第35話
廊下が騒がしくなり直ぐに激しく扉が開かれた。
首だけをなんとか起き上がらせて確認すると傾れ込むかのように入ってきたのは、水を持っているライラ、訓練に出ていたのか訓練衣装のダレン、大公の威厳を投げ捨て走ってきたのか心配するアグリア、ライラから近付かれて声をかけられたのであろう連れて来られたアーク、そして乳母に抱かれたユリの姿。
(ユリ!最近ダリアお義母様のガードが強くて見れていなかったけど!2歳のユリはぷにぷに天使さんですねっ!)
周りの空気をなんのその、アメリアはユリの乳児特有の可愛さを目で堪能して再び枕に頭を落ち着かせた。
天蓋のお陰で表情を作らなくても済んだ事にアメリアは少しばかり安堵している。
アグリアがライラから水差しを奪いアメリアの元に足早にやってくる。
「よう、おちびちゃん」
差し出された水差しにアメリアは小さく口を開き、ゆっくりと飲み干していく。
それなりに入っていたであろう水をほとんど飲み干したくらいで、やっと擦れるように声を出す事が出来るようになった。
「お…ばぁ…さま?」
アメリアの声にアグリアは悲しそうに微笑む。
「お前をこんなにしたわしをまだお婆様と呼んでくれるのか…」
「お嬢様、バルコニーから落下した事は覚えておられますか?」
「え…と…」
はっきりと覚えているが自分を見つめている瞳の数々はいつになく苦しそうだと、アメリアは思う。
ユリの乳母と少し離れた所にいるアークの表情は伺えないが、どうやら色々な人達に心配をかけてしまったという事だけは理解出来た。
アメリアはライラの問いに小さく頷きそれがどうしたのかと瞳で問い返す。
「若様とお嬢様が落下した後、瓦礫がお嬢様の頭に激突し…お嬢様だけは…目を覚まさなかったのです」
(あっ!だから頭が重いんですね!なるほど!にしても突発イベントではやっぱり死ねないですねー。感覚的には死ねるって思ったんですけど…流石は世界の強制力といったところでしょうか!本編までは生きろってことですか)
鋼鉄の精神と魂を持つアメリアは内心でとても納得し、死ねない事よりもこの世界の力に改めてまじまじと感心している。
やっぱりとつけている理由は様々だが、過去の周回で彼女は目覚めた時、自らの命をさっさと終わらせようと自殺を試みた事があった。しかし、それが実行に移される前に“必ず”邪魔が入り何をしても命を落とす事が出来なかった。試したのは全て物語本編が始まる前だったが、アメリアは何度も繰り返し試みたが全て失敗に終わっていた。その為、いつの周回かアメリアは自殺出来ないと頭の中で理解してしまったのだ。その事も相まって本編が始まってから彼女が試みた事はなかった。
最後の周回、様々な不確定要素が多いこの周回ならばと考えたが、結果は失敗。アークに関しては彼の怒りを受けるのは尤もで、それでアークの心が救われるなら軽いものだと思って受け入れたが、結果はアークを怒らせても死ねない。瓦礫が頭に当たっても死なない。突如として物語にないイベントがアメリアを襲ったが、どれも彼女が死ぬには至らない事ばかり。
瓦礫が頭に衝突して生きている事は普通ならばまずあり得ないというのに、彼女は現に生きており水を飲んでライラの話を普通に聞いている。
「そう…」
「坊主は直ぐに起きたんだけどな…ちびちゃんだけは目を覚まさんで、今の今まで寝てたんじゃ」
(お…やぁ??)
アメリアは強制力に対し感心していた所だったが、内心首を傾げた。
「いま…いつ…」
「落下してから…三日過ぎております」
(なんですと!?三日も眠っていたんです!?)
むしろ瓦礫が当たって三日で目を覚ました事に驚くべきなのだが、アメリアは三日も眠っていた事に衝撃を受けていた。
そして更に彼女は思う。
(三日も無駄にしてしまったのですか!?何て事です!三日もあれば噂の一つや二つ増やせたかもしれないのに!何て事!!!)
鋼鉄の精神と魂のアメリアは斜め上にショックを受けて嘆いたのである。
今すぐに頭を抱えて蹲りたい欲求を抑え込み、ダレンへ視線を向けた。
表情はアメリアが目覚めた事を確認して幾分か明るいようだが、顔色が明らかに通常の時よりも悪く、目の下にはうっすらと隈を作っている。
彼の美しさは失われていないが、いつものようなダレンではなかった。
「アメリア…ごめんね…守れなくて…。昨日とか殿下も来て下さっていたんだけど…今日は用事があって、一応知らせるけど来られるのは明日だと思う…」
アメリアは珍しく歯切れが悪く、弱々しく言葉を発するダレンに察する事が出来た。
(殿下の事は、今はいいのですけど…お兄様、あんまり寝てないんですか…?服装からして、さっきまで鍛えていたのですか…?)
