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ハロウィンとはいったい……。

 父の知人だという男は唇についた赤黒い液体を舌でなめ取った。

 間近で見ていたわたしは、その舌が口の端をうごめく様子をとりあえず見つめた。滑らかな皮膚や温度を隠す布に覆われた身体からは想像もつかないくらい、真っ赤なそれはてらてらとぬれ光り、別の生き物のように震えていた。

 男が手にしていたグラスをテーブルに置く時、グラスの底がテーブルを叩く音がやけに響いた。

「葡萄の可能性の広さには感嘆せざるを得ないが、やはり果実そのものを味わうことが何よりも美食で美味だと思わないか」

 赤い唇が紡いだ言葉に、わたしは声をのせないまま何度かうなづいた。

「どうした。まさかしゃべれないなんてことはないよな」

 ぼんやりしているわたしを、男はよく観察していた。異国人らしい、堀が深く形のいい眉をほんの少し歪め、わたしの顔を下から覗き込んできた。

 座っていても見上げなければいけないほど高い位置にあった男の顔がまさか目と鼻の先に現れるなんて思いもしなかった。

 男は吐き出す息さえ甘い匂いがしそうなくらい、きれいだった。わたしの様子を見るために傾けられた顔はすべてのパーツがおさまりよく配置され、輪郭からさえ芳香が匂い立ちそうだった。男性にしては長めに切りそろえられた髪は肩を流れるように撫で、その柔らかさを魅せた。

 そんな男に、わたしの息を吐きかけるなんてできなかった。

 息ごと呑み込むと喉がくつ、と鳴った。みっともない音がした。

 わたしが息を詰めていることに気がついたのか、眉の強ばりを解かして微笑んだ。もれる息は葡萄の匂いがした。

「ああ、すまない。緊張させたか」

 彼の顔の位置が本来の、正しいところに戻る。わたしの肩はいつのまにか持ち上がっていたらしく、張り詰めていた息を落とすと肩も一緒に下がった。

「君は男が苦手だと聞いた。不躾な真似をしたな」

「……どうして」

「君の父君から聞いたんだ。何、安心してくれ。僕は紳士だからな。君の嫌がることはしないさ」

 男はどこか誇らしげに、無駄を省いた容貌には不釣り合いな少し幼い笑顔を浮かべた。

「これでも君のことは幼少時から知っている。送られてくる写真はすべて焼き増したうえでアルバムに保存をしているし、イベントで見せる君の勇士が詰まったビデオも繰り返し見続けてきたからな」

 何やら膨大な情報が男の口から語られているが、わたしの頭はそれを処理していくのに時間が掛かった。無地の多いジグソーパズルのピースを端から捉えていくように、まずどこから繋ぎ合わせていこうか迷った。

 そっと目をふせると、テーブルのグラスが目についた。不透明な、先の見えない赤黒い葡萄ジュースが注がれたもの。男が口をつけたあとなので中身は減り、グラスの表面に減ったぶんだけの膜が張りついていた。集まった液体の色とは違い、それは赤や黒よりも紫だ。あれは葡萄ジュースであると認めることができた。

「シャノン様、それは巷で流行のストーカーという行為に当てはまります。紳士どころか外道すぎて真由子様が引かれてしまいます」

 二人しかいなかったはずの部屋に見知らぬ女性の声がして振り向く。

 シャノン様と呼ばれた男の真後ろに控えるように、声の主らしき人がひっそりとたたずんでいた。男に仕える人だと一目で分かったものの、その姿は真っ白いナース服だ。染みもしわも見受けられない、清潔で異物的な女性。

 その人はわたしと目を合わせると小さく礼をした。わたしも座ったままだが答えるように頭を下げた。

「ストーカーだと? あんな下劣な者と僕を同じ枠にまとめないでくれないか。僕は遠いかの地にいる愛い君の成長を見届ける、いわゆる足長おじさん的な役どころだぞ。失礼極まりないな」

 男が腕を組み、背もたれに深く身体を預けた。椅子の背がきしむ音が微かに聞こえた。

「それは失礼しました。しかし一日中アルバムを暇なく眺めてはだらしなく頬を緩める姿ばかり見ている自分としては思うところしかなく」

「おいやめろ恥ずかしいところを彼女の耳に入れるんじゃない」

 アナウンサーのようにすらすらと聞き取りやすい声で紡がれた言葉は最後まで言い終えているようで、女性は静かに立って男を見据えていた。男は男でわざとらしい咳払いを何度か繰り返し、甘さを感じる少し垂れた目尻でわたしを横から見ていた。

