◆第九話『ファンタジーと言えば』
少し前から上ったり下ったりが何回も続いているせいで平衡感覚がおかしくなりそうだった。私は暗い空気に耐え切れなくて恐る恐る話を切り出してみた。
「この辺りって平らな場所が少ないんですね。移動とか大変そう」
「だからこそ私のような行商人が重宝されている。さて、もうそろそろ着く頃か」
そう言いながら、コドベンさんが振り向いて幌の裾を軽く持ち上げた。この世界ではグランツ王国領しか見たことがない。いったいどんな景色が待っているんだろう、と私も少し前のめりになって覗き込んだ、瞬間──。
ゾンビが顔を出してきた。
「ぼぅあっ!」
「ひぃっ」「うぁあっ」
私は思わず悲鳴をあげて背中を打ちつけるぐらい仰け反ってしまった。コドベンさんに至っては転がるようにしてその場に尻もちをついている。
「い、いつの間にくっついて……っ! お、おいこいつをなんとかしてくれっ!」
「言われなくても!」
コドベンさんに指示されるよりも早く、動き出していた用心棒さん。取り出した棍棒を突き出して、ゾンビをあっさりと馬車から剥がしてみせた。馬車は止まらずに走っていることもあり、どすんどすんとゾンビが地面を跳ね転がった音が聞こえてくる。
「気をつけてくれよ。あんたにはまだまだもらうもんもらわないといけないんだからな」
用心棒さんが座りなおしながら、平然とした様子でコドベンさんに声をかける。当のコドベンさんはいまだに動揺しているみたいで息が荒いままだ。
「あの、こんな感じで危険ですし、やっぱりやめません?」
「か、家族のためだ。これぐらいでやめるつもりはない!」
いまならいけるかもと思ったけど、やっぱり説得するのは無理みたいだ。
それからしばらくして、御者の用心棒さんが「着いたぞ」と馬車を止めた。さっきの件もあってやけに警戒しているコドベンさんとともに私は馬車から降りる。
「うわぁ……」
私は馬車から降りるなり、頬をひきつらせた。背面を大きな山、前面を分厚い防壁に囲まれた商業都市クラドルカの姿に圧倒されたからじゃない。その手前に広がる大きな平野に数えきれないほど存在する青紫や黒い点を見たからだ。
信じたくないけど、どう見ても全部ゾンビだ。浄化前のグランツ王都よりも間違いなく多い。ざっと見た感じ千人じゃ収まらない。たぶん2千や3千ぐらいの規模だ。都市内にも少なくない数がいることを考えると、改めて無謀だと思い知らされる。
「あの、コドベンさん。私が1日に浄化できるのって500人が限界で……というかこの感じだと浄化しても介抱する余裕もないし、なにより食糧が問題になりそうな気が」
「たしかにその通りだが、ここまで来たのだ。せめて家族だけでも救いたい」
やっぱりコドベンさんの意志は固い。浄化対象がコドベンさんの家族だけになっただけマシかもしれないけど、それでも現実的じゃない。そんな私の不安を、馬車を木に繋ぎ終えた用心棒さんが代弁してくれる。
「といっても、この数だ。あんたの家族を見つけるなんてできるのか?」
「問題ない。我々も一緒についていく」
「我々ってことは、やっぱり私も?」
「当然だろう」
ですよねー。知ってたけど、絶望しかないようだ。逃げようにもあの用心棒さんたちがいたら難しいし、こうなれば生き残る確率を上げるためにあがくしかない。
「あの、道中でも話しましたけど、ゾンビに直接触れるとすぐ腐っちゃうので気をつけてください。手袋とか衣服とか体との密着具合が高いものもダメっぽいです。なので盾とか長い棒とかオススメです。あと音に反応するのでなるべく大きな音をたてないように注意してください」
「わかってるわかってる」
2人の用心棒さんは左手に盾、右手に棍棒を持ち、おざなりな返事をしてきた。ためらうことなく、ゾンビがはびこる平原のほうへ歩みだす。と、「あんなノロマに捕まるわけないだろ」なんて鼻で笑う感じの会話が聞こえてきた。
完全に舐めきってる。用心棒さんたちが相当な実力者であることはお城の兵士さんたちを一瞬で倒したことからも間違いないけど、相手はあのゾンビだ。きつい臭いをまき散らすだけでなく少しでも触れれば相手を腐食化させる人智を越えた生物だ。油断なんてするべきじゃない。