一応婚約者であるジークライドに対しては、現在頭を使っている余裕のないアメリア。
一緒に落ちて彼も彼で大変だっただろうに、自分に謝ってくる優しい兄に少しだけ感謝し、心配しているのである。
いくら成長しても齢10歳の男の子だ。突然崩れたバルコニーから一緒に落下していたのだから、対処できなくても仕方ないというのにダレンは後悔の表情を浮かべている。
あの時、アメリアには防御の魔法を構築する余裕があり、ダレンにだけはかけていた事もあり、見るからしてダレンは大きな怪我を負っている様子はない。
その部分に関しては安心している。
アメリアは重たい頭をゆっくりと横に振って答える事にした。
今のうっすらと隈を作っているダレンを見て、夢の中の出来事が頭に過り、彼に対して今は強く出られなかったのかもしれない。
三日眠り続けていた事で弱くなっているのだろうと、普段のアメリアを知っているユリの乳母とアークは思っている。乳母の腕の中にいるユリは大人しくしており、アメリアをじっと見つめているだけ。
少し重たい空気が室内を包んでいる中、アグリアはアメリアに勢いよく頭を下げた。
「すまんかった、ちびちゃん!わしが二人を驚かそうと下から軽く小突いたら、思った以上に軟くて…破壊しちまって…怪我までさせちまった…」
(……はい…?)
「お咎めなしとつーわけにもいかんし…ロイドに捕らえて罰を与えてくれと言ったんだが、アメリアが決めると一点張りでの…」
(はい!?ちょっとお待ちくださいお婆様!?破壊した!?軽く叩いて破壊できる程、軟く出来ていませんよ?!この建物!!!)
アメリアは夢の事はさておいて、自分が三日眠って時間を無駄にした事よりも、目の前で謝るアグリアの言葉の方が衝撃を受けた。
彼女が言うにはダレンとアメリアを驚かそうと下から“小突いた”だけだという。
それなのにバルコニーは崩壊し、二人は落下。アメリアに至っては瓦礫と衝突し三日寝込むという。
信じられずライラを見れば本当だと頷いて肯定している。
アメリアは自分の祖母のポテンシャルの高さに驚きを隠せない。
(そりゃあ…あの超人一族ライラとアークが片手で沈められて、怯えるわけですねー…。軽くですかー…)
未だに信じられず受け入れられていないアメリアは遠い目をしている。
そこではて?と思い出した。
「おとがめ?」
アグリアが起こした事は本人からしてみれば“軽く小突いた”だけだが、他の者からしてみたら立派な“襲撃”である。
ましてやこの国の四大公爵の一人の屋敷で、その娘と息子の二人がいるバルコニーの破壊。
いくら彼女が隣国の女大公だとしてもそれは違えようがない事実。
屋敷の主であるロイドがアグリアを捕らえず、アメリアが決めると判断を下して放置しているのであれば、彼女に罰を与えるのはダレンではなくアメリアだ。
アメリアはどうするべきか頭を回転させる。
(えーーーー…。別に死んでませんし…でも何かしらの罰を与えないとお婆様の事だから納得しないでしょうし…責任私ですかー?…お父様にかけた魔法のせいではないと思いますが…えー)
一体何の罰を与えるのか、その場にいる誰もがアメリアを見つめている。
観察されている感じのするアメリアは凄く居心地が悪い。
寝起きで状況を説明されたのまでは分かるが、それ以上の事をしろとベッドの横で頭を下げたままの女大公は申している。彼女は彼女で早く罰が欲しいのだろうというのは、寝起きのアメリアでも分かる。分かるのだが待ってほしいと同時に思うのだ。
自分は腐っても公爵令嬢であると分かっているのだが、今はとても…
(め ん ど く さ い ですねー。そんな事よりもこの公爵家の未来の方が私は心配なんですよ!)
といった内心なのである。
瞼を閉じて考えているのだが、特に情報の無い自分の祖母に対し上手い罰が思い浮かばないアメリア。
正直面倒だと思っている部分が大半を占めてしまっているので、瞼を開きにっこりといたずらな笑みを浮かべてダレンへと視線を向ける。
その笑みを確認したダレンはうっすらと浮かぶ隈を付けた顔を嫌そうに歪ませた。
(流石はお兄様!理解がはやい!めんどうなのでパスします!)
