◆第二十二話『ボンレスハム』
城内への民の避難は完了し、前庭では騎士たちが迎撃の準備を整えていた。依然として頭上には黒い霧が漂っている。少し視線をずらせばくすんだ空を見ることができた。もう夜が近い。
「お姉様……」
前庭の内城門前でぼけーっと空を見上げていると、シアが二人の護衛騎士を連れてそばまでやってきた。
「どうしたの? 中で待ってないと危ないよ」
「ですが、あのときのことを思い出すと……」
不安になるのも無理はない。黒い霧に連れられてきた集団ゾンビも、活性化したゾンビもシアは目にしている。私はシアの髪から頬を撫でて微笑む。
「シアは王女様なんでしょ? そんな顔してたらみんな不安になっちゃうよ」
「そう、ですね……王女がこんな顔をしていたらダメですよね」
「前と違って騎士の人たちも沢山いるし、きっと大丈夫」
こんな言葉で不安を取り除けたかな、と心配だったけど、シアの顔はいつの間にかキリリとしていた。こういうところは大人だなぁ、と感心するばかりだ。
「お姉様、お気をつけて」
「ありがと。シアとみんなのために頑張るね」
私は両手でぐっとポーズを取って見せたあと、後ろの護衛騎士に「シアをお願いします」と伝える。護衛騎士が任せろとばかりに頷いたのち、シアを連れて城内に戻っていく。その背中を見送っていると、レックスが隣に立った。
「ミズハ様は誠に立派でございます」
「本当は全力で逃げ出したいよ……逃げるとこないけど」
「必ずや我らグランツの騎士がお護り致します」
「すんごい頼りにしてます」
昼間ののろのろゾンビならまだしも、活性化ゾンビが相手だと私だけじゃなにもできないのが現状だ。情けないけれども素直に甘えるほうがいい。
「ま、なにも起こらないのが一番なんだけどね」
「起きたとしてもこれだけ準備しているのですから。油断するつもりはありませんが……きっと大丈夫です」
備えは二段構えだ。一つは狭間胸壁――凹凸とリンゴの木に引っ掛ける形で張った縄だ。ゾンビが城壁から前庭に飛び下りれば引っかかる仕組みになっている。ピーノくんの案で、曰く「奴らの腐った頭で複雑な動きができるとは思えないからな」とのことらしい。
私もアスレチックにある縄のジャングルジムで遊んだことはあるけど、たしかにがむしゃらに動いたところでうまく進めなかったのをよく覚えている。縄を食いちぎられたりしない限りはきっと大丈夫だろう。
二つ目は騎士たちの脇に置かれた桶だ。お城の壁際にも大量に置かれている。中には私の唾液で清められた水が入っている。昼間、ピーノくんの実験によって清めた水でゾンビを弱体化できることがわかった。それを早速実践しようというわけだ。
準備は万端。来て欲しくないけど、来るならこい。そんな弱気と強気の混ざり合った感情を胸に抱きながら頭上の黒い霧を見た、直後。視界の闇が一層深まった。きっと本格的に夜が訪れたのだ。
静かだ。きっと誰もが息を呑んで様子を見守っている。まだ変化はない。もしかしたら思い過ごしだったのだろうか。それならそれでいいのだけど……。
ふいに黒い霧が下りてきた。前庭は混乱の渦に巻き込まれたけど、強い風が吹いて一瞬にして霧は散った。いったいなにが起こったのか。辺りを見回してみても黒い霧の姿はどこにもない。もしかしてもう危険は去ったのかも、と安堵しかけたとき――。
遠くのほうから奇声が聞こえてきた。さらに四方から地鳴りのような音。気づけば城壁の上に人影が幾つも現れていた。
◆◆◆◆◆
「灯をつけろ! 奴らが来たぞォーッ!」
オデンさんの声が前庭に響き渡る。灯をつけていないのに襲われた場合は視界確保のために松明に火をつける。これは決まっていたことだ。
あちこちで火が灯り、暗かった視界が一気に明るくなる。と、城壁にのぼったゾンビの姿が大量に映り込んだ。すでに見えているだけでもかなりの数がいるのに、どんどん追加でのぼってきている。