「……この婦女子の声は聞こえてしまっただろうか」

 恐る恐る、いたずらがばれた子どものような加減で男が言った。

「聞こえています」

 嘘をつくわけにもいかずわたしは答えた。

「あの。わたし、あなたと会ったことがありますか」

 心なしか頬を赤らめて後ろの女性を睨んでいたところへ声をかける。すると男の目はもう一度わたしへ向けられ、じわじわと目を弓なりに細めていった。

「ああ、あるとも。覚えているか?」

「いえ……ただ、話を聞く限り、まあそうなのかなと」

「だろうな。会ったのも、君が少女の頃だからな。無理もない」

 大きくなった。そう言って男はわたしに笑みを見せる。誰から見ても嬉しそうとしか思えない表情に、わたしは少し気まずくなった。

 そっと目線を落とすと、腕を組んだ男の指が腕の上を往復していた。金糸で複雑な刺繍が施された白いグローブをはめたその手は落ち着きない様子だった。

「シャノン様、でしたよね」

「シャノンで構わない」

 シャノン様は首を傾けた。

「父のお知り合いなら、あまり変なことはできないです」

 病院を経営する父の口癖は「真由子、粗相をするな」だ。二人の兄姉と違って取り立てて褒められたところがないわたしは、とにかく黙って行儀よくしていることだけが失敗のない道。

「真面目だな。父君も君は大変おとなしく、行儀のいい娘だとおっしゃっていたぞ」

「本当ですか?」

「ああ」

 グローブをはめた上品な手がのばされる。真っすぐこちらに向かってくる指先に温度はなく、人の手とは思えないそれにわたしは少し安堵した。

 女子高に入ってから異性との関わりはなくなったので、駅などで見かけた時、その指の太さや皮膚を押しのける骨の武骨さにどうしたって動揺を隠せなくなってしまう。簡単に何かを傷つけそうで、繊細さのかけらもない。

 しかしこの、わたしのとなりに腰掛けた男は違った。

 肌の露出が限りなく少ない黒のスリーピース・スーツは彼にしか着こなせないと感じてしまうほど、細身の体型によく似合っていた。中に着ているベストもぴんと張り詰めて隙がない。口を閉じ、笑顔の一つも浮かべないのならば、きっと近づくことができない空気をまとっている。

「嬉しそうに笑う」

 白い布に覆われた指が、わたしの頬を掠めていった。垂れた髪の毛を耳にかけるような仕草で横顔を撫でた。

 彼は外で見る異性とは微妙にずれがある。人種が違うということもあるかもしれないが、普段の生活では滅多に見ない格調高い服装が浮世離れしていた。口調もそうだ。何より手を隠した白いグローブと、長めの髪。男性というものを潜めた姿が、わたしを変に安心させる。

「君は父君が好きなんだな」

 二度、三度と横顔を撫でる手のひらにくすぐったさを感じて、肩をすくめながらも彼の言葉にうなづき返した。

「僕も君の家族を好意的に見ている。僕が住むところは何事にもルーズで、わがまま――いや、気ままな人が多くてな。ほら。まずこいつが見本だ」

 わたしから離れていった手が、控える女性へと向けられた。

「僕の住まう屋敷のすべてを取り仕切っているハウルだ。見た目は落ち着き払った妙齢の婦女子で、容姿もそこそこ整っているから、何も知らない男はこいつに一目惚れをする。だが仕える主人である僕の機嫌を損ねるような余計な一言がいつも多いのだ。いや、とにかく言葉が多い。こんな見た目だがこいつはうるさい。夜になると遠吠えばかりする。日課だとかなんだとか理由をつけて夜な夜な屋敷の屋根に上がって吠えるんだ」

 テーブルに片肘置いて頬杖をつきながら、シャノン様は口を尖らせて話す。

「おかげで近所の人には怒られるんだ、僕が。きちんと躾なさいとな。それが無理だったからこんなことになっているというのに。おい、聞いているか。僕はおまえのせいで毎夜枕で耳を押さえつけて寝ているんだぞ。枕が下にないから首を痛めている。首の筋が伸びて死にたくなるような、背筋もへなへなしている主人を想う心はないのか」

 シャノン様はこれ見よがしにため息を落とし、頬杖をついていた手で自身の首をさすった。

「それならば枕をもう一つ用意しましょう。私の遠吠えについてはもう手遅れなので諦めてください」

「僕は何か間違っただろうか? 犬を育てたことなんてなかったから、野良を拾ったのはまずかったのかもしれない。そもそも僕は猫派なのに」

「あの」

「ん? どうかしたか」

 入り込む余地のない家族会話を繰り広げていたのでしばらくは黙って聞いていたが、何か、妙だった。おかしい。屋敷の主人と使用人という構図は二人のたたずまいから見て取れていたが、それ以外のことは変だ。躾とか、遠吠えとか、犬とか。

