引けない理由
「ちょ、ちょっと待ってください!」
「自分がなに言ってるのか、わかってるんですか、黒井管理人っ!」
互いの体温を調節するための方法はハグである。
そう聞かされて、当然のことながら俺たちは疑問の声を上げた。
「第一、なんでハグなんですか。もっと他に方法があるはずです」
「まぁ、聞け。体温を上げるにしろ、下げるにしろ。異能を使えばお前たちは平熱から離れていく。互いの体温調節で異能を使ってちゃ切りがないんだよ」
「それは……まぁ、そうですけど」
「なら、異能を使ったあとに互いを抱きしめる他に調節法はないだろ」
たしかに言う通りではある。
異能による体温上昇はどんな対策をしても無意味だった。
体温を上がらないようにすることは、どう足掻いても不可能。
そして一度、上がった体温はなかなか下がらない。
身体の内側で熱がこもり、体表をいくら冷ましても後から熱が這い出てくる。
それなりの機材を使えば、短時間で体温を下げることも可能だけれど。
ダンジョンに持ち込める資材にも限りがある。
大きなもの、かさばるもの、脆いもの、重いものは、資源回収の邪魔だ。
魔物との戦闘のことも考えると、出来る限り身軽でいるべき。
そうなると、本当に抱き合うくらいしか、有効な体温調節法はないんじゃあないか?
認めたくはないんだけれど。
「まぁ、方法が方法だ。すぐに納得しろとは言わねーよ。ただ、そうして足踏みしているうちに、同期の連中は前へ前へと進んでる。ただでさえ出遅れているんだ。その辺のことを、よーく考えて結論を出すんだな」
この場をあとにする管理人に、俺たちはなにも言えなかった。
悪性異能を宿した時点で、俺たちはほかの探求者たちよりも出遅れている。
それはたしかな事実で、手段を選んでいられないことはわかっていた。
俺は第一界層の探求者で終わるつもりはない。
「……腹、減ったな」
静寂に堪えきれず、そう口にする。
仕事終わりで、飯も食わずに来たんだ。
そろそろなにか腹に入れたい。
「よかったら、一緒にどうだ? 飯でも食いにいこうぜ」
親睦を深める意味もこめて、彼女を誘ってみる。
「そう、ですね。ご一緒します」
「よし来た。じゃあ、俺の行きつけを紹介するよ」
年頃の女子を満足させられるような洒落た店かと言えば、そうではないけれど。
趣と落ち着きがあって、ゆったりと時間を過ごせるような、そんな定食屋を紹介しよう。
探求者をやっていると、こういう落ち着ける場所が恋しくなる。
殺伐とした世界から、人間の世界に戻って来れたような、そんな感じがするからだ。
だから、きっと気に入ってもらえるだろう。
「――美味しい、です」
「そりゃ、よかった」
定食屋にて。
とりあえず、俺のおすすめを二人前頼んだところ。
彼女――紅原は、気に入ってくれたようだった。
「とても不思議な感じがします。はじめて味わう料理なのに、その……なんというか」
「馴染む?」
「そう、それです」
舌によく馴染む。
食べやすいというか、親しみやすいというか。
そんな漠然とした思いが、身体の内から溢れ出てくるような味がする。
「そいつはたぶん、昔の料理の味になるべく近づけて造っているからだよ」
「昔の料理に?」
「そう、俺たちが生まれるずっと前、まだダンジョンがなかったころの料理にな」
大変動が起こってからと言うもの、世界の有り様は激変した。
それは食文化という観点から見ても、例外ではない。
「今や家畜や養殖は全部、ダンジョンから引っ張ってきた温厚な魔物で賄ってる。昔にいた牛やら豚やらはもういない。それで造られていた料理の味もな」
「だから、こんなに……馴染む」
既存の生態系は、ものの見事に崩壊した。
人類が長い年月を掛けて書き留めた生態調査や、あらゆる試み、記録は、すべて魔物という存在に塗り潰されてしまったのだ。
牛も豚も、ライオンもトラも、鷹も鷲も、図鑑の中の存在だ。
ひょっとしたら魔物化を逃れた動物が、まだどこかにいるかも知れない。
けれど、魔物という外敵が多数存在する以上、それも絶望的だ。
「代々受け継いできた自慢の味なんだってさ。おまけに、はやくて、安くて、美味い。三拍子そろった良いところだろ? ここ」
「そうですね。はやくにここを知れて、よかったです」
はやくに?
