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完結になります。
「君は何を話したいんだ。聞くに君は彼女の友人らしいが、とうてい友人とは思えない言葉ばかりだな」
ため息のような、重さのある息をシャノン様が落とした。頬杖をつき、グラスを持つ。持ったそれを円を描くように回した。あわせて中の葡萄ジュースが揺れ、葡萄の果肉を含んだ膜がグラスの面に波模様をつけていた。
「シャノンさんは、伯父様の知り合いでしたっけ。真由子とも知り合いなんですか? そんなふうには見えないけど。真由子、一応男嫌いだものね」
ドーナツを残した沙奈は、言いながらわたしを見ていた。彼に聞いているようで、それらの言葉はわたしに向けられたもののようだった。彼女の探るような瞳がわたしに注意深く注がれていた。
「シャノン様は、わたしとも面識があるみたい。幼稚園の頃とかの話で、わたしは覚えていないの」
「ふうん」
沙奈は聞いているのかいないのか、あいまいな相槌を打つだけだった。
「ねえ、真由子。首見せて」
テーブルに手をつけ沙奈が立ち上がった。彼女の膝裏に蹴られた椅子は脚を絨毯に引っ掛けたのか、驚き跳ねるように飛んだ。背もたれが床へしたたかにぶつかった。
絨毯にすべて吸収されたとはいえあまりに乱暴な動作に、胸の奥がぎゅっと縮まった気した。
「どうしたの、沙奈。落ち着いて」
わたしの声が届いていないのか、意図的に無視されているのか定かではないが、沙奈は口を噛むようにきつく閉じたままテーブルの外周を辿ってわたしのそばまで来た。
「沙奈。唇が切れちゃうから」
「なんとなくは覚えてるわ。あなたの首。あたしから見て、右側……いつも右手でそこに触るから」
沙奈の手が伸ばされて、反射的にそれを拒むようにつかんだ。
「あたしには見せてくれないの?」
つかんだ手は、指先が水に浸かっていると感じてしまうほどひやりと冷たかった。手のひらから徐々に冷たく、体温を失っている彼女の手。
「そんな。わたし、誰にも見せたことなんて」
少しでもわたしの体温を分けられたらと握り込んだその時、振りほどかれた勢いで手の甲が何かにぶつかった。視界の端でグラスが傾いた。倒れて、くるりと縁の丸みにあわせて転がった。こぼれた葡萄ジュースがテーブルに広がって、やがて縁から筋になって垂れてきた。それはデニムスカートにじわじわしみていった。
「あっ……ごめ」
沙奈の手がわたしの服を触った。白いニットは紫に色を変えていた。
「大丈夫。服はもうたくさん着てるやつだし、グラスも割れていないわ」
「ごめん」
目がうるんでいた。沙奈の目は今にも涙をこぼしそうなほど、薄い膜を張って震えていた。まばたきをせず、足下に視線を落として、じっと何かに耐えるような苦しげな表情を浮かべていた。
「真由子。あたし」
「そんなに首が気になるのか」
添えるように重ねたわたしの手の中で彼女の手の震えが止まった。
「それを知って、君はどうする」
紫がかった藍色に変色したデニムスカートの上に、赤黒いものがひらりと落ちてきた。辿るようにして見上げていくと、布をまとったひそやかな白い手が宙にあった。
わたしの膝に降ってきたのは薔薇の花びらだった。
薔薇の花びらから色がしみだしてきたと錯覚してしまうほど、それは濡れたスカートになじんでいた。
シャノン様は花瓶から抜き取った薔薇の花びらをもう一枚つまみ、引っ張った。ぷつ、と小さな音がした。
「葡萄と薔薇の色くらい、変わるようで変わらないかもしれない」
花びらをテーブルに落とした。水たまりのように広がった葡萄の液体に、花びらが浸かっていた。
「シャノンさんは知っているんですか」
わたしの膝にある花びらを、沙奈が拾う。
シャノン様は目を細めた。年端もいかない子どもに昔話を語りかけるような、優しい目をしていた。
「僕がつけたからだ」
ぷつ、と音がして。目の前を何かが掠めた。びっくりして目を閉じかけて、落ちたものを見ようとうつむく。白いニットに覆われたわたしの胸元に薔薇の花びらが乗っていた。
「噛まれたような跡があると言った。僕は吸血鬼だ。とがらせた歯を刺し込んだから、いくら昔のこととはいえ跡は残る」
