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間に合わない、奪ってやる、バカにされる、おかしい、気持ち悪い。
ベッドで寝ていると、天井からネガティヴな言葉が降ってきた。
シズクは眉を顰めて、目を瞑った。
ストレスが重なったり、疲れたり、感情が揺れたりすると、声ははっきりと聞こえる。
誰もいない部屋の中。シズクにしか、わからない。
声が聞こえだしたのは、高校生の頃だった。
はじめは、幽霊に囁かれているのだと思った。アメリカの霊能力者が主人公のドラマを見ていたから、自分にもその能力が開花したと、ポジティブに考えていた。
だが、声は次第に絶妙なタイミングでシズクをネガティヴな気持ちにさせることを言うようになり、そのせいでシズクは少しずつ、心を病んでいった。
ある朝、目覚めると部屋の中で大人数が話しているような、ざわざわした話し声が響いて、シズクは怖くなり、母の静子にそのことを話した。
静子は心配などせず、すぐにシズクを精神科の病院に連れていこうとした。
だが、哲也がそれを止めた。
シズクはおかしくない。シズクの魂の波動があがっただけだ、と哲也は言った。
そういう時、人は普段では見えないものや聞こえないものを感じるようになるのだと言われ、シズクはそうなのだと、思うことにした。
自分がおかしくなっただなんて、認めたくなかった。
声は途切れ途切れにぼそぼそと、シズクに何かを言ってくる。
こいつだ、お前のことだ、可哀想、まただ。
シズクの思考に反応して言ってくることもあれば、何の脈略もなしに、言ってくることもある。
声が聞こえ出した時は、声の言うことに何か意味があると思ってその度に思考を巡らせたが、今はもう考えるのは止めにしている。
何の意味もない。そう思えば、声に惑わされて悪戯に不安になることもない。
シズクはワイヤレスイヤホンを耳に入れた。
何かに集中すると、声は止む。
睡眠用BGMを聴きながら瞑想して、何も考えないようにする。
水の流れる音とピアノの音が静かに耳に響く。
しばらく思考は止んでいたが、不意にある考えがよぎった。
サンは私の母親だ。
直感と確信を感じた。夕方に溢れてきた感情のわけはきっとそうだ、とシズクは強く思った。
そんなこと、考えたこともなかった。そうであればいいと思ったことすらない。
でも今はもしそれが現実なら、自分の人生は救われるのではないかと思った。
本当の愛を感じられれば、自分は変わっていけるかもしれない。
溢れてくる想いを、シズクは止められなかった。
シズクはイヤホンを外し、サンに電話を掛けた。
胸が高鳴っている。
10秒ほど呼び出し音が響き、サンが出た。
「もしもし?」
サンは訝しげだった。
「サン、あのさちょっと聞いて」
シズクの声は、うわずっていた。
「何?」
サンは煩わしげに聞き返した。
「サンってさ、私の母親じゃないの?」
沈黙。
やっぱりそうだと、シズクは思った。サンはどう答えればいいのかわからないのだと、思った。
胸の高鳴りが最高潮に達するかと思った時、サンが溜息を吐いた。
「シズク」
サンは苛立しげだった。
「え?何?怒ってる?」
「ちゃんと薬飲んでる?」
「飲んでるよ。いや、最近はどうだろう」
「いますぐ薬飲んで」
「どうしてだよ」
サンが何故そう言うのか、シズクにはわからなかった。
「私はシズクの母親じゃないって、今まで何回も言ったこと、また忘れたの?」
「覚えてない」
シズクは思い返してみたが、そんな記憶は何も思い出せない。
「なんでこの特定のことだけ忘れるのか、先生も原因はわからないって言ってたけど、そのことも覚えてない?」
「思い出せない。本当に。なんだよそれ、こわっ」
「とにかく冷静になって。薬飲んで、しっかり眠って。わかった?」
「わかった」
シズクは眉を寄せて、記憶を辿り続けたが、サンと話した記憶も、先生の記憶も出てこなかった。
「じゃあ、電話切るよ。おやすみ」
サンは急かされているかのように、電話を切った。
シズクはスマホをベッドに置くと、ぼーっと宙を見つめた。
私は一体、どうしてしまったんだろう。