*速水エンド
部長はランチ後、そのまま予定だった金沢へ出張に行った。
私も社に戻って立て込んでいた仕事を夢中で片付けていったけど、週の半ばには余計な事を考える暇ができてしまった……。
暇ができると日曜の事を考え、そうなると何も手につかず、会社で貰った20周年記念のボールペンを転がしていた。
コロコロ、コロコロ……。
藤ヶ谷君が告白? いやいや私達は担当違いの推し仲間。
友情であって、愛情とかでは……ないはず。
なんて言って断ればいいのか。
断る? 私、断るって。部長を選ぶの?
「あの……宮瀬さん。それ、楽しいですか?」
「いや全然……。ひぎゃっ! 藤ヶ谷君!! お、おかえりなさい!! 暑かったでしょ? 冷蔵庫に新商品のビール冷えてるよ。今から藤ケ谷君用の聞き取りできる?」
一心不乱にペンを転がし続けていたら、不思議そうに藤ヶ谷君が見ていたことに気が付かなかった。
私は慌ててペンを片付けて新商品のビールの話に変えた。
今は来年の夏用のビールの開発時期。早速試作したので、味のレポートを開発から依頼されていたのだ。
「北ヨーロッパ向け改良案でしたね。C会議室空いてますから、そこでやりましょうか?」
藤ヶ谷君は完全に仕事モードだ。タブレットに持ち替えて颯爽とC会議室に向かう。
私もノートPCを持って追いかけた。
※ ※ ※
向こうのおつまみを想定した輸入もののポテチや缶詰をお供に、藤ヶ谷君はビールを飲む。
「えーと。苦味はOKで、もう少し後味がすっきり、と。他は?」
「北は夏といっても湿度も低くて暑く感じないから、料理も日本ほどさっぱりに拘っていません。秋に出してるビールみたいなふくよかな味が向こうの料理にも合うと思います」
私は藤ヶ谷君の言葉を入力していく。
これを開発部へ提出すれば、今日の仕事は終わりだ。
「秋かぁ。夏に比べて秋だと涼しくて、食べるものも違うしね」
夏は暑くて湿度も高いから喉越しや飲み口に拘っているけど、秋なら向こうの湿度や涼しさに似ているかも。
「サーモンなら向こうも食べてますし、こちらでもイメージしやすいかと」
確か速水部長が連れていってくれたお店、サーモンの包み焼きが美味しかった。
ほうれん草入りクリームソースとサーモンをパイ皮で包んで焼き上げたものだった。
「そうだね。日本の白鮭とサーモンって違いはあるけど、開発にとってはイメージしやすいかも」
私は付け加えてファイルを閉じた。
ちょうど二人きりで、明日は土曜日。
今日を逃せば、顔を見合わせて伝えるチャンスはない。
ノートPCを閉じて顔を上げると、グラスや食器を片付けて会議室を出ようとする藤ヶ谷君を呼び止める。
「待って! 藤ヶ谷君。私……日曜日行けなくなった!」
勢いで一息に言ったら、藤ヶ谷君は少し驚き、泣きそうな顔になる。
長くはない付き合いの中、初めて見た表情にとてつもなく申し訳ない気分になり、もう少し気遣いのある場所や断わりの言葉を選べばよかったと心底悔やんだ。
「そんな顔しないでください。僕は“ケイ”の事話してる時の宮瀬さんが大好きなんですから」
私もひどい顔をしていたか、またいつもの藤ヶ谷君に戻った。
年下なのに気を遣わせちゃった。
「ゴメン。ほんとにごめんなさい。でも嬉しかった。藤ヶ谷君の気持ち。ありがとう」
いろいろな事にゴメンを重ねる。
年上なのに気遣えなくて、気持ちに応えられなくて、せっかく推し活仲間にもなれそうだったのに。
でも、藤ヶ谷君が来てくれたから、私は部長に応えようと思ったんだ。
だけどこれからも同じ会社で働く以上、もう推し活も一緒にはできない。
「短い間だったけど、推し活、一緒にできて楽しかった」
「……残念だけど、仕方ありません。宮瀬さんがファンを辞めることはないんですから」
私は少し笑ってこくりと頷き「どこかのライブで一緒になったら、また……」と言いかけたら、藤ヶ谷君から抱きしめられた。
「ふ、藤ヶ谷君?」
私は痛いくらいに抱きしめられて、身動きもできないまま押しのけようとして、やめた。
ほんの少しで気が済んだのか、藤ヶ谷君はゆっくりと解放してくれた。
「すみません。今日はもう帰ります。来週にはちゃんと同僚の“藤ヶ谷祐一”に戻りますから。今日だけは許してください」
私は初めてライブのチケットを無駄にし、推し仲間を失い……。
誰かをひどく傷つけてでも、欲しかった人を選ぶ情熱があった事に気が付いた。
※ ※ ※
髪も整えた。服装はハズしてないと思う。
メイクも……まあまあ。手土産は杜山君と藍野さんに聞いたから、きっと大丈夫。
後は私が行くだけなんだけれど。。。
がくんと衝撃が加わったかと思うと、地下鉄は急停止。
『ただいま緊急停止ボタンが押されたため停車中です。お急ぎのところ大変申し訳ござません』
と、無常の車内案内が流れた。
日曜の午後に地下鉄が止まるとか、途方にくれるしかない。
詰んでる? いやいや。ここで何とかするのが営業というもの。
「あと2駅。どうしよう?」
約束の待ち合わせ時間まで、あと20分。
地下鉄が止まるとき、長引く場合はと長引かない場合の2種類がある。
私は長年の感で長引くタイプと決定し、電車を降り、改札を抜けて、急いで地上に出た。
案の定、タクシープールには長い行列ができ、バスにも行列ができていた。
今日は日曜日だと言うのに。
「こういう時は、少し離れて大通りからタクシー拾う方が早い、でしたよね。速水部長」
私は初めて速水部長と営業に出た日、一緒にプレゼンに同行した日に教わった事を思い出す。
キョロョロと大通りを目指して歩を進め、手を挙げてタクシーを止めて、待ち合わせの麻布十番駅で降ろしてもらえば、速水部長が花束を持って私服で待っていた。
「速水部長! すみません、遅れました!!」
「宮瀬。私でいいのか?」
「私、部長がいいです。だけどその前に誤解を解かせてください!」
私は部長がホテルで私と藤ヶ谷君を見かけた件だ。
「あの日は私と藤ヶ谷君だけでなく他に5人ほどいて、“シートベルトズ”ってユニットのデビュー5周年のお祝いをしていたんです。部長が考えているような事はありません」
速水部長は安心した表情で「そうだったのか……。なら藤ヶ谷に感謝しないとな。あれがきっかけにはなったのだから」と微笑んだ。
「いつでも余裕たっぷりの部長が焦って告白しちゃうくらいですもんね?」
「……そのへらず口。力づくでふさいでやろうか?」
「部長は3年も待たせちゃうヘタレだもーん。こーんな人目につくところで……」
やる訳ないと思っていたのに!!
部長は手土産の花束と差し入れのスイーツで両手がふさがっているのに、器用に引き寄せてキスした。
「ぶぶぶぶぶふぶ、部長!!!!!」
キョロョロしたら何人かとばっちり目が合い、途端に恥ずかしくって思いっきり目をそらした。
「宮瀬は反応がカワイイな。これはイジメたくなる」
速水部長は余裕たっぷりに笑って、私に手を差し出す。
私の選んだ男性は、大人の皮をかぶった悪魔みたいです。
でも振り回されるのもきっと悪くないのかも。
私はその手を取って、パーティー会場に向かった。
――速水エンド おしまい――