彼を見た。彼もわたしを見下ろしていて……いや、首を見ていた。白いニットに隠された奥を見透かしてしまいそうなほど、深く。
少しの沈黙があって、ハウルさんが倒れたグラスやこぼれた葡萄ジュースを片づける音が聞こえてきた。どこから持ってきたのか、空気をたっぷり吸い込んだふわふわなタオルを彼女はわたしの膝に乗せた。
「……ああ、シャノンさん。ハロウィンに興味があったんですね。あれだけ仮装はするなって口を挟んでおいて。まあ、あのバスを見たらそうか」
手の甲で口元を隠しながら沙奈が笑っていた。
「献血はどうして? 吸血鬼なら血を吸えばいいのに」
「僕は潔癖症なんだ。そんな見ず知らずの女性に歯を立てるなんて。それに、今の吸血鬼は健全な方法で食糧を確保する時代だ。僕の場合、献血ということになるな」
「それなら真由子の首だって無理がありますよ」
「愛い君の首が最後だ。それから他の女性に触れることがどうも汚いと思うようになってしまったんだ」
「愛い君、って。真由子のことですか」
沙奈の声音が低い。
「君、僕が吸血鬼だって信じていないな?」
「そんなの」
「失礼」
ふ、とわたしの前を彼の身体が抜けてゆき、沙奈のさらけ出された首元に鼻を寄せた。わたしからか、彼からかは分からないが、葡萄の甘い匂いがした。
「ちょ、なにっ――」
「ふむ。君は駄目だ」
沙奈が身体を守るように捩り、ゴールドのネックレスがずれた。小さな花のモチーフが鎖骨の上に引っ掛かった。
モチーフの中央に嵌められた銀色が彼女の肌を透かしたように光っていて、わたしはつい手をのばしてしまいそうになった。
「君。短い期間に複数の男と関係を持っただろう」
のばしかけた手が、白に包まれていた。上からわたしに覆いかぶさってしまいそうな体勢で、シャノン様の目がわたしを見下ろす。その目を見つめていれば、つかまれた右手が自分の膝上に戻された。
抵抗しないわたしに笑みを浮かべ、彼は椅子に身体を預け直す。
「匂いがしているぞ。君の体液と、別の。血も濃いな。初めてだったらしい。しかし気が早い……今の婦女子はこうだから嫌なんだ」
何の感情ものっていないような、しかし嫌悪しているふうな表情でシャノン様が息を吐く。
わたしはタオルをスカートに押し当てた。
「沙奈」
見上げれば、沙奈は真っ赤な顔をして立っていた。
「っどうして……!」
「潔癖だと言っただろう。ああ、頭が痛くなる」
「シャノン様、葡萄ジュースを用意いたしますか」
「いや、いい。酔いそうだ」
彼が口をつけたグラスには、まだジュースが少し残っている。ハウルさんが注ぐところを見ていたが、あれはただのジュースだった。酔いが回るようなものは入っていないはずだ。入っているのだとしたら、今は倒れてしまったグラスの液体からもアルコールの匂いがするだろう。
「僕は男がいけない質でな。昔はそうでもなかったが、一度他を覚えてしまうと。あの甘くて痺れる味を経験してしまうと、もうそれ以外は受けつけなくなってしまったよ」
言って、欠けた薔薇に鼻を寄せた。深く匂いを吸い込むように、目を閉じて堪能している。
沙奈の手がわたしの腕を強くつかんだ。
「ああ、やめてくれ。君みたいなのが彼女に触れてくれるな」
彼の言葉を振り切るように引っ張られて立ち上がる。途端、立ちくらみに襲われて、わたしの足は二歩ほどもつれた。
「手荒な真似も褒められたものではないぞ」
「まって。まって、さな」
背後で彼の優しい声を受けながら、わたしはテーブルに手をつく。扉の方へ進もうとする彼女を拒むように、つかまれた腕を引いた。それでも引っ張る力は弱まらず、膝が床に落ちた。
いろんな人が土足で踏み荒らした絨毯に這いつくばる。
頭の中がぐるぐる回っている。絨毯にしみ込んだ外の匂い、葡萄の匂い、沙奈が食べたドーナツの匂い……。それらが渦を巻いて、ぐちゃぐちゃに混ざりあっている。
視界で、沙奈がわたしと同じように膝をついた。わたしの加減を気遣うように。けれど、彼女の手はあいかわらずわたしを引き寄せようとする。絨毯に押しつけた手のひらが、肘から浮きかける。
「さな」
「お願い。立って。真由子。お願い」
「一つ、言っておくが。僕だってこんなことはしたくなかったさ」
沙奈の膝のとなりに黒い革靴が並ぶ。とがったつま先は彼女へ向いていた。
