全然気づかなかった。ショーコは?」
「わかんなかった」
首を振って、ショーコは答えた。
「もっと周り見れるようになれよ、お前ら」
呆れた様子で拓馬は言った。
「シズクちゃん、なんかあったの?」
「わかんねぇけど、メンタルだろ。急に塞ぎ込むのは、前の彼女もそうだった。っていうかお前、ママさんのこと以外頭入んねーのかよ。シズクちゃんがメンタル病んでる話もしてたろ、俺とママさん」
「え?しらん、聞いてない」
「都合の良い頭してんな」
「愛だよ、ママさんへの」
ドヤ顔でレイジが言ったので、ショーコは引いた。
「本当にやめて。もう痛いだけだよ」
「ていうかさ、じゃあなんでママさんもシズクちゃんのお父さんも言わないんだよ。シズクちゃん可哀想じゃね?」
「メンタル病んでるからだろ。衝撃的過ぎんだろ。普通の人でも変になるぜ」
「そう?俺はママさんが母親っ言われたら嬉しいような?いや微妙か?」
「ちょっと気持ち悪いこと考えないでよ」
ショーコが眉間に皺を寄せた。
「え?何が?」
「はぁあ?言わせる?」
「いや、ホントにわかんない」
「もういい。でも拓馬が気付いて当のシズクちゃんが気付かないってあり得る?」
「なんだよな。ママさんと父親が知り合いの時点で考えそうだけどな」
拓馬は言って、宙を見上げた。
「よっぽど幸せだったのかな、シズクさんの家」
「幸せだったら、ああはならないだろ、シズクちゃん」
「まぁそうだね」
喫茶サンの2階の、シズクの部屋。ベッドの上でシズクはサンに膝枕をしてもらって、横になっている。
店を閉めた後、1人になることを嫌がるシズクに付いて、サンは部屋にあがっていた。
シズクの症状が酷かった1年半前は、よく
こうしてシズクが落ち着くまで、サンはシズクの側にいた。それは時に深夜過ぎまで及び、見かねたりえがサンの心労を心配して、シズクを病院に入院させることを勧めたほどだった。
サンの心労も心配だったが、それ以上にその頃のシズクは部屋で暴れて店の天井を響かせたり、突然店に怒鳴り込んできたりと、営業に差し支えることを度々していた。
りえは限界だと思ったが、サンはシズクを入院させることも実家に帰すこともしなかった。
サンが連絡を取りたがらないので、りえが哲也にシズクを引き取ってもらえないかと電話したことがあったが、哲也はシズクが自分で決めることですから、と取り合わなかった。
哲也の不干渉な対応に、りえはシズクが病んでしまったのは、両親の愛情不足なんじゃないかと、サンに言ったが、サンはそれはないと思う、と否定した。もしも両親の愛情不足でそうなるなら、自分だってそうなるから、と。
サンは、父親と母親を10代の頃に亡くしている。母親とは血の繋がりはなく、愛情に満ちた家庭ということもなかった。
母は愛情ではなく、世間体の為に母親らしくしている、とサンは感じていた。夫の浮気相手との子なのだから、そうなるのも無理はないと思っていた。自分は本当の母親ではないと、幼い頃から言われて育ったので、いつからか母親に愛情を求めることもなくなっていた。
そんな環境でも自分は病むことなく生きてるので、シズクが病んだ原因もそこにはないだろうとサンは思っている。
「サンってさ、兄弟いたっけ」
サンの太ももに頭を乗せて宙を見つめながら、シズクは言った。
「小さい頃に死んじゃってるから、いないのと一緒かな」
「そうなんだ」
「小さかったけど、私が死んでもお父さんとお母さんはこんなに泣かないだろうな、って思ったのは覚えてる」
「わかるもんなの?小さい頃に人の死とか」
「普通はどうなのかは知らないけど、私はわかってたよ。もう戻らないんだなって」
「ふーん。悲しくなかった?」
「仲も良くなかったし、悲しくはなかったけど、家が静かになって寂しかったかな」
「そっか。いっそ誰とも仲良くしなけりゃ、悲しみもなくて済むんだろうな」
「何よ、センチメンタルなこと言って」
フッと笑って、サンは言った。
「いいだろ。私だってそんな気分になる日もあるんだ。私は悲しいのが怖い。いつもどこかで、そうならないように生きてる」