「ハウルさんは、人ですよね」

 言って、わたしは女性――ハウルさんを見る。清潔なナース服に身を包んだ、白が似合う女性。すっきりまとめ上げられた髪にも乱れはなく、立ち姿も凛とした白百合のような人だ。

 ハウルさんは面接中の学生のように手を前で軽く重ねた格好で、わたしの方に視線を向けた。

「いえ。私は狼でございます」

 思わず彼女の頭を観察する。透き通るようなまぶしい金髪だ。頭の後ろで丸く結われた髪型のため、耳だって隠れずに覗いている。

「……ああ、そういえば今日はハロウィンですね」

 わたしは椅子から立ち上がり、窓辺に向かって歩き出す。

 カーテンを両脇で結われ、外の景色を写真のように切り取る出窓から玄関を見下ろす。

 カボチャの身のようなオレンジ色に染められ、ところどころに猫やコウモリのような形の、黒く塗りつぶされたイラストで装飾されたバスがあった。バスの窓にもオレンジや黒の何かが貼りつけられている。あれは画用紙で作ったのだろうか。いわゆるジャック・オー・ランタンみたいな、オレンジのカボチャに黒い目や鼻などのパーツがつけられていた。

 こてこてにデコレーションされた秋限定のバスの姿を見て、わたしはようやく思い出す。

「そうだ。シャノン様たちは献血でうちに寄ったんでしたね」

 振り返り彼に確認すると、彼は葡萄ジュースのグラスを手にしてうなづいた。

「ああ、そうだったな」

「忘れていたんですか」

「そんなことはない。ハウルがこの部屋に来たということは、君の家族はみなすべて献血してくれたということでもある」

「わたしが最後だったんですか?」

「そう。君で最後だ」

 赤黒い液体を一気に飲み干した。

「なぜか、知りたくはないか」

 グラスをハウルさんに手渡し、彼は唇をなめた。わたしのところまで距離があるはずなのに、葡萄の香りがしてきそうだった。

「……理由があるんですか?」

 行き場のない手を窓の棚にのせる。掃除が行き届いたそこは埃が詰まることはなく、母が庭で育てている薔薇が窓辺に色を加えていた。

 一輪挿しでも充分に存在のある、パパ・メイアンという品種の薔薇だ。繊細な曲線を描いた花びらがドレスのように幾重か重なり合って、色は黒みを帯びた濃い赤。日に当たっているのに、まだそれほど長い時間拘束されていないのか、しおれている様子はなくみずみずしい。吸いつくような、しっとりした花びらがわたしに向かって肌をさらけ出していた。

 引き寄せられるように、わたしの手は薔薇にのびた。

「僕が吸血鬼だからだ」

 触れる前に、薔薇が白い手に攫われていった。棘をそぎ落とされた無防備な茎に指をまとわせ、もう片方の手で花びらを撫でた。耳たぶに触れるような、優しい指使い。

 シャノン様はそれをわたしへと近づける。途端にむせ返るような、甘くてかぐわしい匂いがわたしの鼻腔を抜けていく。

「だから、君が最後なんだ」

 低い声が頭に響く。耳元で囁かれていないのに、そうされていると錯覚してしまいそうだった。

「さて。ハウル。愛い君を」

「かしこまりました」

 客室用のこの部屋は土足で上がれるようになっており、敷き詰められた絨毯で足音はすべてそこに吸収されていた。ハウルさんが近づいてくるのも、彼が寄ってきていたことも、わたしは少し遅れて気がつく。

 出窓の棚に手をつくわたしを気遣うように、ハウルさんが恭しく頭を下げた。

「真由子様、行きましょう」

 わたしはただうなづいた。

「シャノン様はどうされますか」

 ハウルさんの問い掛けに、彼はわたしを見下ろした。薔薇の香りを楽しむように鼻を寄せていた彼は目を細めた。匂いにか、わたしにか、どちらとも取れない妖しげな表情を浮かべた。

「僕はいい。ここで待っている」

「そうですか。お飾り上司ですものね」

「うるさいな。早く行ってくれ」

 シャノン様は薔薇を花瓶に戻し、そのままそれを持って今まで座っていた椅子へと落ち着いた。

「戻ってくるときに葡萄ジュースも頼むぞ。喉が渇く」

 ハウルさんが返事をした頃には彼の気は別のところへ行ったらしく、どこかぼんやりとした様子で宙を見つめていた。


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