◆第七話『あのときのドラゴン』
「違うぜ、姉御! あれは別のドラゴンだ!」
ロッソさんがそう叫びながら1方向を指さしていた。その先を辿ると、兵士さんたちがさっきまでドラゴンを形成していた鳥たちを詰める様子が映り込んだ。もしさっきのドラゴンだとしたら、あの鳥たちが浄化されたままなわけがない。
ロッソさんの言う通り別のドラゴンと考えるのが妥当だ。でも、だとしたらいったいどこから──。
「見て、ミズハちゃん。さっき倒したドラゴンの目は赤色だったけど、あのドラゴンは青色だよ」
上空で旋回を続けるドラゴンを見ながらナディちゃんがそうこぼした。遠くて私には目の色まで確認できなかったけど、ナディちゃんが言うのなら間違いない。そして私は青い目のドラゴンに覚えがあった。間近で見てはっきりと記憶に残っているから間違いない。
「そっか! 山を徘徊してたドラゴンだ!」
「つまりもともと2体存在していたということですか……」
私の言葉にレックスが険しい顔でそう結論づける。1体いれば2体いてもおかしくはないけど、まさかこんなにも近くにいるとは思いもしなかった。絶望感が湧き上がってくるけど、すぐにそれは収まった。近くから聞こえてきた勇ましい声のおかげだ。
「何体いようと同じだ。我々ルコルがまた地に伏せさせるまで──!」
ルコル族の人たちが次々に矢を射はじめた。わずかな弧を描いて対象に向かっていくたくさんの矢。何度見ても壮観な光景だったけど、結果はさっきと違うものになった。
「効いてない……!?」
「いや、そもそも当たってすらいないぞ!」
「あの靄だ! あの靄に弾かれてる!」
ドラゴンの周囲にうっすらと漂う靄がすべての矢をはじき返していた。さっき倒したドラゴンにはなかったものだ。ルコル族の人たちの間に動揺が走りはじめたけど、それを鎮めるように1本の矢が空を駆け抜けた。
ルコル族長のテオスさんが射たものだ。ほかの矢よりも鋭く虚空を突き進み、ドラゴンの靄に触れても弾かれずに突破した。パリンと聖水の入った硝子の破砕音が聞こえてくる。
「さすが族長だ!」
「でも、矢は刺さってないぞ!」
歓声で沸いたのも一瞬、すぐにまた驚愕の声があがった。矢は靄を突破したものの、勢いをそがれてドラゴンに刺さることなく落下してしまったのだ。テオスさんが即座に追加の矢を放っていたけど、やっぱり同じ結果に終わってしまう。
「そんな、テオスさんでもダメなんて……これじゃ打つ手がないじゃん!」
私がそう叫んだときだった。これまで好き放題に矢を射られていたツケを返すようにドラゴンが暴れ出した。
空気をびりびりと震わすような咆哮をあげたのち、黒いブレスを眼下の地面に向けて放出しはじめる。それも一瞬では終わらずビームのように極太の線がずっと残った状態だ。まるで絵でも描くかのように、あちこちの地上を黒いブレスで抉っていく。
「凱旋後にミッズハーとの式が控えているんだっ! 僕はまだ死ねない!」
「帰ったら女神様に甘やかしてもらう約束をしたですっ! イーリスはこんなところで死ぬわけにはいかないです!」
妄想の入り混じった叫びをあげながら逃げ惑うキースさんとイーリスさん。あの2人はともかくとして、多くの人たちが黒いブレスに当たらないようあちこちを必至に駆け回っていた。
視界は真っ黒だらけだし、地面は大きく揺れている。世界が終わるならいまじゃないかと思うぐらい凄惨な光景だ。このままじゃ全滅必至だ。私が「レックス!」と助けを求めるように叫ぶと、すぐさま頷き返された。
「もとより2体目は想定外の事態です! ここは無理をするときではありません!」
レックスが手綱を引いてヴィアンタをぐるりと反転させたのち、全員に聞こえるように声を張り上げる。
「撤退だ! みな、急いで撤退を!」
指示に従って全員が馬を駆けさせる。ただ、黒いブレスのせいでまとまりがない。各々の距離間が大きく開いたまま走っている状態だ。とはいえ、いまは隊列を気にしている余裕はない。まずはドラゴンから離れることが先決だ。
味方全員がクラドルカからどんどん離れていく。そしてついに以前訪れた際にドラゴンが追走をやめたラインを越えた。前回と同じならここで追走を諦めてくれるはずだけど──青目のドラゴンは黒いブレスを吐くのをやめたのち、翼をはためかせて勢いよく私たちを追ってきた。
