◆第十一話『唾液の聖女様』
「もうっ、そういうことなら先に言ってよ。あんな真剣な顔で迫ってきてなにを言い出すかと思えば唾液を下さいなんて。ほんとどうかしてる……!」
「申し訳ありません……配慮に欠けていました」
私はレックスと一緒に前庭に戻ってくると、隅のひらけた場所に立った。どうしてこんなところに来たのか。それはさっきレックスから受けた「種を植えてから唾液を垂らせば作物が育つのでは」という提案を試すためだ。
「ですが、ミズハ様の唾液はとても貴重ですから」
「貴重でもなんでもないので普通に言ってください」
聞く人が聞けば変態プレイと思われかねない。少なくとも私がいた元の世界でこんな会話をしていたらドン引きされる程度にはアウトな会話だ。
「でも、成功するかどうか知らないよ?」
「ミズハ様と出逢った孤島。あそこを浄化していただいたとき、荒れた地面から草が生い茂りましたから。この種が成長する可能性は充分にあると思います」
「うーん、あんまり期待しないでね」
ゾンビがいるなんて常識がすっ飛んだ世界で言うのもなんだけど、唾液で育つ作物なんて聞いたことがない。というか仮に育っちゃったら私の唾液分が入ったものをみんなが食べることになるんじゃ……うわぁ、想像すると身悶えるぐらい恥ずかしい。
「ミズハ様、準備ができましたのでお願いします」
言って、レックスが種を植え終えた土をパンパンと叩く。そもそも作物を育てるには土やら肥料やら色々準備が必要なんじゃ。なんて疑問を一瞬抱いたけど、私は考えるのをやめた。唾液を垂らそうとしている時点で土台作りもなにもあったもんじゃないからだ。
「了解。じゃあ、あっち向いててね」
「一度見てみたいのですがダメでしょうか」
「垂らすのやめるけどいい?」
「申し訳ありませんでした後ろを向かせていただきます!」
レックスが素早く後ろを向く中、遠くのほうで興味津々に見つめてくる騎士たちと目が合った。私はニコッと微笑んだのち、ぎりりと威嚇する。と、騎士たちが一斉に回れ右をした。「大したことじゃないのになにもったいぶってんだ」なんて思われてるかもしれないけど、恥ずかしいのだから仕方ない。私は唾液を垂らしやすいよう膝をつく。
妙な緊張に包まれる中、乾燥気味の口からなんとか水分を搾り出し、舌を伝わせるようにして垂らした。音もなく落ちた唾液が地面に染み込んだ、そのとき。前庭が眩い光を放ちはじめた。荒れ果てた地面がみるみるうち青々とした芝で覆われていく。前庭に「おぉ!」と歓声が沸き起こる。
ここまでは孤島のときと同じだったけど、一つだけ異なる変化があった。種が植えられた地面、そこから緑の芽がちょこんと顔を出していたのだ。先ほど植えたばかりなのにと思ったのも束の間、さらに芽は木の幹となり、ぐんぐん成長していく。
幾本もの枝を生やし、白とピンクの可愛らしい花々が咲き誇ったのは一瞬。弾けるように花が散ると青い実が生り、瞬く間に赤色へと染まった。拳よりも少し大きなそれは、どう見ても――。
「り、リンゴ?」
「はい、リンゴです。ミズハ様」
同じ物かは知らないけど、どうやらこの世界でもリンゴはあったらしい。
「しかし、まさか本当に成長するとは」
「私が一番驚いてるよ。っていうかどうやって受粉したの……」
「不肖レックス。味見をさせていただきます」
レックスが沢山生った実の一つをもぎ取ると、躊躇うことなくかじった。瞬間、くわっと目を見開き、わなわなと震えはじめる。
「なんと瑞々しく甘いことか……」
「えっと、結局どうなの? おいしいの?」
「最高に美味です!」
言って、レックスが満面の笑みでサムズアップする。私は心底ほっとした。自分の唾液で成長したリンゴとあって、まずかったらどうしようと心配だったのだ。
「ミズハ様もどうぞ」
「あ、ありがとう」
レックスが私の分のリンゴも取ってくれた。実は皮ごとかじるのは初めてで少し戸惑ったけど、空腹もあって気づいたらかぶりついていた。シャクッと小気味良い音。それに続いて物凄く甘い果汁が口内に流れ込んできた。思わず「んぅっ」と呻いてしまう。
「どうですか、美味しいでしょう!」
「うんっ、こんなの食べたことない!」
お腹が空いていたこともあって周囲の目も気にせずまたかぶりついてしまった。すごく甘いけど、かすかに酸味もあってまたそれが食欲をそそる。
「みなも食べられよ! まこと美味であるぞ!」
レックスの声によって遠巻きに見ていた人たちも試食に参加した。みんなもよほどお腹が空いていたのか、リンゴを手にした顔は総じて綻んでいる。
「信じられない……本当に一瞬でリンゴができてしまうなんて」
「だが、この味はまさしくリンゴだ。しかも物凄く美味い!」
品はリンゴだけなのにまるでパーティのような盛り上がりだ。別になんの苦労もしていないけど、なんだか自分のことのように嬉しい。
「しかし、これほどの濃厚な蜜……いったいどうやって」
「決まっている。ミズハ様の唾液がもたらしたものだ!」
「ちょっとレックス! 恥ずかしいから適当なこと言わないでよ!」
「やはりそうか!」
「って納得してるーっ!?」
レックスの言葉を疑う人は誰一人としていなかった。それどころか、こんなことを言う人まで現れた。
「だ、唾液の聖女様……!」
「うぁ~っ!」
ついに怖れていた二つ名で呼ばれてしまった。これもすべてはレックスのせいだ。ぎりっとレックスを睨みつけると、なにやら悟りを開いたかのような晴れやかな顔で迎えられた。
「ミズハ様は勘違いされております」
「勘違いもなにも唾液なんて冠つけられて喜ぶ人がどこにいるの」
「たしかに唾液にはあまり良い印象はないかもしれません」
「でしょっ」
「ですがそれはあくまで一般人の話。ミズハ様の唾液は世界を救うもの……もはや聖水と言っても過言ではありません。つまりなにも問題もないのです」
「いやそっちにはなくてもこっちには大有りなんだけど!」
拝啓、お母さん。あなたの娘が異世界で渾名に唾液をつけられて困っています。どうかお助けてください――などと心中で母に助けを求めていると、空がうっすらと黒ずんできた。
「暗くなってきたね。もう夜が近いのかな」
「王都にはまだまだ沢山のゾンビが残っていますが……浄化は明日に回したほうが良さそうですね」
「そうしてくれると助かる。実はもう結構へとへとなんだよね」
下半身全部痛いけど、特にふくらはぎが張っていた。元の世界でもこんなに歩いたことはなかったし、もしかしたら明日筋肉痛になっているかもしれない。
「本当にお疲れ様です。警備のほうは我々に任せて今夜はゆっくりお休みください」




