天使に会った日
「ママは天国に行ったんだよ」
見上げたパパは今にも泣き出しそうな顔をしていた。
お姉ちゃんは大きな声でわんわんと泣いていた。
僕は「天国」がどこなのかよくわからなくてキョトンとしていたら、パパが優しく抱きしめてきた。
来年は小学生なんだからもう抱っこは卒業だななんて言っていたパパが急に僕を抱き上げるからびっくりした。
背の高いパパに抱っこされると僕も背が高くなったような気がして気分がいい。
天国に行ったと言われてもママはそこでベッドに寝ている。
いつも顔の白かったママ。今日は唇まで紫色でいつもよりも白さが増して見える。
「ママ、ここにいるよ。天国なんて行ってないよ」
「そうだな」
ママは今ここに寝ているけど、もう目を覚まさないことは本当は分かっていた。でも、分からないふりがしたかった。
僕が小さい頃からママは病気で寝ていることが多かった。
幼稚園の運動会やお遊戯会にも来てくれるけどその後必ず熱を出してしまうから、来てくれるのは嬉しいけど、ちょっと胸がチクチク痛んだ。
僕のせいでママは病気が良くならないのかもと思っていた。
でも、誰も僕のせいだなんて言わなかった。だから僕も気づかないふりをした。
パパもママもお姉ちゃんも大好きだから、今のまま幸せな気持ちのまま過ごせるのだと思っていた。
ママはいつか元気になるのだと思っていた。
「ママはもう目を開けてくれないけど、天国から見守ってくれるから、いつもそばにいてくれるんだよ」
パパが僕の顔を覗き込みながらそう言う。
いつもと少し違う少し歪んだ笑顔。
その顔を見ていると、胸がモヤモヤする。
抱き上げられていたパパの腕の中から逃れてママの隣に駆け寄り、顔を覗き込む。
固く閉じられた瞳はピクリとも動かない。
本当はわかってる、分かってるけど・・・
「やだ!!」
思わず叫んで部屋を飛び出す。
信じたくないもん、信じないもん!
僕を捕まえようとする大人たちの手をかいくぐって外に出た。
いつもと変わらない眩しい太陽がジリジリと照りつける。
「お外に行くときは帽子をかぶろうね」
ママのいつものセリフを思い出した。
帽子かぶってないけど、もうママはそんな優しい言葉をかけてくれないんだ。
そんな事を考えながら走っていると、気づくと河原にいた。
ママと一緒に公園に行ったりとかあまりしなかったけど、ママの気分の良いときにはこの河原にきてお花を見ることが多かった。
春は川沿いに咲くサクラの木をみていつもニコニコしていた。
「ママ・・・」
いまは緑の葉っぱが茂っている木を見ていると、自然に涙が出た。
男の子は泣いちゃダメだんだから!お姉ちゃんはそう言った。
男の子でも悲しいときは泣いてもいいのよ。ママはそう言った。
男の子は強くないといけないよ。とパパ。
どれが本当かよく分からなかったけど、泣いているのを見られるのはちょっぴり嫌だった。
「どうしたの?どうして泣いてるの?」
不意に背中から声が聞こえて慌てて涙を袖で拭いた。半袖を着てるから袖が届きにくくて上手に涙を拭けない。
「泣いてないもん!」
からかわれたのかと思ってちょっと怒りながら振り向くと、そこには知らない女の子が立っていた。
ピンクのフリフリのワンピースを着ている女の子は、首をかしげながらこちらを見ていた。
背中までの長い髪は絵本に出てくるお姫様みたいにつやつや光って見えた。
僕と同じくらいの背の高さ。手にはは麦わら帽子をもっている。
「悲しいことがあったの?」
一歩近づきながら問いかけてくる。
「ママが、天国に行ったんだ・・・僕のそばに居てくれなくなったんだ」
また涙が出そうになるのを必死でこらえると、声が変に震えてきた。
「そう・・・それは悲しいことね」
悲しい・・・?ママが天国に行くのは悲しいことなのか・・・
「でも、大丈夫よ!天国は良いところなのよ!天国に行ったら幸せになるの」
