◆第四話『小さいゾンビもいるらしい』
脱いだソックスとローファーを両手に持ち、湖をのそりのそりと横断する。わかっていたことだけど湖は物凄く広かった。進んでも進んでも一向に岸が見えてこない。
膝高の深さでも水は重い。運動は得意なほうだけど、さすがに足が重くなってきた。ただ、どれだけ速度が落ちても前を行くレックスの背中は小さくならない。どうやら気遣ってくれているようだ。真面目で優しい人だと思う。変人という前提の印象を変えるつもりはないけど。
それから歩き続けること約二十分、ようやく陸地に辿りついた。私はまろぶようにして倒れ込む。
「も~だめ。足が棒みたいになってるー……」
「少し休みましょうか」
「お願いします……」
脚を伸ばしながら空を見上げる。目が覚めてから驚きの連続で考えられなかったけど、どうやったら元の場所――家に戻れるのか。この世界、どう見ても危ないところだ。できるならさっさと帰ってぬくぬくな生活をしたい。とはいえ、帰る方法なんて見当がつかなかった。試しにレックスに訊いてみても……。
「ねえ、私が異世界から来たって言ったらどう思う?」
「やはり聖女なのでは、と」
この通りだ。
残念だけど、この点に関してはまったく頼りにならない。
「ここからあとどれくらいでお城につくの?」
「あそこの道を進めばすぐですよ。半日もかかりません」
レックスの言う道は湖に沿うよう隆起した地面上にあった。コンクリや石畳といったようなものではなく、人に幾度も踏まれてできた土道だ。
それより半日のどこがすぐなのか。判断基準が私とかけはなれている気がするけど、車や電車がなければ都市間の移動なんてそんなものかもしれないと思い直した。むしろ半日で済むと考えたほうが良いかもしれない。
「やっぱりここも腐ってるんだね」
湖の浄化は終えているため、目覚めたときのような臭気はない。ただ陸地のほうでは紫がかった霧が流れ、明らかに空気が淀んでいる。道脇に見える木々は肌がボロボロ。葉を生やしていないのはもちろんのこと、途中で折れているものも多く見られる。
「邪神の呪いは世界にかけられましたから。ですが、もう我々が臆することはありません。なにしろこちらにはミズハ様の唾液がありますから」
「唾液推しやめて」
このまま本当に聖女扱いされ続けたら裏で《唾液の聖女》なんて呼ばれてしまうんじゃないだろうか。それだけはいやだ。絶対に。
そうこうしているうちに足が乾いてきたのでソックスと靴を履いた。もう少し休みたかったけど、このままダラダラしていると歩くのが億劫になりそうだ。私はすっくと立ち上がる。
「よし、もう大丈夫。お城まであと少し、頑張ろうっ」
◆◆◆◆◆
「でね、思ったんだけど。そもそもどうしてお城目指してるの?」
歩き始めてから間もなく、私はレックスに問いかけた。さっきはとにかく孤島から出たい気持ちが先行して疑問に思わなかったけど、よくよく考えたら疑問しかない。
「もちろん人が多く集まる場所だからです」
「え、でも人いないって言ってたよね?」
「はい。ですからゾンビまみれでしょう」
さらりと答えたのち、レックスは話を続ける。
「私のように出歩いている可能性もありますから、生前のように城に留まっているかはわかりませんが……それでも多くのゾンビがいるのは間違いないと思います」
「いやいや! わざわざゾンビいっぱいのところに行くとかどうかしてるでしょっ」
「ミズハ様のお力で一気に浄化していただくのです。そうすれば城はかつての姿に――」
「ごめん私帰る」
私はくるりと踵を返す。レックスについていけば安全だと思っていたけど、どうやら勘違いだったらしい。これじゃ死地に赴くようなものだ。
「お、お待ちください!」
先回りしたレックスが行く手を阻んできた。王国の近衛騎士と言っていたから城を取り戻そうと必死になるのはわかる。けど、ちょっと焦りすぎだ。
「あのね、浄化するのは反対しない。二人だけじゃこの先どうしようもないしね。でも、いきなり危険度高いところからって……正直、無謀としか思えない」
「大丈夫です。なにしろミズハ様は――」
「また聖女だからって言うんでしょ」
どうやら当たっていたらしく、レックスが言葉に詰まっていた。呆れを通り越して怒りすら湧いてくる。