ゾンビたちが城壁から飛び下りはじめた。敵は四方から襲ってきている。そのまま来られたらひとたまりもないけど……そうはならなかった。張っていた縄に引っかかり、身動きが取れなくなっていたのだ。
ただ、油断はできない。ゾンビたちはかなり暴れているし、縄を食いちぎろうとしている個体もいる。なによりいまも湧き出るようにボトボトと城壁から落ちてきているのだ。
「みな、ミズハ様の聖水を!」
レックスを筆頭に騎士たちが桶に入った水をゾンビにぶちまける。と、がむしゃらに手足を動かしていたゾンビの動きが一斉に弱まった。キェェとうるさい奇声も止んで「ぼぁ~」という呻き声に変わっている。
「良かった……この状態でも効くんだ」
効果は抜群。それだけ私の唾液を嫌がってると思うとなんだか複雑だけど。いや、よく考えたら唾液をありがたがるほうが異常だからなにもおかしくない。そんなどうでもいいことを考えていると、レックスの必死な声が飛んできた。
「ミズハ様、浄化をお願いできますか!?」
「りょーかい!」
「お供します!」
柄が約二メートル、先端がU字の得物――刺又を使って騎士たちが浄化したゾンビを縄から取り出し、地面に押し付けていく。その光景がむごくて思わず目をそらしそうになったけど、これもすべては彼らが人に戻るためだ。心を鬼にして拘束されたゾンビたちにタッチしていく。
「てい、やぁ、とおー!」
「お見事!」
「そ、そう? えへへ」
レックスが褒めてくれるものだからつい調子に乗ってしまったけど、いまもなお追加で城壁から飛び下りてくるゾンビを見たら一瞬で現実に引き戻された。
「……こ、これ全部はさすがに無理かなぁ」
「想定済みです! 弱体化したゾンビは拘束後、まとめて地下水路にぶちこんで聖水漬けにしろ!」
地面に敷かれた縄にゾンビが並べられては包まれ。ずるずると引きずられて城内へと運ばれていく。シュールを通り越して不気味な光景だ。
「というわけで申し訳ありませんが、定期的に唾液を頂戴できればと!」
「とりあえずその言い方やめよっか」
そんないつものやり取りをしつつ、私たちはゾンビの迎撃を続けた。ゾンビの特性をもとに準備した甲斐あって危なげない時間が過ぎていく。時折、縄が食いちぎられたり、先に縄に引っかかったゾンビを踏み台にして乗り越えてくる個体もいたけど、騎士さんたちの迅速な対応ですぐに鎮圧できたので大きな被害はでなかった。やがて一時間ほどが過ぎた頃――。
「ミズハ様、お体のほうは……」
「昼間、早めに切り上げたおかげで、まだいけそう」
とはいえ、ハイペースで浄化しているので言うほど余裕はない。ただ、仮に私が浄化できなくなったとしても防衛線が決壊するような危うさはなかった。それにいまや城壁をのぼってくるゾンビは散発的だ。
「これなら無事に終われそうだね」
言って、私が一息ついた、瞬間――。ドゴォンッと凄まじい轟音が響いた。思わずびくっと体を震わせてしまう。
「え、なんの音!?」
「城門です!」
レックスの返答後、城門の鉄格子が内側へと勢いよく弾き飛ばされた。
阻むものがなくなった城門に、ぬっと大きな影が現れる。
「な、なにあれ……」
影の正体は巨大なゾンビだった。全長三から四メートルぐらいある気がする。あと筋肉モリモリ。関節が引き締まって隆起の激しいボンレスハム状態。体毛がいっさいないこともあって正直かなり気持ち悪い。
「ゴァアアアアアアッ!!」
ボンレスハムが吼え、走り出した。それほど機敏ではないけど一歩がでかい。一瞬にして近場の騎士二人に肉迫、右腕を払って突き飛ばした。騎士たちは地面を何度か跳ねたあと、ようやく勢いをなくす。辛うじて動いてはいるものの、重傷といった様子だ。
「下がれ! こいつは私が相手を――」
大盾を構えながらボンレスハムの前に立つオデンさん。けど、繰り出されたブローであっさり弾き飛ばされてしまった。お城の壁に激突し、ぐったりとうな垂れる。
