◆第二十九話『騎士の誓い』
ボンレスハムの咆哮が森林に響き渡る。兵士たちに動揺が走った。腰を抜かすだけでなく、逃走しはじめる者までいる。
「みんな落ち着いて! いまは明るいから、きっと走れない――」
――はず。そう言いかけた瞬間、ボンレスハムがずしんずしんと重い足音を鳴らして走り出した。
「って、走れるの!?」
ほかのゾンビ同様、明るいうちは走れないものだと思い込んでいたけど、どうやら違うようだ。収まりかけた兵士たちの混乱は再度高まった。散り散りになって逃げ始める。
「ミズハ様もお逃げください!」
クルトさんがボンレスハムの前へ勇んで出ると、小石を投げつけた。そのまま無人のほうへ走っていく。
「こっちだ! 私が相手をしてやる!」
囮になろうとしているみたいだけど、ボンレスハムはクルトさんを一瞥もせず、私に向かってひたすら駆けてくる。
「えぇっ、なんで私一直線なのーっ!?」
私はすぐさま反転し、逃走を開始する。ボンレスハムがあまりに重いせいか、地面がたびたび揺れる。肩越しに振り返ると、猛然と追いかけてくるボンレスハムの姿。その巨躯で幾つもの木を蹂躙している。
どうにかタッチできれば浄化できるけど、いまの状態じゃ絶対に無理だ。近づいたら最後。あのハンマーみたいな腕で間違いなくスクラップにされる。幸いなのは活性化した通常ゾンビよりも足が遅いことだ。おかげで私でも辛うじて逃げ切れている。ただ、それもいつまでもつか――。
「ミズハ様!」
「ユリアンさんっ。アレ、明らかに私狙いです! だから離れたほうが!」
併走しはじめたユリアンさんに離れるよう警告する。けど、離れるどころかさらに近づいてきた。ボンレスハムを一度見てから私に視線をまた戻す。
「水をお汲みになられた場所へ!」
「そっか! そこに落とせれば!」
ゾンビは浄化した水に弱い。ボンレスハムも同じであることは以前の戦闘で証明済みだ。このまま私も湖に飛び込んでボンレスハムを落としてしまおう。そう思った、瞬間――。
「ミズハ様っ」
「え――?」
ドンと突き飛ばされ、私は地面に転がった。何事かと混乱していると、視界の中で大木がユリアンさんに激突した。きっとボンレスハムが大木を投げたのだろう。ユリアンさんが地面の上を跳ね転がり、やがてぴたりと止まる。
「ユリアンさん!」
「自分は大丈夫……です。どうか、お逃げください……!」
頭からは血が出ているし、ろくに体も動かせないようだ。重傷だ。私の左手ですぐに治癒すれば――。そんな考えはボンレスハムの咆哮ですぐに打ち消された。もう近くまで来ている。敵の狙いは私だ。下手に近づけばユリアンさんを巻き込んでしまう。
意を決して駆け出そうとする。けど、右足首が痛くてまともに走れなかった。突き飛ばされたとき、変に耐えようとしたのが原因かもしれない。ただ、それがわかったところで意味はない。すでに近くまでボンレスハムが迫っている。
もうだめだ――。
そう思ったとき、馬のいななきが森に響き渡った。
「手をっ!」
聞き慣れた声だった。一瞬、頭の中が混乱したけど、整理がつくよりも早く手を伸ばしていた。ぐい、と体が持ち上がる。私は馬――ヴィアンタの背に乗るなり、後ろで手綱を握る騎士へと叫ぶ。
「レックス……どうして!?」
シアの護衛をしていたはずじゃなかったの。そう問いかけようとして遮られる。
「いまはそれよりもアレの対処が先です!」
ボンレスハムはなおも私を追いかけてきている。聞きたいことは沢山あるけど、いまは頭を切り替えるのが先だ。
「この先に湖があるの! そこにあいつを落とせれば!」
「承知しました!」
馬の足とあって目的地まですぐだった。湖は見えないけど、途切れた地面が見える。あの下に湖がある。
「しっかり掴まっていてください!」
「えっ、まさか……」
「飛び越えます!」
ヴィアンタは一気に加速、跳躍した。枝葉ばかり映っていた視界に青い空が映り込む。いったいどれだけ飛んだのか。長い浮遊感ののち、お尻を伝って全身に衝撃が走る。
