◆第五話『それ、腐ってるから』
殿下と呼ばれていたからまさかとは思ったけど本当に王女様とは。知ってから言うのも調子がいいかもしれないけど、たしかにそんな不可侵な雰囲気はひしひしと感じる。
私が思わず唖然としていると、王女様が口を開いた。
「あなた様がわたくしを元に戻して下さったのですね」
「あ、あ~……そんな感じでございますです」
相手は王女様。そう意識したせいで緊張から言葉遣いが変になってしまった。私がうわぁと羞恥心に悶えていると、王女様が目を伏せながら頭を下げてくる。
「どのようにお礼申し上げたら良いか。本当に、本当にありがとうございます……」
「い、いや。私はただ右手で触っただけで――」
そこまで口にしてから血の気が引いた。レックスはゾンビ状態のことをうっすら覚えていると言っていた。だとしたらアイアンクローばりに顔面張り手をかまされたことを王女様も覚えている可能性が高い。王族相手になんてことをしてしまったのか……。私は自分の右手を見ながら思わず片頬を引きつらせてしまう。
「あの、浄化する際のことはどうかお気になさらないでください。感謝こそすれ責めることは絶対にありませんっ」
両手をぐっと握りしめながら、王女様が必死な顔で宣言する。こんなにも幼いのになんて出来た子だろうか。まさしく絵に描いたような善良なお姫様だ。などと私が感心していると、王女様が自身の額や鼻を触りながらぼそりと呟いた。
「た、たしかにすごい衝撃でしたけれど……」
「あーっ、ごめんなさいごめんなさいっ!」
やっぱり覚えていたらしい。それも結構はっきり。
「私のほうも強烈でした……心なしか一度目より威力が増していたように思います」
「レックスには謝らないからね」
私がきりりとした目で睨むと、レックスがばつが悪そうに目をそらした。
ふと王女様が私とレックスを交互に見やったのち、言う。
「お二人は仲がよいのですね」
「とくにそんなことはないと思います」
「ミ、ミズハ様っ」
即答後、レックスから懇願するような目を向けられた。別に間違ったことは言っていない。だって――。
「ついさっき出逢ったばかりですし……」
「そうなのですか。てっきりもうかなりの時間を一緒に過ごされているのかと」
たしかに私はもうレックスに遠慮していない。それもこれも彼がちょっと抜けているからだ。真面目で良い人なのは間違いないけれども。
「レックス、紹介していただけますか」
「はっ」
レックスが王女様の命を受け、私の紹介をはじめる。
「なにを隠そう、このお方こそが世界をお救いになるため、神より遣わされた――」
「はいストップ」
「どうなされたのですか、ミズハ様?」
「いや、なに間違いは一つもないみたいな顔してるの。その続き、『せ』から始まる言葉を使おうとしたでしょ」
「はい。そして『い』。次は『じ』。最後に……」
レックスが流れるようにヒントを言うと、王女様が元気よく片手を挙げた。
「わたくしわかりました! 聖女ではないでしょうか!」
「正解です!」
「って、なんでクイズみたいになってるのっ。しかも当たっちゃってるし!」
なぜか王女様もノリノリだし。もう頭が痛い。レックスと行動を共にしたらゾンビを浄化するたびに聖女と紹介されそうだ。いっそレックスをゾンビにして放置してしまおうか。もちろん冗談だけど。冗談だけど。
「レックスはこんなこと言ってますけど、私、聖女なんて大層な者じゃありませんから」
「承知致しました、ミズハ様。そういうことにしておきますね」
なんだか事情を察したみたいに納得されてしまった。本当に理解してくれているのだろうか……いや、たぶん違う気がする。ニコニコ微笑んでいるし。これはきっと〝そういう設定なんですね〟なんて思われてるパターンだ。すぐにでも訂正しなければ。そう思って口を開こうとしたとき――。
黒い霧を乗せた荒々しい風が正面から襲ってきた。突然のことに初めは驚きが勝ったけど、その異様さに気づいてからは嫌悪感が押し寄せてきた。人に肌を触られているような生温い感触。ぞわりと身の毛がよだつ。気持ち悪い。