「たしかに聖女って言われるような力はあるかもしれないけど、でも中身は誰がなんと言おうと普通の人間だから。そんな危ないところなんて行きたくないよ……」
大体、ゾンビを戻したのだって一度だけだ。次に発動する保障なんてない。仮に確実に発動したところで大勢のゾンビが相手では限界がある。なにしろこちらはただの女子高生。さばききれる自信はない。
「ミズハ様のお気持ちも理解せず、身勝手な提案をしてしまい申し訳ありません……ですが、その上で改めてお願いさせてください」
レックスは胸に手を当てながら真剣な目で訴えかけてくる。
「私が必ずお護りいたします。ですから、どうかミズハ様のお力を貸しては下さいませんでしょうか」
「……レックス」
男の人に〝必ず護る〟なんて言われたのは初めてだ。不覚にもどきどきしてしまった。ただ、そのどきどきはすぐに驚きの感情で上書きされた。道脇の木陰から背の低い子供ゾンビがぬっと現れたのだ。「うぼぁ」と呻きながら、のそりのそりと近づいてくる。
「うわ、出たっ!」
「お下がりください! ここは私がっ」
レックスは私の前に飛び出ると、ゾンビを食い止めんと両手でがっしり組み合った。さっきの〝必ず護る〟という言葉通りの行動だ。なんて勇ましく誠実な人だろうか。そんな感銘を受けた、直後――。レックスの肌が一瞬にして青紫色に染まった。
「うぼぁ」
「って、感染してるんだけど!」
まさかのレックス再ゾンビ化。庇ってくれたところまでは格好良かったのに台無しだ。とはいえ、いまは嘆いている暇なんてない。
私はにじり寄ってくる二体のゾンビにあわせて後退する。幸いゾンビの足は遅い。走ったら逃げ切れそうだけど……ゾンビしかいない世界だ。逃走先でまたゾンビと遭遇する可能性は否めない。
レックスとはまだ出逢って間もないけど、せっかく知り合った仲だ。ここで見捨てたくなかった。また右手が臭くなるのは嫌だけど、やるしかない。
と、レックスゾンビが膝をカクンカクンさせながら微妙に加速した。予想外の動きに私は思わず驚き、反射的に全力のビンタをかましてしまう。「ぼぁっ」と呻いたレックスゾンビが弾き飛び、地面に転がる。
やりすぎたかも、と反省していると、もう一体の子供ゾンビもしかけてきた。今更になってどう触ろうかと悩んでいるうちに、またもや距離が詰まってしまう。うわぁ、と声をあげながら右手を突き出すと、奇しくも顔面に張り手を食らわす格好になった。子供ゾンビが真後ろへと倒れ、身悶えはじめる。
相手がゾンビだからいいものの、これが人だったらと思うとなかなかにひどい。少しだけ自己嫌悪に陥っていると、どちらのゾンビも光りはじめた。どうやら無事に浄化の力が発動したようだ。
当然ながら一体はレックスに戻った。白銀の鎧もその艶を取り戻している。もう一体の子供ゾンビは少女の姿に変貌していた。その姿を見るなり、私は思わず感嘆の声を漏らしてしまう。見たことがないほど可憐な少女だったからだ。
年齢は小学生の高学年ぐらいだろうか。レックスよりも明るい金髪を流し、水色基調のロングドレスを身に纏っている。外見からして良いところのお嬢様といった感じだ。
「た、助かりました。ミズハ様」
レックスが頭を押さえながらゆらりと立ち上がった。
「必ず護るって言葉はどこにいきましたか?」
「弁解の余地もありません……」
それでも勇猛果敢に護ろうとしてくれたのは事実だ。言葉ほど責める気持ちはない。やれやれと私がため息を漏らすと、そばから可愛らしい吐息が聞こえてきた。少女がゆっくりと身を起こし、「こ、ここは?」と周囲を見回している。
「なんという幸運だろうか……」
レックスが震える声でそう零した。瞳孔が開いているせいか、一瞬、幼い女の子を狙う危ない青年といった構図に見えてしまったけど、どうやら違うらしい。レックスの姿を認めるなり、少女が顔を綻ばせた。
「レックス……? レックスではないですかっ」
「はい、レックスでございます。殿下、ご無事でなによりです」
レックスが片膝をついて頭を下げた。それにしても殿下とは。少女の身分はただのお嬢様程度ではなさそうだ。いずれにせよ事情を知らない私は蚊帳の外状態だった。
「ねえ、レックス。その子、知ってるの?」
「はい」
肯定したレックスが、こちらに向き直った。もったいぶるように一拍間を置いてから少女を紹介してくれる。
「このお方はグランツ王国の王女、シア・グリーンフィールド様です」