◆第十話『やっぱりその攻撃はあるよね』
ドラゴンは翼を勢いよく広げると、口を開けて咆哮をあげた。ゴォオオオと全身を震わしてくるような重低音が鳴り響く。
「この咆哮、先ほどの音と同じ……!?」
「つまりゾンビを操ってたのがドラゴンってこと?」
「おそらくは! それにしても──」
「「臭い!」」
私はレックスと揃って鼻をつまみながら悲鳴をあげる。その威圧感もさることながら、ドラゴンの息は圧倒的な臭さを誇っていた。いままでに出会ったどんなゾンビよりも臭い。
ただ、鼻をつまんでいる余裕なんてなかった。ドラゴンが右前足を持ち上げ、私たちを押しつぶそうとしてきたのだ。私はレックスに腕を引っ張られる形で左方へと走った。コドベンさんも「うぁあああっ!」と悲鳴をあげながら転がって間一髪で回避に成功している。
なんとか全員で避けられたけど、問題はそのあとだ。避けた先にゾンビが群がってきたのだ。さらに後ろからもゾンビたちがゆっくりと迫ってきている。左右に加えて後方にも逃げ場がない。
「これってもしかしてだけど」
「前に逃げるしかありませんね」
「やっぱりそうだよね……」
とはいえ、ドラゴンの股下を抜けるのはかなり危険だ。そんなに広い空間じゃないし、簡単に懐で押しつぶされそうな気がしてならない。話している間にもまたドラゴンが動き出した。今度は左前足で押しつぶそうとしてくる。
レックスの誘導でなんとか躱しきった。レックスがここぞとばかりに剣を薙いで反撃を繰り出すけど、カキンと音を鳴らして弾かれてしまう。レックスでも斬れないなんてよほどの硬さを誇っているみたいだ。「ならば!」とレックスが叫びながら水筒を取り出してドラゴンに投げつける。
「ミズハ様の聖水ではどうか!」
「だから私〝の〟ってつけないでって言ってるでしょー!」
私が文句を口にする間、レックスは素早く聖水をかけた箇所──左前足に剣を走らせていた。スパッとその表皮が斬れ、青紫の毒々しい液体が流れ出る。間違いなく損傷は与えたはずだけど、ドラゴンに怯んだ様子はいっさいなかった。
「えぇ、全然効いてない……!」
「これでもダメかっ」
もうゾンビが大股2、3歩程度の距離まで迫っていた。私はコドベンさんと揃って「ひぃ」と情けない声をあげてしまう。
「これもう、突っ切るしかないよ!」
「いえ、まだ望みはあります!」
「望みってどんな──」
「来ました!」
カンッと甲高い音が鳴った。出所はドラゴンの左翼からだ。目を凝らせば、そこに勢いをなくして落下していく1本の矢が映り込んだ。どうしてあんなところに矢があるのか。
私が状況を理解するよりも早く、視界の端からたくさんの矢が飛んできた。ドラゴンに命中してはカンカンと音を響かせはじめる。私は誘われるようにして矢の飛んでくる方向へ目を向ける。
と、グランツ王国軍の兵士さんたちを見つけた。大体30人ぐらいだ。あと小さな馬に乗って私たちのほうへ向かってくる小柄な人たち約20人もいる。弓を射ているのはほとんど彼らだ。あれは──。
「グランツの兵士さんだけじゃなくてルコル族のみんなも? どうして?」
「ミズハ様への恩義を返すためにと彼らもついてきてくれたのです!」
レックスがそう説明してくれる。たしかに彼らを浄化したけど、まさかこんな危険な場所にまで助けにきてくれるとは思いもしなかった。なんて義理堅い人たちだ。感謝してもしきれない。
族長のテオスさん率いるルコル族のみんなはなおも矢を射続けている。ドラゴンの皮膚が硬いせいか、1本も矢は刺さっていない。でも、おかげでドラゴンの注意が彼らに向いて、私たちの前に空間が生まれた。
「さぁ、いまのうちに!」
レックスに連れられる形で走り出し、ようやくゾンビの脅威から逃れられた。あとはドラゴンから逃げるだけだ。レックスの叫びに応じて、ヴィアンタが間もなくやってくる。相変わらずかしこい子だ。ヴィアンタに飛び乗ったレックスが手を伸ばしてくる。
「さぁミズハ様、お手を!」
「うんっ!」
レックスの手に重ねようとした、瞬間。ゴォオオオとまたドラゴンの咆哮が聞こえてきた。ヴィアンタが怯えたように鳴き、たたらを踏みはじめる。おかげでレックスと手が離れてしまった。
「逃げてください、聖女様!」
聞こえてくるテオスさんの声。なにか脅威が迫っていることはわかっていた。半ば釣られるように振り向くと、こっちに開いた口を向けるドラゴンが映った。しかもその口では黒い瘴気のようなものが渦巻いている。
どう見てもドラゴンと言えばコレといった攻撃が来る流れだ。レックスが「ミズハ様ッ!」と叫びながら手を伸ばしてくれたけど、ヴィアンタが暴れてさらに離れてしまった。
ドラゴンの口で渦巻いていた瘴気の塊みたいなものが撃ち出された。せめて臭いだけの攻撃なら、人間としての尊厳を失うだけで命は助かるかもしれない。でも、あの黒いブレスは地面を抉りながら進んできている。どうやら私は一巻の終わりらしい。
