第76話
時が止まったように沈黙が続く。
ダリアの腕は行く先を見失い未だに持ち上げられたまま。
アメリアは静かに揺蕩う沈黙の海を揺らすべく、石―言葉―を投げ、波紋を広げる。
「お父様、わたくし喉が渇きました。お先に失礼致しますね」
たったその一言だけ。
アークは彼女の言葉から察し、瞬時に彼女の自室へと移動する。
アメリアの自室へと移動すると、アークの顔が悲痛に歪んだ。
もうダリアもいない。
顔を作る事をしなくなった彼に、アメリアはただ困ったように笑いかける。優しい彼が何に対して顔を歪めたのかアメリアには十分に分かっていた。
「アーク、そんなに心配しなくても――」
「します! 一体何をしたらこんなことが許されると思っているのですか! それに奥様の言葉はまるで……」
「……ただのお仕置きです。わたくしが殿下に頭突きをお見舞いしてしまったんですよ? これだけで済んだのなら良いじゃないですか」
言葉を遮るようにアメリアはダリアの行動は間違っていないと言うように告げる。
王太子に頭突き。不慮の事故だとしても確かにあってはならない事だ。王族への危害を与えてしまっている以上、お仕置きと言い切ってしまえばその通りなのだ。例え、行き過ぎた仕置きだとしても。
それはアークも重々承知している。
しかし、彼自身の心がついていかないのだ。
仕置きだとしても、何も目覚めたばかりの少女にする必要はないだろうと。
納得がいかないと眉間に皺を寄せている執事長に、困ったように笑みを向ける。話を変えようとアメリアは抱き上げている腕をとんとんと、叩く。
「この体勢も案外辛いので、降ろしてもらえると助かるわ」
「……申し訳ございません、取り乱しました。すぐに医師をお呼び致します」
アメリアをベッドに優しく俯せにすれば、ありありと浮かび上がっている傷跡。
なるべく傷に触れないように抱きかかえていた手袋にすらしっかりと染みついた鮮血。
握ればぽたりとその場に赤が一滴落ち、絨毯を汚す。
淑女の肌を晒しておく事は出来るだけ避けたいが、少女の背中から臀部に亘り、無事な部分が少ないのだ。
せめてと足元だけでもと隠しはした。
アメリアは苦笑するしかない。
痛みを通り越した熱さが襲う背中を気遣う彼の様子が、空気だけでも伝わってくる。
紳士的な対応にどれだけ背中が酷い状態なのか察する事が出来た。周回を繰り返した自分は慣れていると言っても、痛いものは痛い。今は痛いと言うよりも熱いのだが、相当酷いのだろう。
アークにそんなに酷いのかと問えば、低い声で「特に肩甲骨の辺りが」と隠さずちゃんと答えてくれた。
なるほど、とのんびり頷いているアメリアにアークは静かに奥歯を噛み締めた。
心配から来る怒りを抑え込むには今はそれが一番であるかのように。
彼の持つ能力が発動しようとしているのが俯せになっていても判るほど、室内に圧迫感が徐々に増していく。
(我慢してくれているのは分かるので、少し落ち着かせた方がいいですかね……)
感情を爆発させてしまえば過去の惨劇の繰り返し。
それだけは避けなければならないと頬を枕に沈めながら、アメリアは少し遠くを見つめながら呟いた。
「お義母様はわたくしをお母様と重ねているだけなのですよ」
「……え」
「お母様に似ているわたくしを嫌っていてもそれは仕方のない事。わたくしはそれだけ似ているのでしょう?」
虚空を見つめぼんやりと告げる少女にアークは何と声をかけて良いのか迷った。
確かにアメリアは本人も口にしている様に非常にアスターに似ている。
アークは自分も、姉であるライラに似ているとは思っている。しかし、それだけだ。
似ているだけで本人ではない。
特にアメリアの場合、その対象は既に他界してしまっていて、この世には存在しない。
あるのは残された者達の思い出という美化された記憶だけだ。
そのせいであの女主人はこの少女を苦しめていたのかと考えるだけで、アークの背後に混沌の扉が更にはっきりと浮かび上がる。
アメリアは視線をアークへと移し、静かに怒りを感じてくれている彼に首を振るだけ。
自分の為に怒ってくれている事は判っているアメリアは、どうしても彼の怒りを受け入れる事が出来ないでいた。
自分は愛されない存在故に、愛されなかった期間があまりにも長かった為に、警笛となって拒否をする。
しばしの無言の時間が続いた。
医者をすぐに呼ばなくてはいけないというのに、この状況で他の使用人たちに彼女を任せて良いものかアークは決めかねていた。
女主人の息が何処までかかっているかは把握しきれていない。
これ見よがしにアメリアに更なる危害に遭って欲しくなかったのだ。
