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明日で完結です
ハウルさんに導かれて、ハロウィン仕様の献血バスに乗り込んだ。
そこは少し薄暗く、さまざまな機械がバスの中に詰め込まれていた。
外側の明るい装飾に比べて影を宿した無機質な空間は不安を煽り、彼女が手にした注射器がまたわたしの気を縮こまらせた。
向かいあって椅子に座り、彼女は使い捨てのゴム手袋をはめた手をわたしの腕に添えた。袖をめくり上げ、腕の内側をさらしたそこへ、彼女の視線が刺さる。
「真由子様は分かりにくいですね」
ゴムの指が肘の裏あたりを這った。間違うことは許されないのだと、探る指から伝わってくるほど肌をさする。
「血管が、ということですか?」
「そうです。では」
注射を刺しやすい血管を探り当てた指が横へずれた。アルコール綿で軽く拭きとり冷えたそこへ、針がぷつんと埋まってゆく。皮膚に呑み込まれて針が短くなるところを目で追う。今、わたしの中に異物があることを思うと顔が歪んだ。
わたしは注射が苦手だ。
注射を刺されることなんて人生で数えるほどで、定期的に献血をしたり病気だったりするなら回数も多くなるだろうが、わたしはどちらにも当てはまらない。健康でも献血をしない。医者の娘であるため、できることなら献血をして貢献することが一番褒められることかもしれない。
しかしわたしはできなかった。もちろん、注射を前にして我を失うほど子どものように泣き喚くような真似はしない。静かに受け入れるくらいならできる。
受け入れながら、心の中では一思いにやってくれと文句をこぼす。あのとがった針が肌をぷつりと突き抜けるさまが、たまらなく恐ろしく感じてしまうのだ。
ありはしないことを夢想する。突かれた部分の肉は針の奥に詰まるんじゃないか。針で刺した穴が塞がらず、ずっと肉を露出させるんじゃないか。そんなことを考えるのに、わたしは注射の瞬間から目を逸らせない。
沈黙のあいだ、わたしの血が不透明な膜の厚い袋にたまっていく。耳をすませば、ぽた、ぽた、とたまった血の面を打つしずくの音が聞こえてきそうだった。
「終わりです」
十分ほど、経っただろうか。
葡萄ジュースのような色の血が袋詰めされていくさまを眺めていれば、いつのまにか針が抜かれていた。小さな穴が開いたそこへ、アルコール綿がひたりとくっつく。
「けっこう、すぐ終わるんですね」
絆創膏を貼られ、わたしは袖を戻した。
「止血用のパッドなので、しばらくは貼ったままにしておいてください」
「分かりました」
椅子に座って、ハウルさんが片づけていくところをぼうっと見つめる。注射器やアルコール綿などを専用の袋に捨てる。わたしの前に献血をした父や母、兄姉や家政婦に使われたらしいそれらがひっそり沈んでいた。
「お待たせしました。部屋に戻りましょう」
ハウルさんはてっぺんが平らの機械を机代わりにしてのせていたグラスへ葡萄ジュースを注ぎ直し、おぼんにそれと個包装されたドーナツを二つ置いた。
「その葡萄ジュース、持ってきたものなんですか?」
「真由子様の家へお邪魔する前に寄った葡萄園でいただきました。真由子様も、部屋でお飲みになりますか」
「いいんですか?」
「もちろんです。ですがお父様にもお渡ししているので、新鮮味がなくなってしまいますが」
葡萄ジュースのグラスがもう一つ追加された。
「ありがとうございます」
ハウルさんは少しだけ笑みを浮かべた。
「いえ。ちなみにこのドーナツは私が作ったものです。真由子様のお口に合うと嬉しいです」
「すごいですね……おいしくいただきます」
シャノン様の言ったとおり、ハウルさんは見た目に反しておしゃべりが好きなようだった。小麦粉やバターはどこでいただいたものか、屋敷のキッチンの広さなどをたんたんと話してくれ、気まずさもなく二人でシャノン様のいる部屋まで戻った。
おぼんを持っている彼女の代わりに扉を開け、招くようにハウルさんを部屋の中へ誘う。そうして扉を閉めて室内に目をやると、そこにはシャノン様と、沙奈がいた。