無事に着地できた安堵よりも湖を飛び越えた驚きが勝った。いくら小さい湖とはいえ、とても人間じゃ――いや、馬でも飛び越えるのは無理だったはずだ。どうやらこの世界の馬は私が知っている馬よりも能力が高いらしい。
着地から三拍後、崖上にボンレスハムが勢いよく登場した。そのまま湖に落ちるかと思いきや、あと少しのところで踏みとどまった。ただ、その体重のせいか足下が崩れた。バランスを崩し、上半身を揺らし始める。
「そのまま落ちて!」
ボンレスハムが両腕を泳ぐように振り回し――耐え切った。気のせいだろうか。ボンレスハムが勝ち誇ったようにその大きな口を歪めた。あとちょっとだったのに……。
「ぉおおおおおっ!」
ふいに雄叫びが聞こえたかと思うや、ボンレスハムの体が前面にぐらりと傾いた。そのまま倒れ――湖の中に落ちた。バシャンと盛大に水が飛び上がる。まるで突発の雨が降ったかのように辺りに飛沫が飛んだ。
「なんだかおいしいところを頂いてしまいましたね」
「クルトさんっ!」
崖上でクルトさんが盾を掲げている。言葉通りなんてグッドタイミングだ。崖上に立つクルトさんから湖へと視線を戻すと、ボンレスハムがプカーと浮き上がってきた。こうなればもう浄化は簡単だ。
◆◆◆◆◆
ユリアンさんの怪我は私の左手で完全に治癒できた。代わりにどっと疲れたけど、それで済んだのだから安いものだ。混乱する事態も収拾し、いまは兵士たちが帰り支度をはじめている。
「さてと……聞かせてもらおうかな」
どうしてここに来たのか。いや、来られたのか。私はそばに立つレックスに問いかける。
「護衛の任を解かれてしまいました」
「え……どうして?」
「心ここにあらず。どうやらそんな状態だったのが原因のようです」
「それって……」
勘違いだったらどうしよう。そう思いながら一つの可能性が頭に浮かんだ。ばつ悪く笑ったレックスの顔を見て、それが間違いではなかったことを確信した。レックスが真剣な表情になると、ゆっくりと片膝をつく。
「どうか私を――レックス・アーヴァインをミズハ様の騎士にしてください」
思わぬ展開に私は目を瞬いてしまう。正直、シアの護衛から外れたと聞いて嬉しいと思ってしまった自分がいた。クルトさんもユリアンさんもとても良い人だと思う。ただ、やっぱりなにか違うな、と思うことが多かった。
だから、こうしてまたレックスが戻ってきてくれて嬉しかった。私に仕えると言ってくれて素直に嬉しかった。でも……騎士のことはよくわからないけど、なんだか生半可な気持ちで応えてはいけない気がした。
「ねえ、聞いて欲しいことがあるの」
「……はい」
「前にね、私が異世界から来たって話をしたの、覚えてる?」
「出逢って間もない頃の話ですね」
女神だから当然、と。あのときのレックスは、そんな信じているのか信じていないのかわからない返事をした。
「うん。あれ、本当なの。それでピーノくんに異世界に帰る方法を探ってもらってるんだ。だから……」
――いつかこの世界からいなくなるかもしれない。そう伝えようとしたとき、レックスが先に言葉を紡いだ。
「ならばこの世界にいる間は、私がミズハ様の剣となり盾となりましょう」
一切の迷いもない宣言に私は思わず目をぱちくり。それから、くすりと笑ってしまった。
「変なの。レックスってばなんだか騎士みたい」
「騎士ですから」
顔をあげたレックスもまた笑っていた。
「私も……レックスがいい。なんだかほかの人だと気を張っちゃうし」
「あの、それは喜んでもよろしいのでしょうか?」
「ご想像にお任せします」
私は意地悪く笑った。視界の中、もう遠征部隊の帰り支度は済んでいる。私たち待ちといった様子だ。
「それじゃ帰ろっか」
みんなのもとへ向かおうとして、私はすぐに「レックス」と名前を呼んで振り返った。
「これからも、よろしくね」
「……はいっ」




