メロス三世(作:甘露)
trrrrr……
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「はいはい、今出ますよ」
麗らかな春の昼下がり。縁側で梅の木を眺めていたチヨは、腰を支えながら立ち上がった。軋む床板を摺り足で鳴らし、彼女は子機を取りに向かう。
「はい、田中でございます」
『もしもし、母さん? 私だよ』
「おやまあ、メロスかい?」
『ああ、メロスだ。久しぶり』
「まあまあ! そうかい、メロスかい」
チヨは心が弾んだ。愛する一人息子からの久々の連絡である。結婚して家が遠くなり、五人もの年頃の息子を抱えるメロス。働き盛りで多忙故に母を訪ねる回数こそ少ないが、それを補えるほどマメに電話をかける息子であった。
その愛息メロスからの電話は、今までには珍しく、新年の挨拶に一度かかってきたきり途切れていた。今年は孫の大学、高校、中学入学が重なり、色々大変だろうという話をしたのである。
「メロス、みんな元気にしているかい? 孫たちの入学祝は届いたかい?」
『ああ、みんな喜んでいるよ。いつもありがとう、母さん。それで、一寸頼みがあるのだが』
そこでチヨはおや、と思った。何故だかはわからないが、いつもと何か違うと感じたのだ。胸がざわつき、この電話の先に何か良くないことがある、彼女はそう直感した。
しかし滅多に頼みごとなどしない息子のことだ、素直に頼ってきたときくらい、何でも受け入れてやりたい。そんな親心が、彼女自身の発する微かな警鐘を打ち消した。
「何でもおっしゃい、母さんにできることなら何でもするから」
『ああ。その孫のことなんだが、入学に向けて色々と要りようだろう。それで、一寸お金が足りないのだ。本当に一寸で構わない。すぐ稼いで返すさ』
電話向こうの〝息子〟は、笑顔で話しているようだった。
それは、今までどんなに金に困ろうと無心したことなどなかったメロスには不似合いな言動である。そしてその母親であるチヨがおかしいと気付かないはずはなかった。
「そんなことは構わないけど……メロス、あんた本当に、メロスだろうね?」
『……何を言う。そうに決まっているじゃないか。まさかと思うが母さん、私の声を忘れてしまったのか? 本当に困っているのだ。お願いだ』
「そうかい……疑って悪かったね。それで、どうすればいいんだい」
『ありがとう、母さん。まずは…………』
ppppp……
ppppp……ピッ
「はい、メロスです」
ざわざわと人の声が行き交う交差点で、携帯電話が控えめに呼び出し音を鳴らした。仕事の休憩時間に外へ出ていたメロスは慣れた様子でそれに対応する。電話の相手は彼の母親であった。
「母さん? 何かあったのか」
「電話? いいや、私はかけていないが」
「なに、本当か。それで偽メロスは何と言ったのだ」
「呆れた外道だ。許しておけぬ。母さん、騙されてはいけない。あなたの息子は、このメロスただ一人なのだから」
通話を切り、メロスは怒りに打ち震えた。世に蔓延る悪に見て見ぬふりをすることなど、彼には不可能であった。
しかしメロスは頭の回る男ではない。抱えた怒りの行き場も分からないまま鼻息を荒くしていると、とんとメロスの肩を叩くものがあった。
「何をそんなに憤っているのだ」
そう話しかけてきたのはディオニスであった。メロスが地方を旅行した際に意気投合し、何かと世話になっている人物である。ディオニスはとある組の幹部であった。
「おお、ディオニス。実は今しがた……」
ディオニスを友と慕うメロスは、全てを話した。
「ふむ……なるほどな。それなら心当たりがある。私に任せると良い」
「なに、何かできることがあるのか」
メロスは息巻いてディオニスに詰め寄った。
「おまえには到底出来ぬ。分かっているぞ、おまえは頗る頭の弱い男だ。このことは忘れ、私に任せるが良い」
ディオニスは鼻で笑ってメロスをあしらった。しかしメロスはそんなことで簡単に諦めるような男ではない。ディオニスの胸元に掴みかかり、全て吐くよう攻めたてた。
「分かった、分かった。……仕方あるまいな、協力しよう。努々下手を踏まぬようにな」
だから手を離せ。そうディオニスが折れてやると、メロスは素直に離れ、御礼を述べて固く握手をした。
その翌日。メロスは休日を家族と過ごしていた。楽しい時間を過ごし、メロスはふと昨日の出来事を忘れたりもした。しかしディオニスから電話があると、どうにか気を引き締めた。
『ではメロス、これから私の言う場所へ行き、そこで思いの丈をぶつけてくると良い』