わたしが座っていたところに腰掛けていた沙奈はわたしに気づき、笑顔で手を振った。わたしも手を振ってそれに応えた。シャノン様は薔薇に落としていた視線を上げた。
「沙奈。どうしたの?」
「遊びに来たのよ。伯母様に真由子の部屋にいてと言われたのだけれど、外のバスを見たら気になってしまって」
惜しげもなくさらされた白い鎖骨の上で、ゴールドのネックレスがきらりと光った。
「そうだったのね。あなたのとなりにいる方はお父さんの知り合いで、献血バスの持ち主……で、いいんですか?」
窺うようにシャノン様を見れば、彼はうなづいた。
「そういうわけだ。僕はシャノンという。そこのが助手のハウルだ」
ハウルさんが礼をした。
「あたしは沙奈です。真由子の従妹で同級生なんです」
となりに座っていたのでわたしたちが来るまでに話していたのかと思ったが、そういうわけでもなかったらしい。沙奈はにこにこと愛想のいい笑顔を浮かべ、彼を眺めていた。
「外国からわざわざ献血に?」
「まあ、そうだな。この地のハロウィンは誰も彼も仮装をしてお祭り騒ぎだと聞いている。僕のような者が紛れるには絶好の日だと思ったのだ」
椅子を立った彼は軟らかい絨毯を踏み、わたしとハウルさんの前まで来るとおぼんの上のものに手をのばした。白い指がグラスに絡みついた。
「シャノンさん、とっても素敵な格好ですよね。高そうで、おしゃれなスーツ」
「紳士の嗜みさ」
「外国の人って透明感があって憧れます。シャノンさんも、そこの女性もきれいで。なんだか同じ人間だと思えない」
立ったまま、彼がグラスの葡萄ジュースを一口飲んだ。少しだけ顎が持ち上げられ、喉がのびる。きっちり締められた襟元から白い肌が覗く。わたしにはない骨が浮き、嚥下した様子を見せた。
シャノン様がわたしを見下ろした。グラスから唇を離し、目だけわたしに落とされている。見下ろされている、というより、見下されているような気がした。わたしが彼の挙動を観察していたのを知っているとでも言いたげな、含みのある笑みが口元ににじんでいた。
居心地の悪さを感じて、わたしは目をふせる。ふせてから、沙奈の様子をこっそり覗く。シャノン様にまっすぐ注がれた彼女の視線は素直だった。
「同じ人間ではないかもしれない」
この部屋では唯一の、低い声が言う。
シャノン様は片手にグラスを持ち、もう片方の手でわたしの肩に触れた。耳の近くで布のこすれる音が響いて、身体が揺れてしまった。わたしの気持ちなんて置いていくような、しかし強制力を感じない力でテーブルへと移動させられる。
わたしを沙奈の向かいの席に落ち着かせ、彼はわたしのとなりに座る。背後からハウルさんの手が伸び、わたしの前にグラスとドーナツを置いていった。突然この場に現れた沙奈にはなかった。
「あの。わたしのを沙奈に」
ハウルさんが首を横に振る。
「それは真由子様に用意したものです。必要であれば沙奈様の分を持ってきます」
「いいえ、ハウルさんもわたしにとってはお客さんですから……わたしが何か」
「大丈夫よ、真由子。あたしは気持ちだけで。あなたに用があって、それが終わったらすぐ帰るつもりだったし」
立ち上がりかけたわたしを抑えるように沙奈が言う。
ハウルさんはもう一つのドーナツだけ、沙奈に渡す。それは彼へ持っていったものだろうが、彼は何も言わなかった。
「わたしに用事って?」
シャノン様は口を閉ざしていた。わたしと沙奈の会話を優先させる素振りで葡萄ジュースに口をつけていた。視線は沙奈の方に向けられていた。
「今日は知ってのとおりハロウィンでしょう? 駅でハロウィンパーティーがあるんだって。好きな仮装をして、いろんな人と交流できるの。真由子、行かない?」
もらったドーナツの袋を指で弄びながら、沙奈が首を傾けてわたしを見る。
「え……わたし、仮装なんてできないわ。何も持ってないし、準備だって、そんな急には」
「あたしが手伝うから心配はいらないわ。人だって学生が多いそうよ。うちの学校の子もけっこう行くらしいから」