「うそっ、前のドラゴンは追ってこなかったのに!」
「あの個体にはクラドルカを守る気がないのかもしれません!」
山から来たことからも本当に自由なドラゴンだ。逃がさないとばかりに咆哮をあげながら猛追してくる。さっきと違って色んな場所に人間がいる。だけど、ドラゴンが進む先は一貫していた。その先は……。
「わかってはいたけど、やっぱり私かー!」
「ミズハ様、しっかり掴まっていてください!」
地面に影が落ちるほどドラゴンが迫ってくるや、前足を交互に振りかざしてきた。レックスの巧みな手綱さばきで回避には成功したけど、風を叩くような音に全身が思わずこわばってしまう。あんな攻撃に当たったら1発で終わりだ。
と、視界の右端に獰猛な牙を覗かせたドラゴンの口が映り込んだ。
「ひぃっ!?」
今度は噛みつきを繰り出してきたみたいだ。またレックスのおかげで躱せたけど、こんなのが続いたら命が幾つあっても足りない。なんとかしないとと思っても、レックスの馬に乗っているだけの私にはなにもできない。いや、そもそもあのドラゴンに出来ることなんて私にあるのか謎な状態だ。
なんて対策を考えようとしていたとき、突然、目の前が真っ暗になった。ドラゴンが黒いブレスをヴィアンタの進路を塞ぐ形で吐き出したのだ。避ける暇なんてなかった。気づけば激しい衝撃に全身が襲われていた。
少しの間、自分がどうなったのかわからなかった。でも、意識はあるし、生きていることはたしかだ。それに衝撃こそ凄かったけど、痛みはあまりない。どうしてと思いながら目を開ける。と、私はレックスに抱かれていた。どうりで無事なわけだ。でも、当のレックスは私を庇ったせいで全身に傷を負ってしまっていた。
「レ、レックス!? 大丈夫なのっ!? すぐに私の左手で──」
「あの力はミズハ様への負担が大きすぎます。私は……大丈夫ですから……ミズハ様……どうか早くお逃げを……!!」
「そんなレックスを置いてなんて──」
私はそこまで言いかけてから、呑み込んだ。もともとドラゴンは私を狙っていた。私が近くにいたままではレックスが巻き添えを食らってしまう。一瞬の逡巡を経て、私は全力で駆けだした。でも、人間の足で離せるほどドラゴンの移動速度は遅くない。すぐに距離を詰められてしまう。
すぐそばに着地したドラゴンが大きな口を開いた。その中で黒い靄が生成されていく。きっとあの黒いブレスを吐くつもりだ。
この異世界に来てから色んなところで終わりだと思うことはあった。でも、いま以上に自分の終わりを意識したことはなかった。ごめん、お父さんお母さん。ついでに兄貴も。帰るの、ちょっと無理そうかも……。
そう胸中で家族へのお別れを告げ終えるのと、ドラゴンの口の中で黒い靄が一気に膨れ上がるのは同時だった。黒いブレスを放たんとついにドラゴンが頭を引いた、瞬間。
硝子の割れる音を響かせながら、ぐさっとドラゴンの目に1本の矢が刺さった。ドラゴンがその場で大きく呻き、口の中で作られていた黒い靄もふっと消える。
一瞬、なにが起こったのかすぐに理解できなかった。テオスさんの放った矢ですら刺せなかったドラゴンの表皮にいったいどうして矢が刺さっているのか。いや、そもそも誰が射たものなのか。たくさんの疑問が頭に浮かんでくる。
ただ、次に頭に浮かんだのは逃げなくちゃという思いだけだった。でも、恐怖からか思うように体が動いてくれない。
「ミズハちゃん! 乗って!」
ふいに親しみのある声が聞こえてきた。見れば、ナディちゃんが馬に乗って私のほうに向かってきていた。ナディちゃんはそばに止まると、私を引き上げて前に乗せてくれた。そのまま私を後ろから抱くような形で手綱を握り、馬をまた走らせる。
「あ、ありがと……っ! それにしても、いまの矢ってやっぱり……?」
「ミズハちゃんを助けなきゃって思って……そしたら体が勝手に動いたの!」
もしかしたらと思っていたけど、やっぱりナディちゃんが放った矢だったみたいだ。誰一人としてまともに突破できなかったドラゴンがまとう霧を攻略して、その表皮に矢を徹した。弓術演習のときにその実力は見ていたけど、やっぱりナディちゃんの放つ矢は誰よりも凄いみたいだ。
