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ありがとうございました。またよろしくお願いします、というマスターの愛想良い声を背に、4人は外へ出た。
店内の温かい空気から、夜のひんやりした空気に触れて、シズクはスンと肌が引き締まるのを感じた。
レイジへの嫌がらせでたらふく食べたので、お腹はパンパンに膨れていた。レイジはフーッと息を吐いてお腹を触るシズクを白い目で見つめている。
「じゃあ、ショーちゃんに言っとくわ。明日にでも様子見に行かせるから」
酔っ払ったぬるい口調で、りえがサンに言った。
「急がなくていいよ。急だとショーコちゃんも困るだろうし。帰ってすぐ言っちゃ駄目だよ。酔っ払いの言うことなんて、親でも聞きたくないから」
りえとは対照的に、ほとんど酔っていないサンが冷静に言うと、わかってまーす、とりえがテンション高く応えた。
シズクは2人のやりとりを片耳を立てて聞いていたが、後から入ってきたサラリーマン集団の喧騒のせいで、途切れ途切れにしか話の内容はわからなかった。
どうやら、りえの娘のショーコが喫茶サンで働くことになるらしかった。ショーコは今、モデルのバイトをたまにやる程度で他は何もしていないらしい。以前メイド喫茶で働いていたことは、シズクも知っている。働いていないシズクをショーコは蔑んでいたが、シズクが冷やかしで店に来たことにブチ切れたことをきっかけに、メイド喫茶は辞めていた。
「家で料理でも作って花嫁修行でもしとけばいいのにな、働きたくないなら」
シズクは自転車の鍵を開けようとしていたレイジに言った。
「え?何の話?」
「ショーコの話」
「ああ。まぁ働かずに好きなことだけやるのは、どうだろな。バンドで成功したいなら、人間力も磨かなきゃいけないし」
レイジは言って、自転車の鍵を開けた。カシャンと音が響く。
「つまんねーな。マトモなこと言うなよ」
ガッカリ、と言った表情でシズクはレイジを見た。
「言ったところでクズ呼ばわりしたでしょ」
「えー!しない、しない!」
シズクは笑いながら、わざとらしく右手を顔の前で振った。焼き鳥屋にいる間、シズクはあらゆる角度からレイジをクズ扱いしたので、流石にレイジもへこんでいた。へこむレイジを見るのが、シズクは面白かった。
「わざとらしっ」
レイジは溜息をついて、それからシズクの向こうでりえと話しているサンを見つめた。
「なんか避けられてたな、俺」
消沈した様子でレイジは言った。
シズクはレイジの視線を追って、にやりと笑った。
「気にし過ぎだって。元から相手にされてないし。そんなわかりやすく態度に出さないよ、サンは。あんたには最初から興味ないすよっ!」
シズクは言って、ポンッと、レイジの肩を叩いた。
「露骨にトドメ刺したね」
「慰めるわけないじゃん。不純過ぎるんだよ、お前」
悪魔のような笑みを浮かべて、シズクは言った。
「下心くらい、男なら持つだろ」
「だったらそれらしく振舞えよ。初恋の相手みたいに言ってさー」
シズクはまたレイジをからかおうとしたが、不意に後ろから頭を叩かれたので、頭を右手で抑えて振り返った。
サンが、呆れた顔で後ろに立っていた。
「なに?」
「あんた、自分は働かないのはいいけどさ、人が働いてるの面白がるって、性格歪みすぎ」
何の話だ?、とシズクは一瞬わからなかったが、サンの後ろでりえが両手を合わせて謝っていたので、察した。
「ショーコのこと?別に遊びに行っただけだし」
「どうせメイドで接客するショーコちゃん見て、けたけた笑ってたんでしょ」
「してませんよー」
ほっほっほっ、とシズクは笑った。図星だ。
「なんであんたはそうなの」
サンはシズクの両肩を掴んで、揺らした。
「辞めると思わないじゃん。あれくらいのことでさ」
揺らされながら、ふざけた調子でシズクは言った。