「沙奈、と言ったな。君が悪いんだ。僕は紳士だぞ? 紳士的でいたかった。愛い君にも優しい僕でいたかった。だが、この匂いは駄目だな。頭がくらくらして、正常な判断ができそうにない」
わたしの腕にこめられた、沙奈の力が抜けてゆく。血をとどまらせるほど強くつかまれたそこは内側から熱を持ち、縋るような動きでするする落ちてゆく沙奈の冷たい指先の感触を鋭く捉えた。
揺さぶられたように、身体の奥が震えた。
沙奈の靴の裏が見えた。つま先は力なく天井を向き、斜めに倒れかけていた。誰かに引きずられていくように、ずるずる、かかとが絨毯を滑ってゆく。途中、靴が脱げてしまっていた。上品な高さのヒール……。
上から影が降るのと、黒いつま先がわたしに向けられたのは同時だった。自分の頭の重さを感じながらゆっくりと視線を持ち上げようとしたところで、赤に染まった手がわたしの肩をつかんだ。身体の線をなぞるようにして、脇の下に手を添えられる。
「ああ、だめだ……」
震えるばかりで力が入らないわたしの身体を、彼が抱き上げた。絨毯に座った彼の膝にのせられ、おしりの下に硬い太ももの感触が伝わってきた。顎をすくわれ、自然と視界に彼が映り込む。
「真由子。僕の愛い君。僕は君を怖がらせたくなくて、ずっと我慢していたよ。トマトは嫌いだから。でも君に似て甘い葡萄で君を食べたような気になっていたよ。それで満足していたんだ。でも。ああ、だめだ。僕の干からびた身体は君をほしがっている。とびきり甘くて、痺れるような真由子の血を、僕の舌が味わいたいと唸っているんだ……」
唇をなめる時のてらてら光った舌のような、うるんだ瞳で彼はわたしを見つめていた。少しのすきまがある唇からは熱い吐息がもれ、それはわたしの耳を湿らせていた。
赤い手は消え、彼自身の皮膚に包まれた手がわたしの首に向かう。どちらの熱か分からないけれど、指先が首に触れた瞬間、あまりの刺激にわたしは唇を噛んだ。
「すまない。真由子。耐え性のない獣のような僕を、どうか愛してくれ」
指先でのけられた服と首のすきまから彼の細く通った鼻が潜り込んだ。動物のようにすり寄って、もぞもぞと位置を変えるとあたかかくて柔らかいものが首筋を撫でた。
「真由子……」
熱い息が肌をぬらした。
押しつけたままわたしの名前をつぶやく唇は、その中から生き物を覗かせた。なめられて、舌の表面のひだが肌を取り去ってしまいそうなほど産毛を交えて絡んだ。
彼の舌はわたしの首を丹念に撫で、やがて、ある部分に舌の先を押しつけた。首の、右側の血管の、鎖骨より上。そこに何があるのか、わたしは知っている。
「首の、これ。これは僕が噛んだ跡だ」
針を刺したような穴が、間隔を開けて二つ並んでいる。穴は爪楊枝の先ほどに細く小さいのに、シャノン様はそこに舌先を埋めるように無理やり押し込む。ぞわぞわと背筋から虫が這い上がるような、奇妙な感覚にわたしは声にならない息を吐く。
「君がまだ幼かった時、白くてふっくらとした肌がとても美味そうで。魔が差したのだ。幼い君はひどく驚いたことだろう。少女には分からない感情を持て余して。しかし君は泣きじゃくることもなかった。ただ目の中に液体を集め、溺れる僕を見ていた。幼い少女に噛みつくのは、はじめてだったんだ。誰でもよかったわけではない。君が。真由子だったから」
顔を、唇を、舌を埋めながら、彼はうわ言のようにわたしの名前を呼び続けている。彼の声が皮膚を通ってわたしの奥に触れる。葡萄の匂いがした。
ぷつん、と首のそれに何かが入り込んだ。肌を破り、肉をちぎり、わたしの中をすする音が聞こえた。
たまらずわたしは顔を彼の髪に押しつけた。彼は噛みつきながら、手のひらでわたしの後頭部を支え、もっと深く押しつけさせる。
彼の歯が首の穴を塞いだ時、わたしは欠けていたものが埋まったような気持ちになった。だから、彼を突き放すことはできなかった。
彼が離れたら、穴はどうなるのだろう。今までよりも大きな穴になって、わたしの内側をさらすのだろうか。その穴が口のように息をするかもしれない。口ではない口で喘ぎ求めれば、彼はまた埋めてくれるかもしれない。
「シャノン様、シャノンさま……」
真似をして、彼の名前を繰り返し呼ぶ。
彼はそれに答えるように、深く深く唇を寄せた。
お読みいただき、ありがとうございました。