第1章 脱走 1-4. 出逢い
悔悟と諦めを繰り返す日々も、もうすぐ終わり、遂にその日を迎えようとしています。
侯爵家に生まれ、何不自由なく暮らしてきました。
でも、それは見せかけで、貴族間抗争の海原を漂っていただけ。いつ、どんな欺瞞や謀略に襲われるとも知らずに。
刑の執行が4日後に迫った日の午後、珍しく他の囚人が収監されてきました。
牢の奥の、天井に近い場所に鉄格子のはまった小さな窓があります。
そこから差し込む僅かな光のお陰で、昼か夜かぐらいは判りますから。
オルセー監獄の侯爵家に対する配慮もあったのでしょうか?これまで、私の他には囚人はいませんでした。
私は侯爵家には見捨てられましたが、監獄の獄吏にはそんなことは判りませんし。
新しく連れて来られた囚人は、私の隣の牢に入れられました。
暫くは静かにしていた隣の囚人ですが、収監されてから二日目、何やら壁を叩き始めました。
これまで、ネズミの鳴き声以外、物音ひとつしなかった静寂な空間に、微かに鳴り響くコンコンと煉瓦を叩く音。
ようやく、何も考えず、静かに死に臨めると達観していた私の心に、イラつきと戸惑いが生まれます。
鉄格子の向こうに灯るカンテラの明かりを眺めれば、目の前の景色が滲み、かつての学友達の姿が思い浮かんできました。
憎しみとも懐かしさとも就かない感情。
静かに逝かせて欲しかったのに。
静寂を取り戻すために私は、その囚人に一言文句を言ってやりました。
「 煩いです!静かにして下さい! 」
相手がどんな凶悪犯だって構いはしません。
相手は、こちらに突っかかってきて、私の心を更に乱すでしょうか?
来るならきてご覧なさい!です。
「 ああ、ごめん、ごめん。煩かったね 」
でも、返ってきた、思いもしない朗らかな声に拍子抜けです。
牢につながれているとは思えない、知人と会話するような話しぶりが私に、ここ数ヶ月の間、人と話していなかったことを思い出させます。
生きていた証として、最後に誰かと言葉を交わしたい。
「 ・・・・・ ねえ、あなた ・・・・・ 少し話をしない? 」
私は、知らずと相手に声をかけていました。
「 ええ、構いませんけど 」
相変わらず、知人と話すような軽い口ぶり。
それを聞いた時、思わず瞳から大粒の涙が零れ落ちました。
これまで、泣くまいと耐えてきたのですが、その時は、どうにもなりませんでした。
何故、こうなってしまったのか?何故、私だけが極刑なのか?もう少し生きてたい、もっと、いろんなことがしてみたかった、そんな想いが突然、溢れ出し、涙となって流れ落ちるように。
悲しくて、悔しくて、情けなくて ・・・・・・・。
気を落ち着けるのに、ずいぶんと時間が掛かってしまいました。
相手は、既に私に興味を失っているかも知れません。
「 ごめんなさい、待たせてしまいましたね。久しぶりに人の声を聞いたら、これまでのことを思い出しちゃって ・・・・・ 」
「 別に構いませんよ 」
相手は、気長に待っていてくれたみたいです。
こんな場所に収監される人間とはちょっと思えない、優しさを含んだ声。
「 貴方は、平常心なのですね? 」
「 そう聞こますか? 」
「 ええ、とても落ち着いている 」
「 ああ、一応、極刑は免れましたからね。少しは心に余裕があるのかな 」
彼の言葉に、改めて自分が死刑になるのだと実感させられます。
「 そう、でも、私は死刑 ・・・・ 」
「 何をやったんですか?盗み、それとも殺しとか? 」
不躾な質問でしたけれど、それが、知りたいことへの彼の本音なのでしょう。
こうなってしまったら、礼儀も何もあったものではありませんし。
「 殺しも盗みもしてないわ。ただ、質の悪いのに嵌められただけ。もう、終わったことだから、いい ・・・・・・ 」
「 嵌められた、か?僕と同じですね 」
「 なに?あなたも嵌められたのですか?二人とも騙されやすいのね 」
どうやら、世の中には同じような目に会う人間がいるようです。
「 僕の場合は、騙されたのは僕自身じゃなくて国ですけどね。相手が罪を捏造して、それを国が信じた結果です 」
「 そう、悪い奴がいるのですね 」
罪を捏造され、それを押し付けられたのは彼と同じです。
国という言葉が出てきたから、この人も貴族がらみなのでしょうね?
しかし、改めて思うのですが、家族以外の男性とこんなに会話するのは初めてです。
なんだか楽しいですね。
最後に話せたのが、隣の囚人のような方で良かったです。
そんなことを思っていたら、彼は、思いもしないことを言い始めました。
「 ねえ、ここから出たくはありませんか? 」
出るとは、このオルセー監獄からを意味しているのでしょうか?
「 出るって、この監獄から?でも、どうやって? 」
「 刑が執行される日に、貴女を連れて一緒に逃げます 」
なんと、やはり彼は、私に脱獄を奨めています!?
これまで、運命論者に徹していた私には、考えもしないことです。
しかし、どのようにすれば、そんな計画を実現できるというのでしょうか?
口でいうは易し行うのは難し ・・・・・ 嗚呼、どうも私は、他人を騙さない生徒を数える方が難しいセント・グロリアーナ学院に通っている間に、人間が信用できなくなってしまった様です。
「 少し壁から離れてもらえますか? 」
突然、彼がそんなことを言い出します。
そして、不意に、ドンッ、ドンッと壁を叩く音がして、煉瓦が一つ、壁から跳び出してきました。
何が起こったのでしょう?!
驚いて硬直する私の足許に、次々と煉瓦が転がってきます。
彼はいったい何者なのでしょう?!
堅牢な牢屋の壁を、いとも簡単に崩してみせるとは、神がかったものを感じます!?
恐れ戦いている私でしたが、開いた壁の穴から出てきた男性に、再び拍子抜けしてしまいました。
頬が痩せこけて鋭利さを漂わせていますが、表情は至って優しそうな方です。
煉瓦で造られた堅牢な壁を壊すような人物には、とても思えません。
壁の穴から這い出てきた途端に直立不動の姿勢をとると、彼は、右手を胸に当てて深くお辞儀をしました。
「 オラエリー・タブナートと申します。お嬢さん 」
道化がかったその仕草に、思わず口端があがってしまいます。
笑ったのは何か月ぶりでしょう?
「 タブナードさん、よろしく。私は、エレミエルです 」
私は、捨てられてしまった姓は使わず、ただ、名前のみを教えてさしあげました。
それから彼は、脱獄の手筈について詳しく語って下さいました。
確かに、刑の執行のために私を牢から連れ出す瞬間が、最も脱獄できる可能性が高いと思います。
煉瓦を抜いて壁を崩すことができる彼でも、さすがに鉄格子までは壊せないでしょうから。
私が刑場に連行される際には、鉄格子の扉も開いていることでしょう。
そして彼は、自らの言葉の通り、脱獄を成功させてしまいました。
いま、私は、彼と共に逃走している自分自身に驚いています。こんな大それたことをする自分に。
これまで、お父様やお母様の言いなりに生きてきました。
その結果、彼らは、侯爵家を護るために私を生贄として差し出したのです。
その大人しい生贄が抗った時、彼らはどんな顔をするでしょうか?