「あんた人一倍メンタル弱いくせに、なんで人に優しくできないの?」
サンは言いながら、涙目になっていた。
「ええー?泣いてる?酔ってんの?」
シズクは少し驚きながら、言った。
サンは両手をシズクの肩から離すと、俯いた。
「シズクにはさ、もっと人の気持ちのわかる人間になって欲しい」
「いや、親ですか私の。親でも聞かないけどね。私は私のままで生きると決めている。親に言われて変わる齢でもない」
諭すように、シズクは言った。
シズクの言葉にサンは濡れた瞳で真顔になった。そのままじっとシズクの顔を見つめる。
「なに?」
見つめられて、シズクは少したじろいだ。
「人の気もしらないで」
怒ったようにサンは言うと、スッと踵を返して、りえの方を向いた。
「意味わかんないし」
戸惑いながら、強気にシズクは言ったが、サンはシズクを無視して、そのままスタスタ歩いていった。りえが自転車を押して、その隣につく。
「それじゃ、おふたりともおつかれー」
肩越しに振り返って、りえは言い、そのままサンと並んで歩いていく。
レイジはお疲れ様です、と2人の背中に言ったが、シズクは黙ったままサンの後ろ姿を見つめていた。
どうしてか湧いてくる罪悪感にシズクは戸惑っていた。何故サンが怒ったのかもわからないし、サンを怒らせたことは今までも何度かあった。毎度怒るサンをせせら笑って、ふざけていたが、今回はそんな態度を取れなかった。怒らせたというより、傷付けてしまった感じがした。でもどうして。一体何にサンは傷付いたのだろう。捻くれた人生観なんて、今まで幾らでも話してきたのに。
「綺麗だ」
思案しているシズクのことなど気にも留めず、レイジがサンの後ろ姿を見つめながら、恍惚と言った。
「他人の娘に涙まで見せて、親のように注ぐ無償の愛」
「そんな大層なもんじゃねーよ」
素っ気なく、シズクは言った。
「いいなー、やっぱりママさん。心が綺麗だ」
シズクの声など耳に入らぬ様子で、レイジは1人浮かれている。
シズクはレイジを放っておいて、自転車の鍵を開け、跨った。サンにしてもらっていることが、シズクには特に特別だとは思えなかった。サンの性格からすると、当たり前のようにシズクは感じていた。だから何も遠慮する必要がない。
「じゃあな、私も帰るよ。また奢れよな」
レイジの方は見ず、左手だけあげて、シズクは自転車を漕ぎだした。
「あーお疲れ」
礼もなしか、とレイジは思いながら、シズクを見送った。
コンビニに寄ってから帰ると、店の窓から明かりが漏れていたので、シズクは鉄階段の下に自転車を置くと、何の気もなく店へ向かった。サンの白い自転車が、ドアの側に停めてあった。
カランとドアを開けて中を覗くと、テーブル席に座っていたサンが首を伸ばして、ドアの方を見た。
入ってきたのがシズクだとわかると、サンはテーブルの上のスマホに視線を戻した。
「なにしてんの?」
テーブルに向かって歩きながら、シズクは言った。
「酔い覚まし」
それだけ言って、サンは黙った。
シズクはコンビニの袋をテーブルに置き、サンの前に座ると、袋からおはぎを取り出した。
「まだ食べるの」
パッケージの袋を割いているシズクを見て、サンは言った。
「ああいうお店で食べるとさ、甘いもの欲しくなるんだよ」
シズクは言って、おはぎをパッケージから出した。
「まぁシズクは痩せてるし、丁度いいか」
「食べても私は太りませーん」
したり顔をして、シズクはおはぎにパクついた。
「若いうちだけですよ」
静かにサンは言って、テーブルの上のマグカップを口に運んだ。
シズクはおはぎをもぐもぐやりながら、サンをじろじろ見た。
「何?」
怪訝そうに、サンは言った。
シズクはごくんと、おはぎを飲み込む。
「性的対象になるんだって」
真っ直ぐサンを見て、シズクは言った。
「誰が、誰の」