風に吹かれた時間は一瞬だった。黒い霧は私たちから離れるようにして物凄い速さで後方へと流れていく。さっきまで感じていた気持ち悪い感覚はもうない。
「な、なにいまの……!?」
私がそう発言した直後、どさっと音がした。見れば、王女様がへたり込んでいた。
「だ、大丈夫ですか!?」
「ミズハ様……はい、ありがとうございます」
きっとさっきの黒い霧に吹かれたせいだ。私もかなり気持ち悪いと感じたけど、思わず座り込んでしまうほどではなかった。とはいえ、王女様はまだ子供だ。いくらしっかりしていても恐怖に耐えられないのも無理はない。
「お静かに願います」
レックスが人差し指を口に当てながら、なにやら真剣な目で正面を見つめている。
「いきなりどうしたの?」
「聞こえませんか?」
私は首を傾げた。とくに気になる音を拾うことはできなかったからだ。ただ、レックスと同じように正面を見ながら耳を澄ましてみると、かすかに物音が聞こえてきた。纏まりのない雑音に近い。時間が経つたびにそれは段々と大きくなっていく
「……なんの音?」
「お二人ともあちらへっ。お早く!」
レックスが道脇の木々のほうを指し示す。切羽詰った様子からみても、ただごとではない様子だ。私は指示通りに移動しようとするが、座り込んだままの王女様を見て足を止めた。
「王女様っ」
この際、ちょっとぐらい乱暴にしたって許してもらえるはずだ。そう思いながら王女様の手を引くと、改めて木々のほうを目指した。レックスの誘導を受け、周辺でもっとも大きな木の陰に背中を預ける格好で身を隠す。私と王女様で幅を取ってしまったこともあり、レックスは別の場所に隠れていた。
それから間もなく、先ほど聞こえていた音が段々と大きくなった。地面を乱雑に踏みしめる大量の音。加えて「うぼうぼ」コーラス。間違いなくゾンビがいる。それも大量の。
わけもわからず避難したけど、いったいなにが起こっているのか知りたい。怖いもの見たさもあるかもしれない。私は恐る恐る幹から顔を覗かせ、道の様子を窺う。
思った通りゾンビが歩いていた。ただ、予想の範疇を超える数だった。十や二十どころじゃない。五十……いや、百体ぐらいいるかもしれない。あんな集団に見つかったら一巻の終わりだ。いくら浄化の力があっても手に負えない。
ふいに右手が震えているのを感じた。こんな状況だ。怯えるのは無理もない。そう自分に言い聞かせたけど、どうやら震えは王女様のもののようだった。彼女も道のほうを窺っていたらしい。ただ、あまりにも衝撃が大きすぎたようで顔は青ざめ、がたがたと震えている。
「大丈夫。私がついてるから」
自分のほうが年上だという心理が働いてか、私は気づけば王女様を両腕で抱きしめていた。言葉遣いが普段通りになっちゃったし、抱きしめるなんて馴れ馴れしいことをしてしまった。怒ってないかなと不安になったけど、どうやら杞憂だったらしい。王女様はほっとした様子で身を預けてくれた。
妹がいたらこんな感じに接してたのかな、とそんなことを妄想してしまう。王女様は小柄だからか、腕の中にすっぽり収まって抱き心地がいい。それにさっきまでゾンビだったわりにバニラのように甘い匂いがする。これが王女様パワーか。
そうして私が王女様を全身でたっぷり堪能しているうちに、ゾンビの行列が通りすぎようとしていた。初めこそどうなることかと思ったけど、この調子なら無事にやり過ごせるだろう。これも素早く気づいてくれたレックスのおかげだ。
そう心の中で感謝しながらレックスのほうを見やった、瞬間。レックスがいまも背を預ける木が軋んだ。きっと腐敗していたのだろう。さらに木はメキメキと音をたてて倒れていき――。
ドーンと重い音を鳴らして倒れた。ゾンビの大軍が一斉に振り返り、戦いの狼煙をあげるように「うぼぁ!」と叫んだ。
レックスが引きつった顔を向けてくる。
「も、申し訳ありません……!」