なんてことを思っていたのだけど……。
「すごっ」
始まったコドベンさんの家族捜し。用心棒さんたちが軽々とゾンビを制圧していた。盾で押しのけたり棍棒で小突いたりと上手く道を作っている。まったくもって危なげない。音に反応するという情報にも注意を払って極力大きな音をたてないようにもしている。
「悪いが、俺たちはか弱いお嬢ちゃんとは違うんでね」
ちょっと見下すような発言を吐かれた。たしかに用心棒さんたちと比べれば私の身体能力なんてちっぽけなものだ。でも、ゾンビだらけの世界をいままで生き抜いてきたのだ。思わずむっとしてしまう。
ただ、大きくなる私のわだかまりとは反対に進み具合は順調だ。まだまだ遠いけど、都市の門の形がはっきりとわかる程度の距離まできている。
「これなら都市の中まで辿りつけそうだな」
コドベンさんがわずかな安堵を滲ませながらそうこぼした、瞬間だった。
──ゴォオオオオオ。
どこからか重低音が聞こえてきた。お腹まで響いてくるうえ、間延びした感じだ。とても不気味で体がざわつく。用心棒の2人も無視できなかったようで異変を感じ取ろうと辺りに視線を巡らせている。
「なんだこの音は……?」
「お、おいなんかゾンビたちの様子が変だぞ!」
いつの間にかゾンビたちの視線が漏れなく私たちのほうへ向いていた。ずっと遠くのゾンビたちも反応し、こっちに歩き出している。
「え、これまで反応してなかったのにどうしてっ」
用心棒さんたちもゾンビを舐めていたとはいえ、音に関してはしっかり注意を払って相手にする数を少なく収めていた。なのに、どうして──。
「どういうことだ!? 聞いていた話と違うぞ!」
「こ、こんなこと私も知らなくて……っ」
「くそっ、こいつら一気に面倒になりやがった! う、うぁあああっ」
1人の用心棒さんがゾンビに後ろから覆いかぶさられた。慌てて振り払っていたけど、もう遅い。その体は瞬く間に青紫色に染まり、悪臭を放つゾンビと化してしまった。
「こうなったら殺るしか!」
残った用心棒さんが剣を抜いた。ゾンビを殺して対処するつもりだ。いまは腐っていても浄化で元の人間に戻れる。つまりゾンビを殺すのは人殺しと同義だ。そんなことをさせるわけにはいかない。すぐさま私は制止の声をあげようとするけど、必要がなくなってしまった。
「うわ、放せ! う、俺の腕が、あぁあああああっ!」
腐食化が全身に回るのはほとんど一瞬だ。もう1人の用心棒さんもあえなくゾンビ集団の仲間入りを果たしてしまった。用心棒さんがいてようやく進んでいた状況だ。あの2人がいない状態でコドベンさんの家族救出作戦を続けられはしない。
「一旦逃げましょう! コドベンさん!」
「まだだ! きみの浄化で彼らを元に戻せばまだっ」
「もう手遅れですよっ! 行ったら絶対呑み込まれますっ!」
「わ、わかった……!」
あえて大声で説得にかかったかいあってか、コドベンさんが苦々しそうにしながらもなんとか頷いてくれた。早速とばかりに来た道を戻ろうと2人で揃って振り返る。でも、逃走の1歩目を踏み出すことができなかった。
「って、回り込まれてる!?」
どうやら全方位のゾンビたちが私たちのほうに向かってきていたらしい。完全に囲まれた格好だ。もう一度辺りを見回してみても逃げ道はどこにもない。どれだけゾンビの足が遅くてもこれじゃ振り切るどころか走り出すこともできない。
「ど、どうにかしてくれ! あんた聖女なんだろ!?」
「そんなこと言われたって……っ」
言い合いをする間にも狭まるゾンビの輪。その中でも1体が膝をカクンカクンさせながら飛び抜けてきた。もう逃げられる空間はない。私は意を決して右手で眼前のゾンビの肩を押した。眩い光を発し、そのゾンビが人化を始める。
「お、俺はいったいなにを──って、なんだ!? くそ、来るな、うわぁあああっ!」
「ごめん、ごめん……っ!」
浄化されたばかりの人がすぐにゾンビに抱きつかれ、また腐食化してしまう。やっぱりこんな状態で浄化するべきじゃない。不必要な恐怖を与えるだけに終わるからだ。でも、このままじゃ私の命も終わってしまう。お願い……誰か……レックス──!