ただ、やっぱりナディちゃんはゾンビとはいえ、生き物に矢を射るのは苦手みたいだった。悲しさと苦しさの混じった顔をしている。私は嬉しい反面、わずかな罪悪感も覚えてしまった。
でも、そんな感情もすぐに恐怖で上書きされてしまった。ドラゴンがまた飛び上がり、私たちのほうへ向かってきたのだ。地面すれすれを飛ぶような格好で一気に距離を詰めてくる。
「このままじゃナディちゃんまで……っ」
「うん、あのドラゴンを相手に逃げられないってことはわかってる。だから……!」
言いながら、ナディちゃんは背負っていた弓をまた手に持った。きっとまた矢を射るつもりだ。それはわかるけど、馬の操縦はいったいどうするの? なんて思っていたら、すぐにナディちゃんから答えが飛んできた。
「ミズハちゃん、手綱を握ってて!」
「え、え? ナディちゃん!?」
グランツ王都の浄化が落ちついてから、体験と称してヴィアンタの手綱を握らせてもらったことはある。でも、あのときは遊び感覚だったし、なによりすごくゆっくりの歩行だった。
こんな風を切るような音が聞こえるぐらい速く駆ける馬の手綱を握るなんて出来る気がしない。ましてやドラゴンから逃げながらなんて。でも──。
決意に満ちた顔をドラゴンへと向けるナディちゃんを見たら、無理だなんて言えなかった。ナディちゃんは苦手なことを頑張ってくれている。きっと私のために。そう思うと、私も頑張らなくちゃと思った。
「合図をしたら馬を左に曲がらせて! 良い子だから、手綱を行かせたい方向に軽く引っ張れば反応してくれると思う!」
「わ、わかった!」
上手く操るなんてことは考えない。ただ、しっかり手綱を握って馬の走りを安定させることだけを考えよう。ナディちゃんが落ちついて矢を射られるように! なんて私の一世一代の決意を嘲るようにドラゴンが急速接近、その鋭いかぎづめを私たちの命を刈り取るように薙いできた。
「うぁっ、ひぃっ、ぎゃぁあっ!」
ついでとばかりに黒いブレスも飛んできた。避けられたのは馬の反応がよかったからと運が良かったからにほかならない。いずれにせよ、こんな猛攻を受けている中じゃナディちゃんも攻撃するタイミングが掴めないはずだ。なにかドラゴンの注意を引けるものがあればいいんだけど──。
と、そのとき。ドラゴンの両側からたくさんの矢が飛んできた。ルコル族の人たちだ。どれもが靄に弾かれてしまっていたけど、ドラゴンも気にはなるらしい。鬱陶しそうに両側に咆えている。
「みんな……どうして……!?」
「なにのろのろしてんだ! 族長の娘だろ! さっさと仕留めろ!」
困惑するナディちゃんにルコル族の青年がそう叫ぶ。いつもナディちゃんに意地悪なことを言っていた人だ。ほかにもナディちゃんを邪険にしていた人たちがドラゴンの気を引くために援護してくれている。
「うんっ!」
さっきまで驚いていたナディちゃんだけど、笑みを弾けさせながら力強く応じた。ついにナディちゃんが認められたんだ。私は親友として嬉しくて仕方なかった。でも、いまは嬉しさに浸っている場合じゃない。
「ミズハちゃん、お願い!」
「はいっ!」
手綱を左方向へぐいっと引っ張ると、馬が即座に曲がってくれた。視界の左端にルコル族相手に暴れるドラゴンが映り込む。直後、そばからナディちゃんの深呼吸が聞こえてきた。
ただ、それも一瞬。静かに弓から矢が離れていった。まるで風を貫くように翔けたのち、ドラゴンの左翼を捉え、ぐさりと突き刺さる。
ドラゴンが呻き声をあげる。私は思わず「やった!」と叫ぶけど、ナディちゃんはこれで終わりだとは思っていなかったらしい。休む間もなく構えては次々に矢を放っていく。硝子の破砕音に続いて、矢の刺さる小気味いい音が響く。気づけばもう10本は刺さっている。
「まだ落ちないのっ!?」
いまだ飛び続けるドラゴンに、私は思わず嘆きの声をあげてしまう。でも、ドラゴンの飛行は最初より弱々しくなっている気がする。このまま続けていれば、いつかは落ちるはずだ。
突然、ドラゴンがこれ以上は好き勝手させないとばかりに雄叫びをあげた。さらに周囲へと黒いブレスを吐き出しはじめる。逃げ惑うルコル族の人たち。直撃を食らった人はいないようだけど、完全に遠ざけられてしまった格好だ。