まさかのアメリアは祖母アグリアの罰を兄ダレンに任せたのだ。
「お兄様も、被害者です。お兄様…が決めてください。わたくし、まだ頭が回りませんし…」
嘘である。
体的には嘘ではないのだが、頭はかなり回っており嘘であると言えよう。
弱々しく声を出せばその場の誰もが彼女の言葉は本当だと思い込んだ。選ばれた一人を除いて。
観念したように溜息を吐いたダレンは、アメリアの言葉に真黒い笑みを浮かべて答える。
「ん。わかったよアメリア。どうなっても、今の言葉よく覚えておきなよ?」
「何を覚えておかなくちゃいけないのでしょう?では、宜しくお願い致しますね。お兄様」
起きたばかりの怪我人アメリアと顔色の悪いうっすらと隈を作っているダレンの間で、両者ともに笑顔を浮かべているのに、何故か火花が散っているような気がすると、間近で見ている無表情なライラは思った。
「お婆様もそれで良いですね?わたくしは…お兄様にお任せ致しました。それが如何なる事でもお婆様は叶えてくださいますね?」
未だ頭を下げたままのアグリアに、アメリアは少し戻ってきたいつもの調子で話しかける。
アグリアは下げていた頭を上げて強く頷いて見せる。
「あぁ!この女大公に二言はない!」
「ですってお兄様」
「んー…ハードル上げないでくれない?急に言われてもなぁ…」
さり気なく兄へのハードルを上げていたようだが、アメリアは気にしていない。
それよりも自分が考えなくてはならない事を優先したかった。
「わたくし、少し疲れました…。ライラ軽い食事をお願い。ユリ、わたくしは見せ物ではありません。ずっと見られているのは不愉快です。他の人もわたくしの無事を確認したのならさっさと出てって下さいな」
「アメリアお嬢様!ユリお嬢様も小さいながらお嬢様の事を心配なさってっ!」
「ライラと違い、きゃんきゃんうるさい乳母ですね。そんな小さいユリがわたくしを心配できるほど物事を理解しているわけがないでしょう。お前もユリも不愉快だわ」
あえてライラという対象を出しながら罵った事で、ユリの乳母は歪む表情を隠すことなく部屋からユリを連れて退室していった。
腕に大人しく抱かれているユリは、ただじっとアメリアを部屋から出ていくまで見つめていた。
アークは無表情に綺麗に礼をし、ダレンにロイドに報告してくる旨を伝え出ていく。彼は元々ライラが無理やり連れてきたのだから、報告しに指示を出したいのにそれも出来ずにこの場にいたのだろうとアメリアは考えている。相変わらずの苦労人である。
罰を考えなくてはいけなくなったダレンは頭の後ろをかきつつ、祖母のアグリアを連れて扉を閉めた。
残されたライラは全員が出ていった後、膝からその場に崩れ落ちた。
「えぇっ!?」
「お嬢様ーー!!本当に良かったです…」
泣いてはいないようだが、無表情が木っ端微塵に崩れ去っている事から察するに、ライラは本当に不安だったようだとアメリアは理解する。
ライラに優しく微笑みかけながら重たい腕を持ちあげて、彼女の頭をゆっくりと撫でる。
「心配掛けてごめんなさい。わたくしは大丈夫よ」
「後頭部にぶつかりました瓦礫は証拠として確保してあります!いつでもあの方に同じ事を!」
「しないでいいから!って後頭部…?」
確かに少し痛い部分があるような気がすると、アメリアは撫でている腕とは逆の腕を自分の後頭部に持っていく。
治療魔法が使われたのか傷口はないようだが、少しばかり触った感触が近くの皮膚と違う気がする。
頭を確認しているアメリアにライラは言い辛そうに視線を彷徨わせながら、続きを言葉にしていく。
「はい。医師の方が仰るには痕が残らないと、ただ…」
「ただ?」
少し長い間が二人の間に出来た。
ごくりとライラが生唾を飲み込み、撫でているアメリアの手を握り自分の額に祈る様に当てた。
「その部分だけ少し薄く…歳を取ってから禿げるかもしれないと…」
(は げ る !?)
不意にアメリアは先日のレオンの言葉を思い出した。
――細かい事気にしとったら禿げるで
まさかこの様な形で禿げる可能性が生まれるなどアメリアは思っておらず、瓦礫がぶつかったであろう部分を擦った。
(レオン様が禿げフラグを建てたんですか!?この私に!?禿げませんように…禿げませんように…っ!)
鋼鉄の精神と魂のアメリアは女性であり、女の子である。
ライラがアメリアの手を離し食事の準備に出ていった後、髪質が細いアメリアは必死に願う。一攻略対象であるレオンが禿げフラグを建てられる筈もないのだが、彼女はそんな事を気にする余裕はないのだった。
その後、知らせを受けたロイドが足早に戻ってきたのだが、食事を運び終え済ませた後、再び眠った主の部屋の前で陣取っていたライラと、攻防戦をしたのであった。
そして、マイクとダリアは最後まで彼女の部屋にはやってこなかったのである。