もう逃げ場もなくなり、ただ胸中で助けを請うだけになった瞬間だった。馬蹄が土を踏む律動的な音に、大きないななきが聞こえてきた。私たちが来た方角からだ。
「ミズハ様っ!」
「レックス!」
やっぱり来てくれた。遠くのほうで馬──ヴィアンタに乗ったレックスの姿が見えた。
「こっちだゾンビども!」
大声をあげてゾンビたちの注意を引くレックス。そのまま突っ込もうとするけど、ヴィアンタが嫌がって止まってしまっていた。レックスは即座に降りることを選択。ヴィアンタの腹を叩いて逃がすと、盾を構えて私たちのほうに向かって突撃してきた。
オデンさんには及ばないまでも力強い突進だ。ぼぁぼぁと呻くゾンビを押しのけながら、すぐさま私のそばまで駆けつけてくれた。
「遅くなって申し訳ございません!」
「ううん、遅くなんてない! 間に合ってるよ!」
たまに生真面目過ぎたり、たまにぽんこつなところを見せるレックスだけど、こういうときは絶対に助けに来てくれる。口に出して言うのは恥ずかしいけど、胸の中なら気兼ねなく言える。さすが私の自慢の騎士だ!
「ミズハ様、私の後ろから離れないでください! すぐに引き上げます!」
「りょーかい!」
「コドベン殿、あなたには言いたいことがたくさんある。ですが、いまは逃げることが最優先だ。黙ってついてきてください!」
「わ、わかった……」
レックスを先頭にゾンビの群れの中を突き進んでいく私たち。でも、全然終わりが見えなくてちゃんと進めているのかもわからなかった。過去最大級の「ぼぁぼぁ」コーラスもあいまって圧迫感が凄まじい。
と、レックスの左腕にゾンビの手が当たってしまった。その箇所から腐食化が始まるけど、私はすかさずレックスの背中に手を当てた。いまの私とレックスの距離はとても近い。用心棒さんたちがゾンビ化してしまったときとは違って、すぐに浄化できる。
「背中に手、当ててるから!」
「ありがとうございます! 私1人先行してきましたが、あとから援軍が来るはずです!」
私を助けるために無理をして先行したということだろうか。嬉しい気持ちが湧き上がってきたけど、あいにくとその気持ちに浸っていられるほど穏やかな状況じゃなかった。緩みかけた顔を引き締めて果敢に進むレックスのあとに続く。
「もう少しで抜けられます!」
レックスの声から間もなく、ゾンビの壁に終わりが見えた。突き抜けたレックスに続いて私も走り抜ける。と、ようやくゾンビの群れから抜け出すことができた。
後ろに注意を払う余裕がなかったけど、どうやらコドベンさんも無事に辿りついたようだ。半ば転がる形でゾンビの群れから飛び出してきた。
いまもゾンビたちは物凄い数で私たちに向かってきている。けど、動きは従来のゾンビと同じで遅い。走ればまず追いつかれることはない。ようやく一安心といったところだ。
──ゴォオオオオオオオ。
「また! さっきこの音が聞こえてからゾンビたちが一斉に私たちのほうに向かってきたんだよね……」
「このざわつく感覚、初めて遭遇した黒い霧と似ているような」
言われてみればと思った瞬間のことだった。ドンととてつもなく重い音を響かせて目の前に巨大な影が立ちふさがった。あまりの衝撃で地面が大きく揺れ、私は思わず体勢を崩してしまう。後ろのゾンビたちも呻きながら揃ってバタバタと倒れている。
いったいなにが起こったのか。私は改めて目の前に現れた影を見た瞬間、思わず恐怖で顔を歪めてしまった。おそろしく巨大なナニカがそこにいたのだ。
たぶんボンレスハム10体分ぐらいの大きさはある。形状的に似ているのはトカゲだ。でも、トカゲとは違うものが多くある。頭部には勇ましい角がついているし、獰猛な牙を口から沢山覗かせている。
その体を支える四足の先には総じて禍々しくも鋭いかぎ爪。また人間なんて簡単に弾き飛ばせそうなぐらい長くて太い尻尾も伸びている。なによりありえないのは背から生えた翼だ。その巨躯を悠々と包み込めそうなほどの大きさを持っている。
「ねえ……レックス。もしかしてこの世界にアレって普通にいたりする?」
「……いいえ。ですが、数多の物語や伝承に登場するものに該当するものを知っています」
表皮が腐っていることを除けば、紛れもなくこれは──。
ドラゴンだ。