そう言えば、同期の顔ぶれに紅原はいなかったな。
察するに、どこからか引っ越してきたのか。
「よければ案内でもしようか? この辺りの」
「いいんですか?」
「あぁ、俺は昔からここに住んでるから、大抵の場所は案内できるぜ」
「是非、お願いします。この辺りの地理やお店を把握しておきたかったので、とっても助かります」
どうやら喜んでもらえたようで何よりだ。
パートナーになるのだから、関係は良好なものにしておかないとな。
そのためならこのくらいのことは、なんてことない。
「ごちそうさま」
「ごちそうさまでした」
談笑を交えた食事も終わり、俺たちは定食屋をあとにする。
その頃にはすっかりと日も暮れて、空には満天の星が煌めいていた。
「この星空は、どこで見ても変わらないんですね」
「そうだなぁ。日本からなら、そんなに変わらないだろうな」
別の国から見た星空は、どんな風だろう。
魔物に制空権と制海権を奪われる前は、海外旅行が気楽に出来ていたらしい。
飛行機一つで気楽に海を越えられたなんて、平和な時代だ。
まぁ、その頃にも色々と、その時代特有の問題があったのだろうけれど。
「……一つ、聞いてもいいですか?」
紅原の足が止まり、その数歩先で俺も止まる。
「あぁ、常識的な範囲ならなんでも」
「あなたは、どうして探求者になろうと思ったんですか?」
志望動機か。
「探求者は、常に死と隣り合わせです。定期的に遺書の更新をしなくてはいけませんし、未知の病気に罹ることもあります。それなのに、どうしてあなたは探求者を?」
普通の人間なら、まず選ばない職業だ。
しかも、俺の異能は悪性だ。
良性の異能者たちに、あらゆる面で及ばない。
それでも尚、俺が探求者になろうとした理由。
「――俺は、英雄になりたいんだよ」
「英雄に?」
「そう。弱きを助け悪しきを挫く。そんな英雄たちに憧れたんだ。探求者は英雄とはちょっと違うけど。多くの人を助けてるってところは一緒だからさ」
探求者の持ち帰るダンジョンの資源は、確実に誰かを救っている。
英雄のように、直接敵に誰かを救ったりはしないけれど、間接的には救えているはずだ。
なら、俺はそれでいい。
それだけで探求者を続ける理由にはなる。
異能が悪性でも、実入りが少なくても、死と隣り合わせでも。
「そう、ですか」
「そういう、紅原は?」
紅原だって、俺と同じ悪性の異能だ。
探求者を続けること自体に苦労が生じてしまう質だ。
それでも探求者になったということは、それなりの理由があるはず。
「私は……」
そこで一度、紅原は言葉を切った。
しかし、すぐにその先の言葉を紡ぐ。
「お金のためです」
「金?」
「はい。あまり裕福ではない家庭に、私は育ちました。私は叶いませんでしたが、弟や妹だけは、きちんと大学に行かせたいんです。だから、そのために」
「……そうか」
俺が今日、命懸けで稼いだ金額は、一万五千七百六十五円。
しかし、これは飽くまで第一界層での話だ。
第二階層に行けば、もっとたくさん稼ぐことができる。
月収が三桁に届くことだって、充分にあり得る話だ。
だから、危険を顧みず、紅原は探求者になった。
「互いに、引けない理由があるわけだ」
俺の理由は、紅原のそれほど深刻ではないけれど。
この胸に燻る思いに、目を逸らすことは出来そうにない。
夢の残滓に捕らわれたままの人生なんて真っ平ごめんだ。
俺も、紅原も、あとには引けない。
なら、進むしか選択の余地はない。
「なぁ、紅原。下の名前、なんて言ったっけ?」
「凍花です。紅原凍花」
「そっか。俺の名前は――」
「蒼崎篝」
「その通り」
彼女へと向き直り、その目を見る。
「抱きしめ合うとか、そういうのは一旦、忘れてさ。まずはこいつからはじめよう、凍花」
そして、手を差し出した。
抱きしめ合うだとか、ハードルの高いことは後回し。
まずは手と手を繋ぐところからだ。
その意図が伝わったのか。
それを見た凍花は、薄く笑みを浮かべて歩み寄る。
「はい、よろしくお願いします。篝」
凍花は差し出した手を握ってくれた。
俺たちは互いに握手を交わし、この時はじめてパートナーになれた気がした。