「どんな別れだって、それで終わりじゃないよ。人はずっと繋がってるから。会えなくなったって」
「何それ、スピに目覚めたの?」
ハハッとシズクは笑った。
「スピって何よ。私の経験から言ってるの。私は今でも両親のことを感じることがあるし、2度と会えないと思ってた人とも再会出来たし、それって繋がってるってことでしょ?」
「思い込みとただの偶然じゃねぇの、それ」
「スピリチュアルの本よく読んでるのに、こういうことは信じないの?あ、スピってスピリチュアルのこと?」
「私が信じてるのは、この世界は私の為にあって私が創ってるってことだけだよ」
「なら矛盾しない?どうして悲しみが怖いの?シズクが創ってるなら」
「エラーみたいなもんだよ。私はまだ完全じゃないんだ。でも悲しみもいつかは消えてなくなる。完全になれば」
「なら怖がらなくていいじゃない。いつかはなくなるんだから」
「それは死ぬのは怖くないって言うのと同じだよ。ただの馬鹿だ」
「そう?私はいつ死んでもいいって思って生きてるよ。その為に後悔しない生き方をしてる」
「真面目にコツコツ働くことが?私ならストレス死するよ、そんな生き方」
「そりゃ、したくないことしてたら、私だってそうよ。私はやりたいことをやってるから」
「なら私と一緒じゃん」
「シズクはもう少し、人に優しく出来ればね。人に優しくするのは自分に優しくすることだから。自分に優しく出来れば、人にも優しくなれるしね。シズクが辛くなるのは、そういうところもあるんじゃないかな」
「私はそんなヤワじゃないよ」
「膝枕してもらって、よく言えるね」
可笑しそうにサンは言った。
「優しくされなくたって私は気にしないってことだよ。だから別に私も優しくしない」
「でもシズクは優しさの中で生きてるよ、間違いなく」
「はあ?どこが」
棘のある声をシズクは出した。シズクが優しさを感じたのは、姉のアカネだけだった。アカネのいない世界に優しさなんてない。
「自分が私に優しくしてるって言いたいの?」
苛立だしげに、シズクは言った。
「違うわよ。みんながシズクには優しいの」
「どこが?酷いもんだよ、クソおやじもマザーも。サンが知らないだけでさ」
「シズクが気づいてないだけ。優しいよ、シズクのご両親は」
「わかんないだろ、そんなのサンに」
「それでも信じてみて、私の言ってること。きっとそんな風に思えてくるから」
「ないない。一生ないよ、そんなこと思うなんて」
皮肉っぽくシズクは言った。
「いつかはわかるよ、必ず」
「ないって」
サンはそれ以上は何も言わず、黙ってシズクの頭を撫でた。
シズクは心地良さを感じて、でもそれがサンの優しさだとは認めず、当たり前の感じがした。サンが自分にこうするのは、私の為じゃなくサンに何か理由があってしているのだとシズクは思った。見返りがあるから、していることだと思った。
無償ではない。でも、サンといると心は落ち着いた。矛盾している。無償ではないと思い込んでいるだけなのだろうかと、シズクは思った。
認めたくないだけ?でも何故認めたくないのか、わからない。
「よくこうしてたね、シズクが酷かったあの頃は」
不意に、サンが言った。
「あー、そうだな。散々罵詈雑言しといて、これされると大人しくなった」
「そうそう。はいシズク頭って、よく座りながら言ったね」
「落ち着いたんだよね、何故か。理由はわかんないけど」
「別にいいじゃない、わからなくても」
鼻を啜って、サンは言った。
「まぁ、そうだけどさ」
シズクは言って、少し黙った。束の間の静寂。サンはシズクの頭を撫で続けている。
シズクの心で何かが優しく溶けた。
「あのさ、あの時、私を追い出さないでくれて、ありがとう。もし病院か家に帰ってたら、もっと酷くなっていたと思う」
「なんとなく私もそんな気がした」
「私、多分サンがいないと駄目なんだよ、理由はわかんないけど」
「なによ、気持ち悪い」
冗談っぽくサンは言った。
「いなくならないでね」
真剣な口調で、でも寂しげにシズクが言った。
「ならないわよ。私は急にいなくなったりしないから。心配しないで」
「わかった」
シズクは言って、瞳を閉じ、頭を撫でるサンの温もりを感じた。