くだらない、と言った様子で視線をスマホに落として、サンは言った。
「サンを見てエロいこと考えてるらしい。レイジが」
シズクは言って、意地悪く笑った。
「やめてぇ」
嫌そうにサンは言い、苦笑した。
「聞きたくない、聞きたくない」
「うぶな反応」
にやにやとシズクはサンを見た。
「そんなんじゃないよ。そんな対象にならないし」
「えー若い方がいいんじゃないの?」
「ないない。私はない」
「じゃもうレイジには何の希望もないな。肉欲的にサンが求めるのが唯一の希望だったのに」
「ありません。万に一つも」
きっぱりサバサバと、サンは言った。
「出禁にしちゃえば?目障りだろ」
「食べて帰ってくれる間は何もしない。今までもいたし、そういう人」
「ここで迫られたの?こわ」
「違う。想いを寄せてくる人。そんな欲丸出しで来る人いないよ」
「そんなの隠してるだけでさ、欲しかないって男なんか」
「それが目的じゃない人もいます」
「もはや男じゃねぇよ、それは」
シズクの言葉に、サンはフッと吹き出した。
「随分偏ってるね」
「えーサンが夢見な乙女なんじゃないの」
「いました。そういう人。シズクは実体験ないでしょ?」
「あーよくないですよー、そういう決めつけは。偏見を生みますよー」
「あんた偏見だらけじゃない」
「偏見じゃなく事実ですぅ。私の見る世界は私が創り出す私だけの世界ですから」
「何それ」
「私は私の世界を生きている。他人の世界なんて別世界だよ。私の信じることが世界のすべてだ」
「ちょっと、またおかしくなってるの?」
「なんで。普通だよ、私は至って」
「薬ちゃんと飲んでる?」
「飲んでるよ。今はわからなくても、いずれは私の言ってることが常識となる」
「明日病院行こうか」
「大丈夫だって。明日日曜じゃん。病院休み」
したり顔で言うシズクに、サンはもどかしそうな顔をした。
「ほんとに大丈夫なの?」
「だいじょうぶ」
シズクは左手をあげ、掌をサンに向けた。
「すっごく不安なんだけど」
「私はまともです」
自信たっぷりにシズクは言い、食べかけのおはぎをまるごと口に入れた。
「まともな人は自分のことまともって言わないよ。人なんかどこかが変わってるのが普通なんだから」
シズクはおはぎをもぐもぐやりながら、んーんーんー、と何か言ったが、当然何を言っているのかはわからなかった。
「飲み込んでから喋って」
呆れてサンは言い、マグカップを口に運んだ。
シズクはおはぎを飲み込むと、すくりと立ち上がった。
「自分で自分のことまともと思わないで、誰が思うんだよ」
語気を強めてシズクは言うと、きつくサンを見てから、コンビニの袋を掴んで席を立った。
ずんずん歩いてドアまで歩き、カランと音をたてて勢いよく店を出ていくシズクを見ながら、サンは、何よ、と呟き、やっぱり月曜日に病院に連れて行こう、と思った。
1年半前のようなことは、もう繰り返したくなかった。
ガンガンガン、と不機嫌に鉄階段をあがり、乱暴にドアの鍵を開け、シズクは部屋に入った。
スニーカーを脱ごうと踵に手を伸ばした瞬間、頭が痺れ、ほらね、と耳元で誰かが囁いた。
一瞬シズクは表情を強ばらせたが、すぐに心を落ち着かせて靴を脱いだ。
スリッパを履き、ベッドまで歩く。
おかしい、おかしい、と頭の上を声が追いかけてくる。
ローテーブルの上にコンビニの袋を置き、スリッパを脱いでベッドにうつ伏せに倒れ込み、頭を抱えた。
だから言ったのよ、と耳元で一際声が大きくなる。
タオルケットに顔を埋めながら、シズクは心を落ち着かせて、無意味無意味何の意味もない、と自分に言い聞かせた。
声は聞こえなくなり、夜の静寂が戻る。
しばらくシズクはベッドの上で動かず、知らぬ間に憔悴していた心と体を休めた。
シャッターを下ろす音と、自転車のスタンドをあげる音が外から響く。
「しつこいんだよ」
シズクはひとり呟いた。