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「わぁ、食パンがいっぱいあるねー」
喫茶サン店内のカウンターの中で、ショーコが袋に入った三斤のパンを持ちながら、言った。
「カフェなんだから当たり前だろ。っていうか、いつも来てたし、バイトもしてたんだから、そこにあるの知ってんじゃん。キャラ変わりすぎだし、あんた別人がすり替わってんじゃないの?」
カウンターに両肘をついたシズクが、疲れた顔で言った。2日何も食べていないので、少し頬が痩せている。サンを失った悲しみと寂しさは、呼吸をする度に全身に波紋を起こし、店内の何処かしかこにサンを感じる度、涙が溢れそうにる。
ショーコが持っている三斤の食パン。閉店が近づくと、サンは翌日の分を切り分けていた。そんな他愛ない記憶達がシズクの頭に浮かんでは、サンがもういない現実をシズクに訴え続いている。悲しみから逃がさないように。閉じ込めてもう、2度とシズクに幸せを感じなせないように。
もう幸せはなくなったんだよ、と悲しみに言われている気がした。
「バイトしてる時はカウンターの中入らなかったしぃ、お客の時はそんなの見てないしぃ。私はずっと私だよぉ?すり替わってなんかいないよぉ?」
ショーコが背中を向けて言ったので、シズクは何故がゾッとした。心が弱っている時は、自分で考えた妄想に囚われて、本気で怖くなってしまうことがある。
病気の症状が酷かった時は、本気でサンや哲也や静子が他人とすり替わっていると思い込んでいた。
サンはそんな自分と根気よく向き合ってくれていた。私がもしすり替わった他人なら、シズクにここまですると思う?他人なんだよ?シズクのこと救いたいって思ってなきゃ、こんなことしないから。
サンは真っ直ぐ見つめてきて、そう言った。あの時はまだ、サンが母親だとは知らなかったけれど、、、。
「あれ?」
シズクの頭の中で、塞がれていた記憶が流れ出した。走馬灯のように、記憶が流れていく。
「どうしたの?」
ショーコが肩越しに振り返って、言った。
「私、何度もサンに私の母親じゃないかって、聞いてんじゃん」
シズクは愕然として、言った。
「あー、うん。お母さんもそう言ってたし。シズクさん、それママさんに聞く度に記憶なくすって」
「それは覚えてるんだけど、本当に今まで記憶なくてさ、全然信じてなかった。何これ、意味わかんない。こわっ」
奇妙な体験に恐怖を覚えながら、シズクはサンへの疑問を抱いた。
なんですぐ、母親と認めてくれなかったんだろう。すぐに認めてくれたら、もっと長く親子としての時を過ごせたのに。
シズクは肩越しに振り返り、窓際のテーブルに座って、煙草を吸いながら外を眺めている哲也を見た。
哲也からサンに聞いてもらおうかと思った時、哲也が白い煙を吐いて、それから口を開いた。
「はじめてシズクに母親じゃないかと言われた時、翌日に本当のことを話すつもりだったらしい。でもシズクが記憶を失くしていたから、言ってはいけないことなんだと思ったようだ。シズクが本当は知りたくなくて、記憶を失っているんじゃないかって」
「それ、今本当にサンが言ってんの?前にサンから聞いたこと今言ってるみたいに言うインチキじゃないの?さっきりえさんに言ったことも、サンが私に何かあったらりえさんに伝えて欲しいって死ぬ前に言ってたことだし」
訝しながらシズクが言うと、哲也は苦笑いを浮かべた。
「自分の娘にまで疑われるか、、、」
「私を娘と思ったことあんのかよ。ろくに話もしてこなかったろ」
「シズクも話したくなかっただろ。お互い様だ」
「逃げやがって」
シズクはチッと舌打ちすると、前を向き、ショーコを見た。
ショーコは包丁を手に持ったまま、三斤の食パンと睨み合っていた。
「そこに切り分けてるやつない?」
シズクが言うと、ショーコは棚に積まれた三斤の食パンの中から、それを見つけだした。
「あるぅーっ」
ショーコは切り分けられた食パンの入った袋を棚から取ると、留められたゴムを外した。
「早く焼いて。腹減って死にそう」
「死のうとしてたくせにー」
ショーコは言いながら、切られた食パンを2枚、トースターに入れた。
ジジジシ、とトースターの音がする。
シズクはショーコの背中を見ながら、サンがショーコに憑依して話してくれないかと、変な期待をしていた。
哲也と話しているということは、側にはいる筈だ。ショーコの口からでもいい、サンの言葉を直接、聞きたかった。