何度か深呼吸を繰り返し、腸が煮えくりかえりそうな程の憤怒を鎮めようと考えながら試していた。
アメリアはと言うと、本当に喉が渇いたなぁとぼんやりしている。
不意にそんな二人のいる部屋の扉が叩かれた。
「どうぞ」
「お嬢様、まだ」
「良いの、アーク。〝少し黙りなさい〟」
「――っ」
アークに構築している禁忌魔法は健在。
そう命じられてしまえばアークは自分の意に反しても口を閉ざす事しか出来ない。
口を開いても音にならない。
困惑しているアークを置き去りにアメリアは今一度「どうぞ」と扉に向けて声を返した。
扉はゆっくりと開かれる。
天蓋のかかったベッドの横に立つアークに入ってきたダレンはそこにいるであろう少女へと声をかけた。
「大丈夫? と聞いても良いのかな?」
「至って問題はないですね」
やや声色は弱いものの元気そうに聞こえるアメリアの声に安堵からの溜息が漏れる。
アークは横目に「どこが」と口にして怒鳴ってしまいたかった。明らかに目の前に横たわる少女は問題ないわけがない。
声色でしか判断のつかない少女の言葉を信じる方も信じる方だと、苦労人アークは先程と違う意味で内心イライラしてきていた。
「……ん、そう。下りて来られる?」
本当にこの兄妹は何を言っているのだろう。
アークは現在口を開くことを禁じられている。
先程の部屋がいくら暗くとも状況を考えれば、アメリアの状態を想像するには容易い筈だ。
それが一体全体どうしてすぐに〝下りて来られる?〟に繋がるのか全く理解が出来ない。
質問をなげかけられたアメリアもアメリアで、また普通に受け答えを始めるではないか。
「お兄様。お義母様の処分はわたくしが決めても良いですか?」
「それを決めるのは父上だ」
「ですから、動けないわたくしの代わりにお兄様に頼んでるんじゃないですか」
「……そんなに酷いのか、アーク」
やっと聞いてくれたか! アークは瞬時に頷き返す。声は発せなくとも即答してみせた。
そんなアークにアメリアはやや不貞腐れた顔をして「話して良いですよ」と小さく命令する。流石に兄への返事を蔑ろにアークがするのは宜しく無いと言う判断である。彼女自身はしばらく黙っていて欲しいのであるが、今は仕方ないと引き下がった。
やっと話せると再びダレンにアークは声でも答える。
「はい。正直、意識を保って会話されているのが不思議な程です。お嬢様の肌を晒してしまって申し訳ないとは思いますが、傷口に当たり時間が経てば張り付いてしまい兼ねません」
「それは――」
アメリアの懸念していた通り、アークは余計な事を報告し始めた。
力の入らない腕に起き上がる事が出来ない状況で彼を止めるべく、アメリアは首の稼働力を最大に、顔を横に向け、アークを睨む。
「アーク……余計な事は――」
「私はお嬢様の傷は目に致しましたが、肌を見ておりません。ご安心ください。私は医師を急いでお呼びして参ります。お嬢様は今現在、自分で動くことが出来るでしょうが、それは出来るだけという事をご理解下さいますよう」
二人の言葉を遮ってまでアークは自分の意見を通した。
アメリアもダレンも普段決してしない彼の行動に驚くも、咎めなかった。ダレンにしてみたら咎められなかった。
それほどに酷い状態なのかとダレンは、アークの真剣な表情を見つめた。シルバーグレイの瞳は冷たく「何故わからない」と細められた。
「むぅ……」
「お嬢様こればかりは聞けません。後でお叱りはお受け致します」
唇を尖らせ拗ねている様子を見せる少女に、執事長は断固として譲る気はないと首を振ってみせる。
「アメリア、ユリが泣いていたんだ」
時が一瞬停止したのかのように思えた。
――一体何なのだ。
アークは眼鏡の位置を直しながらダレンへと視線を戻した。
今、ユリは関係ないだろうにと。
不思議な事に口にしたダレンもダレンで自分の口を片手で軽く押さえ表情を曇らせていた。
「そう、ですか。連れて来たのはお兄様でしょう? 後で慰めてさしあげて」
「君が泣かした――……っ!? いや、違う、……」
頭を振り悔しそうに唇を歪めるダレンに、アークはあの時の違和感を抱いた。
王太子が来た時だっただろうか。
あの時も彼は顔を歪めていたのではなかったか。
言動と表情が一致しないダレン。
アメリアはダレンの表情を見られないのでベッドの上で首を傾げている。それよりもさっさと話しを切り上げて、終わらせてしまいたい心境だったりする。
「お兄様? 何でも良いです。お願い事は済んだので後は任せます。お医者様に診て貰ってからお父様ともお話ししますから」
