ただ、一人のために
「聖女様、祈りの言葉を」
人のすすり泣く声の合間に、その言葉が聞こえた。
まるでその場の全員で示し合わせみたいに、一斉に私を見る。…私は、その雰囲気さえ苦手だった。
「…っ…皆さん、目を閉じください」
誰もが涙を流しながらも目を閉じ、手を合わせる。それを見てから、一歩前に躍り出た。
付き従ってくれる神官が、そっと棺の蓋を開けた。
「っ――」
中で眠るように目を閉じるその人の肌は異様に白く、蝋でできた人形を連想させた。動揺を無理に抑えて、目を閉じ意識を集中させる。
「――我らが女神ステラよ、かの者の魂をお救いください」
この短い言葉に一体どれほどの力が宿るのかを私はよく知らない。ただ、この言葉を口にすると背筋が粟立って、どうしようもなく不安な気持ちになる。
私たちは生贄なのよ、ティナ。
そう、養母にして祖母のようなあの人は言った。
人の罪を一手に受けて浄化するのが私たち…奇跡の代行者にして人である聖女の役目。
幼い私はいつも泣いてばかりだった。どうして自分なのかと、全て投げ出して逃げてしまいたかった。
そんな私を慰めてくれたのは、私と同じ孤児だったエリオットだ。彼は今大神官となり、私のことを影で支えてくれている。
だから、エリオットを殺せという内容の神託を、私は握りつぶした。
エリオットがいない世界に生きる勇気なんて、なかったから。
多分私は長生きできないのでしょうね。彼はいつか、困ったように笑って幼子をあやすようにそういった。
彼には忌み児の血が少なからず流れているらしい。
忌み児は生まれたらすぐに殺さなければならない。そんなものの血を受ける彼は、多分ばれてしまったら殺されるんだろう。
彼より罪深い人なんて山のようにいるのに。
ふと、頬を風が撫ぜるのを感じた。目の前の人たちは一心に祈っていて気付かない。遺体の周りは黒い靄に覆われていた。
少なくない人数で、こういう場合がある。聖女が罪を引き受けても天に行けない魂。基準はよく分からない。罪を犯し、人を殺しても天に行ける魂もあれば、誰もが口を揃えて言うほどの善良な人が天に行けないこともある。
天に行けばもう一度人としての生を受けることが出来る。そうでないなら、魂の輪はそこで途切れる。ただ、それだけだ。
「――終わりました」
神官が棺を元に戻してからそう言った。張り詰めていた空気が緩むのを感じる。
「聖女様、ばー様は天に行けましたか!?」
ほんの少しの不安と安心感。彼らの目にはそんな色が浮かんでいた。
私は飽くまで何でもないというような顔をする。代わりに神官が「規則ですので、お教えできません」とだけ言った。
どうやってここに来たのかは覚えていない。気づけば私は聖堂に来ていた。先ほど神の教えの説教は終わったらしい。聖堂の中は人一人いなかった。
私は聖堂の真ん中に立ってステンドグラス見上げた。美しい女神が人に施しを与える絵。一番大きな光を受け取ったのは初代の聖女なのだという。
彼女は何も思わなかったのだろうか。余りにも身勝手な神と、自分勝手な人間に。――何より、己を看取らせる弟子の心境に。
私が初めて祈りの言葉を捧げた相手は養母だった。安らかに眠る彼女は天に行くべき人だと信じて疑わなかったのに、その思いはあっさりと裏切られ、彼女の体は黒い靄に包まれてしまった。
聖女は人の罪を受け取る存在。そんな私たちの業は人より深い。
大体の聖女が天に行くことができないのだと、私はその時に知った。
別に、特段優しい人ではなかった。どちらかといえば彼女は私を取り巻く環境で誰よりも私に厳しかったと思う。けれど、誰よりも慈愛に満ちていた。
そんな彼女の死に対して、私はどう思ったのか、あまり覚えていない。ただその日は、暗い部屋で毛布をかぶって寝たことだけは覚えている。
そして起きると、彼女がいた痕跡が全て消されてしまって、なんだか胸に穴でも空いたような気持ちだったことも。
彼女はこの聖女という歪な存在に、一体どんな思いで就ていたのか。
日記すら残っていない彼女が何を思っていたのかを感じ取ることは、きっと私には難しかった。
きっと私も、天には行けないだろう。こんなに人の穢れを受け入れた、最早人ではない私には、そこは余りにも遠すぎる。
ならばせめて、唯一の願いだけは叶えてくれないだろうか。
私はエリオットより先に死にたい。彼が死んでしまったら、きっと私はその時に死んでしまうから。
私はそっと祈る。どうか彼の罪を全て私へ。私だけを殺してくださいと。
「…大神官様、どうかなさいましたか?」
人の気配を感じて後ろを振り向けば、案の定そこには大神官――エリオットが立っていた。彼はいつもの様な貼り付けつけた笑顔ではなく無表情だ。
きっと疲れているのだろう。恐らく私にしか気付けないだろう小さな変化。彼は何でもないという様に首を振った。
「…いや、なんでもありません。貴女こそどうされたのですか、聖女ティナ」
余りにも余所余所しいその呼び方は、私が正式に聖女になった日から変わらない。まるでそれが、私たちのあるべき距離だとでも言うように。
「…少し、暇があったので、祈りを捧げに来ました」
「…そうですか。私もよろしいですか?」
「私は、構いません」
私は隣に彼が跪くのを感じながら祈りを捧げる。ただ一心に、私のために。
どれくらいの時間が経ったのか、エリオットは遠慮がちに私に声をかけた。
「…ティナ、そろそろ戻りましょう」
「…はい。大神官様、私がここに来ていたことは…」
「えぇ、誰にも言いません」
聖堂は本来、聖女が足を踏み入れていい場所ではないという。恐らく聖女を取り巻く環境が影響しているのだろうが、私は幾度もここに来ていた。一度も咎められたことがないから、エリオットは黙っていてくれているのだと思う。
「…はい、ありがとうございます、エリオット兄さん」
「……行きましょう。あぁ、何か本でも貸します、私の部屋に寄りましょうか」
「はい」
少し先を歩く彼の手を見ながら、そう言えば昔は手を繋いでよく出かけたことを思い出す。…あの頃に戻れたなら、どれほど幸せだろうか。
最後に一度、ステンドグラスを見上げる。美しい女神ステラ。私の何より憎いもの。
私はお前のいいなりになんかなってやるものか。決して、屈するものか。
エリオットだけは、絶対に渡さない。
女神を最後に睨みつけて彼の後を追う。
笑うはずのない彼女は口元にいやらしい笑みを浮かべたように見えたのは気のせいだと言い聞かせて。