「でも、わたし、そういうところが得意じゃないもの。沙奈の友だちは一緒じゃないの?」
「あたしは真由子と行きたいから誘ってるんだけどな。だめ?」
乞うような目を向けられて、わたしは何も言えなくなった。行くべきか、断るべきか。
本音言ってしまえば行きたくはない。苦手だ。お世辞にもノリがいいとは言えないわたしがそんなところへ行っても邪魔になるだけな気もした。仮装の経験だってない。そういうものは遠くから眺めているだけで満足する質だ。
しかし沙奈の誘いを無碍に断ることもはばかられる。どちらにも転がせない答えを胸に抱え、手元のドーナツに視線を落とす。飾り気のない透明な袋に封じられたドーナツは均一な茶色に揚げられており、ほどよい油をまとっていた。袋にも少し油がつき、きらきらと光を反射していた。
「どんな仮装をするつもりか聞いてもいいだろうか」
シャノン様が言った。
「警察官とか。あ、あとナースもいいですね。ハウルさんみたいな」
「私のは仮装ではありませんが」
「わたしたちからしてみればその格好も仮装のうちに入るんですよ。外国ではあまりしないのかな」
疑問の声が上がった時、となりの彼の指がテーブルをこつりと叩いた。
「ハロウィンとはそもそも秋の収穫を祝う行事なのだがな。同じくしてこの時期になると悪いとされる人ならざる者や死者の霊らが人里を訪ねることから、身を隠すためにそれらの格好をして目を欺くというやつが仮装だぞ。つまり何が言いたいかというとだ。僕は彼女にそんなはしたない格好をしてほしくはない」
「シャノン様、私がはしたないとでも言いたいのですか」
「君は黙っていてくれないか。愛い君がナースだと。そんなもの許すわけがないだろう! 現在の警察官やナースのコスプレは露出が激しいのだろう? 駄目だ! 破廉恥だぞ!」
「知識はあるのですね」
シャノン様がハウルさんを睨んだ。
「でも、真由子の格好ってナース服とちょっと似てませんか?」
「なんだと」
二人のテンポのいい会話に少々驚いたのか、沙奈は目を丸くして固まっていたがすぐに慣れを見せ、わたしを指さした。彼女の指がわたしの首元をまっすぐ示す。
「タートルネックだし。下のデニムスカートも膝丈で、黒いタイツ。色はともかくシルエットだけはナースと同じじゃありません?」
思わず服を触る。彼女の言うとおり、それは首の半ばまで隠せるニット素材のものだ。首にぴったり沿いすきまを許さない形は、わたしが一番落ち着くものだった。
「……そうかもしれない」
沙奈の指に誘われてわたしの姿を改めて観察していたらしい彼が、ぽつりとこぼす。まさか頭の中で想像したのかと目を見張る。彼はわざとらしい咳払いをした。
「いや、しかし」
「真由子ったらいつも首の詰まった服を着るんです」
学校の制服も首を覆うもので、真由子はわざわざそれを着るために学校を選んだんですよと沙奈が続ける。
「幸い学校はそれなりにいいところで、医者の娘が通ってもおかしくないくらいには頭もいいんです。あたしも真由子には劣りますが家柄もあるので同じところに進学しました」
沙奈の指がドーナツの表面をこすった。形を確かめるように、しかし輪郭まではなぞれない。袋越しのそれはかさかさと嫌な音を立てる。もどかしい音。いじる指先が誤ってドーナツをつぶしてしまいそうだった。
「でも、噂を聞くんです」
沙奈は袋の端を持ち、つまんだそこを左右に引っ張った。空気で満たされた室内のどこかに亀裂が入ったような、高くて大きい音が響いた。
「真由子は落ち着いた見た目と違って、男遊びが激しいって」
袋から半分出したドーナツに、沙奈の口が近づく。小さく開けた口でかぶりつく。唇が油にまみれるのを嫌ったためか、噛む時に白い歯がすきまから覗いた。
咀嚼したあと、沙奈は唇をなめた。
「いつも首を隠しているから。首に跡があるんだって」
服の上から首に触れるわたしを、沙奈は少し微笑んで見つめていた。
「あたしは知ってるよ。小さい頃からよく遊んだものね。だから服の下にはもともとあるんでしょう? 噛まれたような跡が」