「わ、かった……。アメリア」
歯切れの悪い返事をし、自分の名前を呼ぶ兄にやや疲れた様子でアメリアは返事をする。
本当に心配はいらないのだと言い聞かせるように。
「もう、何ですかお兄様」
「今回が初めて――」
「ですよ」
嘘だ。ここにいる男二人はそんな嘘を信じる程馬鹿ではない。
愚かだと自分で口にするアークではあるが、彼女の言葉を鵜呑みに出来るほど愚かでもない。また兄であるダレンも状況と地下での会話を見て聞いている。
両方とも頭の作りは悪くはない。むしろ良い。それでもアメリアは〝嘘〟を貫き通すつもりらしい事は二人とも感じた。
だらんと腕をベッドから伸ばし力なく持ち上げ、投げ出す。何とか天蓋から外に出す事に成功したアメリアは、これ以上無駄な心配かけまいと兄に手を振って見せる。腕にも広がる悲劇の痕は、自然とダレンの目に触れる。
痕跡からして今回の件以外のものまで含まれている傷跡に、ダレンは眉を潜めた。
ベッドからせめて落ちないように支える為にアークが屈むも、アメリアは視線だけで拒絶する。
アメリアはひらひらと手を動かしてなおも〝嘘〟を作っていく。
「殿下に頭突きすれば処刑も本当はあったのですし、寝坊助なわたくしに処罰かこれだけなら優しいのでは?」
嘘を誠にするのはこの二人の役だとアメリアは嘘を続ける。
盛大な溜息がダレンから漏れ、アークへと視線を向け頷き合った。
「ん。君がそう言うのならそういう事で良い。それじゃあ、可愛い妹の頼み事を優しいお兄様が勝ち取ってきてあげよう。それに優秀なアークは君の体を見ていないって事で」
「ふふ、そうですよ~。アークは何も見ていない。アークにお咎めはなしです。ついでに可愛いわたくしの妹の面倒も宜しくお願いいたしますね~」
「行くぞアーク」
「しばし離れますが、誰も侵入出来ないようにしておきます。少しの間耐えて下さい」
精霊語を紡ぎ、去っていく足音にアメリアはゆっくりと重くなっていた瞼を閉じる。
いい加減限界だったのだ。いくら体力をつけようと眠りこけていた時間が長い。
目覚めてからの現在。
体力はすでにないに等しかった。それでも二人がこの部屋に誰かがいる間だけでもと、鋼の精神は働き、アメリアを支えた。
扉の締まる音と共に小さくアメリアは呟き、意識を手放した。
「……行ってらっしゃい、アーク、お兄様」
アメリアが意識を飛ばした後、すぐに連れて来られたお抱えの医者はアメリアの怪我の具合を見て小さく悲鳴を上げた。
幼子に対しての体罰にしては度を遥かに超えたそれを見た医者はなるべく彼女が起きないように丁寧に、献身的に治療魔法を施した。
それでも消える事のない傷口が両肩甲骨の周りにある事を、公爵へと報告した。
あれは体罰ではない。ただの虐待である旨も同じく告げる。
報告を受けた公爵はただ「そうか」としか口にはしなかったのだった。
否、出来なかったのだった。
◇◇
「今から口にする事は独り言だ。それに、これには確証がない」
「……」
「薄々ではあるが自分の言動が信じられない時がある。そればかりか、言いたくない言葉すら口にしてしまうくらいだ」
アークはただただ黙ってそれを聞きながら、共に廊下を進む。
ダレンの独白は続く。
「一体いつからと言うのも正直確証はない。だが、アメリアに対して今まで思った事もない事を考えてしまうようになってきた」
先程のように顔を歪めているダレンに、アークは瞳を細めて見つめるだけで口を開く事はない。
「今考えても、状況を鑑みればアメリアの体は動かせる状態ではないのを判っても良い筈なんだ。それだと言うのに……」
誰もいない渡り廊下の柱に強く拳を叩き付けた。
「アメリアは〝動ける〟〝問題ない〟〝些細な事〟と考えていたんだ! ユリが泣いていた事の方が重要だというように!」
「……手を痛めます」
決してアークはダレンの言葉に返事はしない。彼自身が独り言だと口にしたから。
力加減を忘れ怒りのまま叩き付けられた拳は赤くなり、変色している。
魔力を込めて殴らなかっただけ、まだ彼の中の理性も戦っているのだろうと、アークは静かに赤くなった手をハンカチで覆った。
彼の言いたい事は十分に伝わったとアークは直ぐに手を離すと歩みを再開した。
「落ち着かれますよう。急いで医師を手配しませんとお嬢様がもちません」
「……あぁ」
振り向く事なく、前を向き進んでいく執事長に残されたダレンは苦笑し窓から空を見上げた。流れる雲を見つめ、白いシーツのベッドで横たわる妹へ想いを馳せた。
「何が起こっているのか分からないのは面白くないよ、アメリア……」