自分はこれから、こうして一生、サンを探し、求め続けるのかと思った。誰かの言葉の中に。誰かの姿の中に。時には歌詞や本の中に。そして喫茶サンの中に。
嫌だ。そんなの嫌だ。とシズクは思った。
直接話したい。声を聞きたい。抱きしめてもらいたい。膝枕をしてもらいたい。
触れていたい。温もりを、呼吸を、後ろ姿を、すべて、サンのすべてをもう一度感じたい。
シズクの目からまた、涙が溢れてきた。
鼻を啜っていると、肩をポン、と哲也が叩いた。
「なんだよ」
手で口を抑えて肩越しに振り返ると、哲也が掌を上にして差し出していた。
掌の上には、白い花のネックレスが乗っていた。
「友香からだ」
哲也はそう言い、ネックレスを乗せた右手をシズクに近づけた。
「なに?いつもらったの?」
「シズクが幼稚園の頃だ。シズクの誕生日にあげてくれと、頼まれた」
「はぁ?なんでそれを今」
「覚えてないか。その時シズクに俺からのプレゼントとして渡したが、いらないと言って床に投げ捨てたんだ」
「やるな、幼稚園児の私。そりゃくそオヤジからのプレゼントだもんな。いや、全然覚えてないよ」
「静子はめざとく友香からの贈り物と気づいていたから、すぐにそれを拾ってゴミ箱に捨てた。俺がそれをまた回収して、友香に返したんだが、いつかシズクが大人になった時にもう一度渡してくれと頼まれた」
「そうなんだ、、、」
シズクは哲也の掌から、ネックレスを取った。
哲也からネックレスを返された時のサンの気持ちを思うと、胸が締め付けられた。
「最悪だな、私」
「知らなかったんだ、仕方ない」
「ごめん、サン。ごめんーーー」
シズクはネックレスを握って胸にあて、涙を流した。
「オステオスペルマムだそうだ」
「なに?」
「その花の名前だ。花言葉は、変わらぬ愛」
シズクは声をあげて泣いた。
ずっと、ずっと、注がれていた。
遠い場所から、離れてからもずっと。
生まれてから、ずっと。
そばにいなくても、変わらぬ愛。
この世を去っても、こうして届けてくれる。
「友香が死んだ日の朝、夢を見たよ。俺にシズクを預けた時の白いワンピースを着て、腕には赤ん坊のシズクを抱いて、微笑んでいた。俺にシズクを渡すと、友香はよろしくね、と言った。俺の腕の中のシズクは、大人になっていた。友香は眠っているシズクの頬に手をあてて、じゃあね、と言って去っていった。その時、死んだとわかったから、あの日は講演会があったんだか、途中でやめてここへ来た」
「預けんなよ、2度も。こんなくそオヤジに」
「今度は預かるつもりはないがな。もう1人で生きろ、シズク」
「無理に決まってんだろ」
鼻を啜りながら、シズクは言った。
「生きなきゃいけない。俺は何もしてやれない」
「どうやって生きんだよ!サンもいない、1人ぼっちで、おまけに病気だ!」
「私がいるよ!」
ショーコが陽気に言って、カウンターにトーストを乗せた皿を置いた。
「あんたとどうやって生きてくんだよ、2人ともプーで、あんた家追い出されんじゃん」
「なんとなーる、なんとかなーる」
ショーコは右手の人差し指をシズクに向けて、指先でくるくる円を描きながら、言った。
哲也はショーコに話の腰を折られて、溜息を吐いた。
「金は出す。どうにか1人で生きてみろ」
「はあ?ビビらせんなよ、金がありゃ生きてけるに決まってんだろ。紛らわしい言い方すんなよ」
「よかったねー」
ショーコは、ニコニコ笑って言った。
「ここはどうする?ここにずっと住む気なら、買取ってやるぞ?」
「あー」
シズクは店内を見渡した。
隅々まで、ここにいるとサンの面影が溢れてくる。
それは大切に守らなければいけないようで、もう無意味にも思えた。
面影が浮かんだところで、もうサンは戻ってこない。
「いや、いいよ。ショーコと部屋借りて暮らすから」
「いいのか?」
「いいよ。ずっとここで悲しむのは、私じゃない」
「そうだよー。シズクさんなら、すぐ立ち直れるよ」
「軽いな。すぐってわけにはいかないだろうけど、まぁ頑張ってみるよ」
シズクは言ってトーストを手に取り、ひと口齧った。久しぶりの食事。トーストが空洞に落ちていく感じがする。
「なあ」
シズクは窓際のテーブルに戻ろうとしていた哲也を呼び止めた。
「なんだ」
「サンに、DON'T WORRY ABOUT SIZUKUって伝えて」
「それは無理、だそうだ」
「即答かよ!」
シズクは笑って、またトーストを齧った。