「団長ッ!」
「う、うそでしょ……」
あのオデンさんがまさか一撃でダウンするなんて。こんなの感染とかそういう問題じゃない。明確な命の危険を前に幾人かの騎士たちは竦んでしまっている。
「聖水だ! 聖水をかけるんだ!」
一人の騎士がボンレスハムに聖水をバシャッとかける。ボンレスハムは嫌がるように悶えたけど、それだけだ。通常ゾンビのように動きが遅くなることはなかった。
「き、効かない……!?」
あの大きな体だ。単にかける聖水の量が足りなかったのかもしれないけど……いずれにせよ、近づくのは簡単じゃなさそうだった。いまも暴れるボンレスハムにほとんどの騎士が近づけないでいる。
「ねえ……これ、かなりまずいんじゃ」
「そうですね。ミズハ様風に言うと、ヤヴァイですね」
あれだけ凶暴だと近づいた途端、ぺしゃんこにされそうだ。とても浄化できそうにない。レックスがボンレスハムを睨みつけながら、ぎりりと歯を食いしばる。
「誰か、ミズハ様を城内へ!」
「レックスはどうするの!?」
「私は奴の気を引きます。このまま自由に暴れられたら縄を荒らされるかもしれません」
城壁のそばには大量のゾンビが縄に引っかかったままだ。もしあれが解放されれば城内の人たちもろとも呑み込まれること間違いなしだ。けど――。
「あんなの相手にするって、いくらなんでも無茶だよ!」
「相手が見上げるほど大きくとも、鼻がもげるほど臭くとも……このレックス・アーヴァイン、臆することはありません……っ!」
「レックス!」
レックスは盾を放り投げ、剣を片手に駆け出した。さすがに人間ではないと判断したか、剣を振る手に容赦はない。が、皮膚が思いのほか硬かったらしく、ガキンと弾き返されてしまう。
「くっ、硬い!」
ボンレスハムは完全にレックスを標的にしたようだ。雄叫びをあげたのち、突き下ろしの攻撃を繰り出しはじめる。盾を捨てて身軽さを重視したおかげか、それらを難なく回避していくレックス。少し余裕があるように見えるけど、相手の破壊力は一撃で地面に大穴を作るほどだ。食らったらひとたまりもない。
「レックス……!」
「さぁ聖女様。レックス殿が足止めしてくださっているうちに」
騎士さんに誘導され、私は城内へと向かう。ただ、レックスが心配で何度も振り返ってしまう。いまはまだ攻撃を避けられているけど……これが朝までとなると厳しい気がする。そもそも朝になったらボンレスハムが弱るなんて保証はどこにもない。
相手がゾンビなのは肌色からしてきっと間違いない。タッチさえできれば倒せるかもしれないけど、やっぱり私程度の運動能力じゃ危険だ。それどころか下手に動いたらレックスの足を引っ張る可能性だってある。どうにかして動きを止められれば――。
と縋るような気持ちで辺りを見回したとき、視界に入ったリンゴの木からピンときた。唾液の力で一気に成長させた木を足下からぶつければ、もしかしたら効果があるかもしれない。拘束できずとも幾らか損傷は与えられるはずだ。
でも、まだ足りない気がする。なにしろこっちは一撃もらえばアウトだ。打てる手は打っておきたい。まずは種を植える役を誰か身軽な人に頼まないと――。
「おい、なにをしている! 外は危険だ! 早く中へ戻れ!」
「離してくれ! 外に姉御がいるんだ! このっ」
城内に入った途端、なにやら騒がしい声が聞こえてきた。慌てて振り返ると、騎士の脇をすり抜けるロッソさんの姿が見えた。
「ロッソさん、どうしてここに……?」
「姉御! いや、さっきすごい音が聞こえたから姉御が心配で……って、姉御? どうしたんすか、そんな一世一代の博打でもするような顔して……」
なんてちょうどいいところに、と思った。騎士の手を逃れるぐらいのすばしっこさ。これ以上ないぐらい適任だ。
「ロッソさん、お願いしたいことがあります」