飛んでくる矢がなくなった瞬間、ドラゴンがまた私たちのほうを向いた。直後、これまでで1番大きな咆哮をあげた。あまりに迫力があったからか、乗っていた馬が怯えて暴れてしまう。その瞬間を狙ったかのようにドラゴンが黒いブレスを放ってきた。このままじゃ直撃コースだ。
「お願い、動いて!」
私は強引に手綱を引いた。それが効いたのか、あるいは馬自身の本能からか間一髪のところで走り出してくれた。ただ、慌てていたせいか馬がなにかに躓いて転んでしまう。私とナディちゃんは投げ出されて地面の上を転がった。
ほとんど同時にすぐそばの空間を極太の黒い線が通り過ぎていく。どうやら射線上からは逃れられたようだ。ナディちゃんも転がってはいるけど、無事なようだ。状況は悪いけど、最悪の事態だけは避けられた。
「矢筒がっ……!」
私がほっと息をつきかけた瞬間、ナディちゃんがそう叫んだ。どうやらさっきの転倒で矢筒を落としてしまったみたいだ。しかも、黒いブレスに焼かれてしまったらしい。ナディちゃんの放つ矢だけが、あのドラゴンに唯一有効な攻撃手段だったのに……。
誰かから譲り受けられればと思ったけど、ルコル族の人たちは遠い場所にいる。あそこからだと、いまも向かってくるドラゴンが私たちに接近を果たすほうが先だ。これじゃもう打つ手がない。そう思ったときだった。
「ナディ!」
「お父さん……!?」
馬に乗った厳めしい面のルコル族──テオスさんが私たちのそばまで来ていた。さっきドラゴンがルコル族の人たちを散らしたときに、そばまで向かってきていたのだろうか。いずれにせよ、最高のタイミングだ。テオスさんは自身の矢筒から1本の矢を掴み取り、掲げる。
「もう1本しか残っていない! これで決めろ!」
「……はい!」
テオスさんは馬に乗ったまま止まらずナディちゃんに矢を受け渡すと、駆け抜ける形で方向転換。ドラゴンに向かって直進しはじめた。いったいなにをするつもりなのかと思ったけど、どうやら気を引こうとしているみたいだ。
「こっちだ! 悪しき竜よ! このテオスが貴様の相手になってやるぞ!」
テオスさんの裂帛の気合がドラゴンに伝わったのか、わずかに注意を引けていた。その間にナディちゃんが受け取った矢を射る体勢に入った。ただ、すぐには放たれず、矢を引いたまま止まっている。よく見ればナディちゃんの顔がこわばっていた。最後の1本とあってきっと緊張しているに違いない。
「ねえ、ミズハちゃん。こんなときにごめん」
「どうしたの?」
「勇気が欲しくて。私の腰の辺りに手を添えてもらえないかな」
「あ~……すごく言いにくいんだけど、さっきドラゴンに触ったせいで、ちょっと臭いんだよね。いや、結構臭いかも。それでもいい?」
「いいよ。だってミズハちゃんの──大切な友達の手だもん」
躊躇ない返事どころか嬉しい言葉つきだ。ナディちゃんと初めて会ったときから感覚的に〝この人とはきっと仲良くなれる〟と思ったけど……どうやら私の勘も捨てたもんじゃないみたいだ。
「うん、じゃあいくらでもどうぞ!」
なるべく矢を射る邪魔にならないよう、私はナディちゃんの腰に手を添えた。
すでにドラゴンの興味はテオスさんからそれていた。もとよりいまのテオスさんには矢がなく、脅威にならない相手だ。無理もない。でも、最後にルコル族長としてだけでなく、親としてナディちゃんへと最大の援護を放ってくれた。
「ナディ! いまだ、放てッ!」
テオスさんの叫びとともにナディちゃんの右手から矢が放された。ひゅんっと静かながら鋭い音が聞こえたかと思えば、矢はすでにドラゴンのそばまで到達していた。
ドラゴンもナディちゃんの矢だけは脅威だと理解しているのか、とっさに避けようとする。でも、翼を動かす間もなく、矢はドスンッと刺さった。場所は、これまでと違って頭部。それも眉間だ。
翼に充分な損傷を与えていたにもかかわらず飛び続けていたこともあってか、ナディちゃんはドラゴンの頭部を狙うことにしたようだ。実際にそれが効果的だったことは次の瞬間に証明された。
天にも届くんじゃないかと思うぐらい大きな慟哭を残して、ドラゴンが落下を始め──。
その巨体をついに地へと伏せさせた。