幸せ・・・?どうして?よく分からない。
ニコッと笑うこの子は一体誰なんだろう。
こんな時なのに、笑顔が可愛いと思っちゃった。
でも、可愛いと思ったと同時に芽生えた素朴な疑問をぶつけてみる。
「僕に会えなくなるのに幸せなの?」
震える声でこう聞くと、女の子はハッと気づいたように目を見開いた。
「ごめんなさい。お母様に会えなくなるのは寂しいことね。でも、いつかまた会えると思うのよ。あなたが天国に行ったときに」
「いま・・・あいたい・・・」
必死で涙を堪えると、声が出せない。僕はどうしたんだろう。
僕が涙をこらえているのがわかるのか、女の子は僕の前まで来て顔を覗き込んだ。
「泣くのをガマンするのは良くないのよ」
「でも、男の子は泣いちゃいけないって、お姉ちゃんが・・・」
「男の子でも悲しいものは悲しいの。泣いていいの。泣かないと心が壊れちゃうのよ」
泣いていい・・・その言葉が心に届いた瞬間、僕の目から涙が溢れてきた。
次から次に涙が溢れて止まらない。
うつむいて泣いている僕の眼の前が急に明るくなった。今までも昼だから明るかったけど、更に優しい光を感じる。
そして、背中が暖かくなった。
顔をあげると、眼の前にいる女の子が淡い光に包まれているように見えた。その女の子の背中から白い羽が生えている?
羽は大きく広がって前にいる僕の体を包み込む。
これって夢?まぼろし?僕の目がおかしくなったの・・・
絵本で見た天使も羽があった。この子はもしかして天使なのかな・・・?
何が起きているのかよく分からないけど、羽に包まれていると心が優しい気持ちになる。
ママに会えない悲しくて悲しくてどう仕様もなかったのに、その気持ちがちょっとずつ薄れてくる気がした。
ママに抱っこされているような安心できる心地よさを感じる。
涙を拭こうと手でゴシゴシ目をこすり、再度女の子を見ると羽が消えていた。
体中を包んでいた光も見えなくなっていた。
気のせいだったのかな・・・確かに見えていたのに・・・
女の子はニコッと笑って手に持っていた麦わら帽子をかぶった。
「私もう行かなくちゃ!」
「え?」
「あなたの名前は?」
「あきら」
「いい名前ね!私、ちせっていうの」
女の子とは元気にそう言うと「じゃあね」と手を振り走っていってしまった。
どうしたら良いのか分からなくて、どん底の気分だったのに、気づくとそれが薄らいでいた。
ママが天国に行ったことも現実として素直に受け入れられそうな気がした。
家に変えるとパパが心配して家の門のところで待っていてくれた。
大丈夫かと心配するパパに作り物じゃない笑顔を向けた。
天使にあったのは内緒にしておこう。
あの子の笑顔を見たときに胸がキュンってなったのも内緒。
誰かに言ってしまったら台無しになるような気がしたから。
ずっとずっとあの笑顔を忘れないでおこう。
もう一回会えるといいなぁ・・・
そして、彼女に会えることもなく月日は過ぎた。
冷静に考えてやっぱりあの日のことは幻だったのかと思いつつ、現実にあったことだと信じたい狭間の思春期に突入した春の日、いきなり俺の人生は回り始める。
ピンポーン
家に鳴り響くインターフォンに反応した俺は、誰が来たのかも確認せずゆっくり玄関のドアを開ける。
どうせ宅急便だろうと思っていたら、そこには俺と同じくらいの年の女の子が立っていた。
「隣に引っ越してきました桜井です。よろしくおねがいします」
菓子折りと思しき箱を差し出してくる。
顔を見て俺は声を失った。
それはあのときの女の子と瓜二つの少女。
クリクリの大きな目に、背中まである緩やかなウェーブを描く長い髪。鈴を転がしたような軽やかな声。
体を淡い光が包み込んでいるように見える。これは俺の目に補正がかかってるのか。
「下の名前を聞いてもいいですか」
思わずでた不躾な問にも笑顔で答えてくれる。
「千聖といいます」
俺の頭の中に鐘が鳴り響いた!
お粗末さまでした。