「ミズハちゃん!」
視界一面が黒いブレスで覆われそうになった、そのとき。どこからから私を呼ぶ声が聞こえてきた。慌てて声の出所に目を向けると、大きな体を持った女の人が映った。私の友達──ナディちゃんだ。ほとんど担がれる格好で引き上げられると、ナディちゃんの前に座る形で下ろされた。
馬の尻尾すれすれのところで通り過ぎていく黒いブレス。本当に間一髪だった。あと少しで死んでいたと思うと、本当に心臓がばくばくした。当分は収まる気がしないけど、いまはそれよりも大事なことがあった。私は肩越しに振り返りながら恐る恐る問いかける。
「ナディちゃん、どうして……?」
「友達を助けるのに理由はいらないと思うっ」
「……でも私、ナディちゃんを傷つけちゃって」
「ミズハちゃんはなにも悪くないよ。あれは私の弱さが招いたことだから。ともかく、いまはそれよりも逃げないと!」
「うん、それはすっごい賛成!」
私は少しだけ身を乗り出す格好で周辺を窺った。レックスはすぐにコドベンさんを救助したのち、「撤収!」と叫んでいた。グランツ兵やルコル族の人たちもゾンビ蔓延るクラドルカ周辺から離れる進路で撤退を始めている。
昼間のゾンビは馬で逃げればまず追いつかれることはない。このまま逃げればもう安心……と思いたいところだけど、ドラゴンは諦めていないようだった。しかも最悪なことに私に向かって一直線だ。どすんどすんと重い足音を響かせながら追いかけてくる。
「ミズハ様を狙っているようです! お逃げください!」
「振り落とされないようにしっかり掴まってて! ミズハちゃん!」
ナディちゃんの馬が全速力で駆けはじめる。おかげでドラゴンとの距離は離れたけど、それもすぐに詰められた。ドラゴンがずっと遊ばせていた翼を使って飛んだのだ。
「みな、矢を射続けろ! ドラゴンの気を引いて聖女様をお守りするのだ!」
テオスさんの勇ましい声でルコル族の人たちが懸命に矢を射続けてくれている。でも、一向にドラゴンは私たちから目を離そうとしなかった。もしかすると女神様の力を持った私を本能的に狙っているのかもしれない。
「ナディちゃん! あのドラゴン、たぶんだけど私を狙ってるから、だからっ!」
「続きは言っちゃだめだよっ」
ナディちゃんが懸命に馬を走らせながら、そう応じてくれたとき、ドラゴンがまた黒いブレスを放ってきた。辛うじて直撃は免れたけど、黒いブレスは真後ろに着弾。地面を抉ると同時にとてつもない風圧を発生させた。たまらず馬も倒れ、私たちは投げ出された。ごろごろと地面を跳ね転がる。
「ミズハちゃん、大丈夫?」
「いたた……私はなんとか。ナディちゃんは?」
「私もだいじょう──」
ナディちゃんの声が途切れた。ドォンととてつもなく大きな音に遮られたのだ。近くにドラゴンが着陸していた。距離的に3メートルもない。ドラゴンが威嚇するように咆哮をあげる。私は恐怖から体が動かなくなり、また言葉を失ってしまった。
そんな私とは反対にナディちゃんは弾かれるように動き出していた。弓を構えて素早く矢を添える。いつでも放てるといった状況だけど、一向に矢は射られない。よく見ればナディちゃんの腕は私以上に震えていた。
「ナディ、撃て!」
聞こえてきたのはテオスさんの声だ。ただ、それでもナディちゃんの弓から矢が放たれることはなかった。それを好機と見たのか、ドラゴンがまたも咆えながら口を近づけてきた。とてつもなく臭い。臭いけど、いまはそれよりも間近に迫った死の恐怖で感情が支配されていた。今度こそもうダメだ。食べられる──。
そう思った直後、ドラゴンがなぜか口をすっと引いた。そのまま翼をはばたかせて浮上すると、商業都市クラドルカのほうへ悠々と飛んでいった。
「見逃してくれた……?」
私は思わずぽかんとしてしまう。いったいなにがどうなっているのか。疑問が湧き上がってくるけど、とりあえずいまは助かったことに思いきりほっとした。
「ミズハ様! お怪我はありませんか!?」
レックスがヴィアンタとともに駆けつけてくれた。
「うん、私は大丈夫。ナディちゃんが助けてくれたから」
「私はなにもしてないよ。本当に、なにもできなかった……っ」
下唇を噛んで悔しがるナディちゃん。どうやらさっきドラゴンを前にしたとき、矢を射られなかったことを気にしているみたいだ。私はナディちゃんが強く握った拳を包み込むように自分の手を置く。
「そんなことない。ナディちゃんが来てくれなかったら私、今頃ドラゴンにぺしゃんこにされてたよ」
「ミズハ様の仰る通りです。ナディ殿、ミズハ様を助けて頂き感謝致します」
レックスともども私は心からお礼を口にする。ナディちゃんは「うん」と頷いてくれたものの、素直に受け取ってくれたようには感じられなかった。
レックスがみんなを見回しながら声を張り上げる。
「この場所ではドラゴンがいつまた来るかもわかりません。すぐに撤退し、王都に帰還しましょう」




