×30 優しい君は
あたしは如月さんの手が頬を打つ寸前にそれをつかんだ。
如月さんが驚き目を見開き、すぐに悔しさに唇をかみあたしの手をふり払う。あたしは振り払われた手であたしたちの間で呆然としている本田君の手をつかむと、未だ驚きを隠せない如月さんたちをよそに廊下を一気に走り抜けた。
たどり着いたのは図書準備室だ。
あたしと本田君は今日は図書委員だった。準備室は委員会くらいしか入ってくることがない。
あたしたちはさっきのことがあってか、気まずい空気が流れていて、あたしはそれに気づかないふりをしていつものように仕事をしていた。
静かなこの教室の中でぽつりと本田君が口を開いた。
「……今日、先生いないから二人でよろしく、って」
「そうなんだ」
「……」
再び訪れる沈黙。またもやそれを破ったのは本田君だった。
「あのさ、」
「何?」
「ごめん。それと、ありがとう。助けてくれて」
恥ずかしそうに、そう言った。さっきのこと?と問えば、うんと小さくうなずく。
「先生がいないことを伝えに行こうと思って教室まで行こうとしたんだ。そしたら如月さんと早瀬さんが話してるの見つけて、話が終わってから出ていこうって思ってたんだけど。如月さんが手を上げたから思わず……」
そしてうつむく。
あたしはできるだけ明るく、軽く言う。
「本田君が謝ることないよ。そもそも本田君はあたしを助けようとしてくれたわけだし。あたしがお礼言うべきだよ。ありがとう。」
振り向くと本田君と目が合った。あたしはにっと歯を見せた。
「反論、しないの?」
本田君は再度、作業を始めていた。
「え?……ああ、さっきのこと?それならちょっとしたケンカで、あたしが悪かっただけだし……」
「今日だけじゃなくて」
「な、何のこと?」
本田君は手を止めてあたしの方を向く。振り向かなくたって、わかる。あたしはかまわず作業を続ける。
「ずっと、やられてるでしょ。ノートとか破れてるし、教材たまになくしてる」
「あれは、カバンの中で破れただけで……教材だってたまたま忘れたんだよ」
予想していなかった話の流れに焦ってしまう。できる限り普通に喋っているつもりだけど、たぶん本田君もわかっているはずだ。
「僕、見てたよ。如月さんたちが早瀬さんのノート破っているところ。隠しているところも。靴に水かけてたところも」
あたしは作業を続ける。知らなかったわけではない。わかっていなかったわけではない。全部、すーちゃんたちの仕業ってわかっていた。でも、知りたくなかった。知らないふりをしてきた。今まで作り上げてきた私を失った今でも、全て失ったはずの今でも、信じたくなかった。
「どうしてやられっぱなしなの?先生に相談しないの?反論しないの?」
本田君のまだ幼さの残る声があたしに突き刺さる。強く唇を噛んだ。そうしなければ涙がこぼれてしまいそうだった。
いつからあたしはこんなに泣き虫になったんだろう。いつからこんなに弱くなったんだろう。それでも、努めて明るく話し続ける。
「いや、ちっさな勘違いから始まったことなんだ。むこうは勘違いしているままだから申し訳なくて。話も聞いてもらえないから、もうどうしていいかわからないんだよね」
ハハハ、と笑ってみせる。本田君はなんだかんだいって頭がいい。ここまですれば察して、引いてくれるだろう。
「違うんじゃない?」
あたしの考えはその一言で一掃される。
本田くんはいつもの声のまま。しかし、本田くんのものではないような口調だった。いつもの無邪気さを失っている。背筋が寒くなるような、その場から動けなくなってしまったように感じた。
「怖いんでしょ。自分が本当に拒否されてるっていうのがわかってしまうことが。誤解を解いても今のまま変わらないかもしれない、もしくは昔みたいに戻ることはできないんじゃないか、って思ってるんでしょ」
本田君は笑った。
それは見たこともないくらい鋭くて、男の子のくせに妖艶で。
あたしは蛇に睨まれた蛙だった。




