◆第三話『垂らしちゃいました』
ついに光が孤島全域に広がったとき、枯れ果てた地表を覆うように雑草がファサっと生えた。それを機に光は弾けるように散り、やがて燐光となって静かに消えていく。
「し、茂った……!」
「はい……茂りましたね」
私はレックスとともにぽかんとする。なにがどうなっているのか。涙がこぼれ落ちた直後、一瞬にして陸地に緑が満ちた。わかっているのはそれだけだ。
「ミズハ様……いったいなにをなされたのですか?」
「は、恥ずかしいから言いにくいんだけど……ちょっと泣いちゃってね。それで涙が零れ落ちたら急に地面が光りだして」
「涙で腐敗した大地に緑を戻すとは……やはりミズハ様は聖女――」
「もう言いたいだけでしょそれ」
なにがなんでも私を聖女扱いしたいらしい。たしかに涙で大地に緑を戻すなんて神聖に溢れた力だ。ただ、どれだけの力を持っていようと自分を聖女と認めたくはない。理由は単純だ。神聖視されるような存在はみんな美人というイメージがあるからだ。
あいにくと私は美人じゃない。一般的な容姿はあると思うけど、やはりそれまでだ。「聖女って言うからどんな面かと思えば、なんだよあんなもんかよ」なんて落胆されるに決まっている。とはいえ、その落胆する人々がいない現状では無意味な心配かもしれないけど。
と、なにやらレックスが希望に満ちた目で毒液のほうを見ていた。
「しかし確証はありませんが、ミズハ様の涙を毒液に落とせば、もしや……」
「そっか……浄化できるかも!」
「お願いします、ミズハ様!」
「よし任せといて!」
私は袖をまくって勇ましく陸地の縁に立った。外側に顔を少し突き出してから、ぐっと目に力を入れる。
「って涙出ないんだけど! 助かるかもって思ったらピタッて止まっちゃったよ! うわぁあー!」
頭を抱えながら身悶える。数分前のしおらしい私を返してといくら願っても返ってこない。頭の中はもう完全にいつもの無駄に元気な私が占拠してしまっている。
「その、唾液はどうでしょうか?」
「真顔でなに言ってるの」
せっかくの整った容姿が台無しだ。
「いえ……もしかするとミズハ様の体液であれば、なんでも良いのではと考えたのです」
「た、たしかにその可能性はあるかも。でも、どうして唾液?」
「それがもっとも最適だと思ったからです。もちろん私としてはほかの方法でも――」
「ごめんなさい私が悪かったです。だからその続き言わないで」
とはいえ唾液を垂らすのだって充分はしたない。
そんなところを誰かに見られるなんていやだ。
「や、やってみる。けど、あっち向いててくれる?」
「なぜでしょうか?」
「恥ずかしいからに決まってるでしょっ」
唾液垂らし系女子なんて称号をもらった日にはもうお嫁に行けない。終末的な世界にいる時点でその可能性はもう尽きてしまっているかもだけど。
私は再び縁に向かった。膝をついて顔を突き出すが、少し長めの髪が目について鬱陶しかった。耳にかけるよう髪をかきあげる。
レックスに見られているわけでもないのに、なんだか恥ずかしくて顔が熱い。それでも生きるためだと自分に言い聞かせ、溜めた唾液を出さんと口を開けた。水分を取っていなかったからか少し粘り気がある。糸が切れるように離れた唾液が、ついに毒液へと落ちる。
波紋は起こらなかったけど、もっと大きな変化が現れた。孤島を囲んでいた毒液が天へと眩い光を放ちはじめたのだ。ポコポコと音をたてていた泡が止み、さらには色が紫から透明へと変わっていく。最終的には鼻を襲っていた臭気すらも消え失せた。
「ほ、ほんとにできちゃった……」
「なんということだ。やはりミズハ様は――」
すでにお馴染みとなったレックスの台詞を意識の外へと追いやりつつ、私は孤島の周囲を見回した。近場から遠方まで水色。まさしく綺麗な海や湖といった様相だ。もう毒液の名残はない。でも……。
「これ、本当に浄化されたのかな?」
「私が確認しましょう」
レックスは孤島の縁に屈むと、躊躇うことなく手を水に突っ込んだ。
「え、ちょっと大丈夫なの? 溶けたりしない?」
「問題ありません。とても清涼で気持ち良いですよ」
そう言ってからレックスはさらに両手で掬った水を口へと運んだ。喉を二度うねらせたのち、驚きに満ちた表情で水を見つめる。
「こんなにも美味しい水は初めてだ……」
ほっとした。もしレックスの身になにかあったらどうしようと心配していたからだ。ただ、安堵したらあることに気づいた。それはレックスが飲んだ水に私の唾液が含まれていることだ。ひゃー、と顔面を熱くしながら身悶えていると、レックスがきらきらした笑顔を向けてきた。
「これもミズハ様の唾液のお力ですっ」
「唾液のってところ抜いて。お願いだから」
一瞬にして顔の熱が冷めたところで私も水に手を入れてみた。ついでに右手についたゾンビ臭を取るためにじゃぶじゃぶ洗う。水はレックスの言う通り冷たくてすごく気持ち良い。それに近くでみるとかなり透き通っている。底がくっきり見えるぐらいだ。
「もしかして、ここってすごく浅い?」
「はい。ここはニーデル湖。場所によって深いところはありますが、多くが膝程度しかないはずです」
「じゃあ歩けるんだ」
「ですね。あちらのほうにグランツ王国の城があります。そちらを目指しましょう」
こんな孤島にいても干からびるだけだ。
私はレックスの提案に乗ることにした。