「無論だ。必ずや、他人を騙すなどという悪行を二度と働かぬよう誓わせてくれよう」
ディオニスから教えられ着いたのは、寂れた雑ビルであった。周りの空気も淀み、長居するのが憚られるような無法地帯の中に、それは周りのビルより頭ひとつ抜きん出て建っている。
「よし、四階だな」
メロスはあらゆる空気の読めない男であった。そこがどんな場所であるか、どういう人間が居るのか、どんなルールがあるのか、そんなことは彼にとって何の問題にもならない。
煙草の煙が充満したビルの中をのしのしと進み、目的の部屋へたどりついたメロスは躊躇いもせず扉を押し開けた。
しかしそこでメロスは固まった。
「父上? 何故ここに……」
そこに居たのは、メロスの息子――今は大学生となり、親元を離れ下宿しているはずの長男、ヒロシであった。
「おまえ、お前は私の息子ヒロシか? ああ息子よ、こんなところで何をしているのだ」
ヒロシは、メロスの友であるセリヌンティウスのもとで下宿し、真っ当に大学生活を謳歌している……と、メロスは思っていたのだ。
しかし目の前に佇む息子はどうだ。髪を後ろへなでつけ、上等なねずみ色のスーツを流すように着こなしている。
「父上こそ、このような場所に今更何用でいらしたのですか」
「私は、悪を滅すのだ。正しきことを教え、分からせてやるのだ」
「……相変わらずですね」
ヒロシは愁いを帯びた表情でつぶやいた。そして拳銃を手に取り、恨めしそうに父を見遣る。
「父上はいつもそうだ。自分の正義を、友人よりも家族よりも優先する。そんなことだから僕は」
メロスは唖然としてヒロシの言葉に耳を傾けた。この時彼は初めて知ったのである。自分の息子が何を抱えていたのか、何を悩んでいたのか。
しかしそれが分かったからと言って、メロスの目的が変わることはなかった。
「私は悪行を断つためここへ来たのだ。弱きものを陥れようという外道に会わねばならぬ」
「それは、お婆様にかかわることですか」
「なに、知っているのか」
「知っています。ですが教えられません」
「何故だ! お前は、この父の嫌いなことを知っているだろう。嘘や隠し事はせぬよう教えたはずだぞ!」
メロスは苛立ち、ヒロシの方へ歩み寄りながら怒鳴りつけた。しかし、メロスが唾のかかるほど詰め寄り、噛みつかんばかりの勢いで迫っても、ヒロシは動じずにまっすぐ立っていた。
「あなたがそんなことだから、お婆様まで巻き込む」
そう言うとヒロシは、手にしていた銃をメロスの額に当て、力強く父の眼を見つめる。
「父上が知りたいことは何でもディオニスが教えてくれるのでしょう。僕も、父上が借金を抱えていることを彼から聞きました。父上はもっと家族に話すべきなんです。僕や母上も知らないような〝友人〟に話すよりも、僕たちに」
メロスは息子の言葉を訝しんだ。彼には、〝友人〟から善意のお金を借りた記憶はあっても借金をした意識などは皆目なかったのである。
「嘘を言うな! 私は借金などしておらぬ。ディオニスを、我が盟友をそんなことで貶めようとは」
「まだそんなことを言うのですか!」
メロスは何をか叫ぼうとしたが、それよりも早く、ヒロシの指に力が込められた。
「結構結構、依頼は果たされたようだな」
両掌を打ち鳴らし、ディオニスは埃の舞う部屋へ現れた。メロスとヒロシは、揃って呆けた顔を彼へと向ける。
ヒロシの構えた銃口からは、僅かな硝煙と紙吹雪、そして紙でできた小さな鳩が飛び出していた。
「ディオニス、これは一体どうしたことだ」
「大したことではない。こんなことは、日頃から金を借りたまま返さぬお前への意趣返しに過ぎぬよ」
聞けばセリヌンティウスにも度々金の無心をしているそうじゃないか、そうディオニスは鼻で嗤う。
「メロス、お前は嘘を吐き人を騙すのを良しとせぬが、わしは金に緩いことも善きことではないと言っておろう」
「してヒロシよ、お前さんも父を信じるよう育てられたのではないのか? まったく至らぬ息子だな、メロス」
「セリヌンティウスからも言伝を預かっておるぞ。〝二人とももっと話しあうべきだ〟とな」
ディオニスは呆れたように肩を竦め、ヒロシの手から玩具の銃を掠め取り部屋を後にした。
部屋に残されたメロスは、ディオニスへの怒りと息子への怒りを胸にたぎらせていた。しかし同時に自分の非を恥じてもいた。己の過ちを認め、今目の前にいる息子と確かに向き合わねばならぬ。
そして二人は、埃塗れの部屋で向かい合って座り、話し始めたのであった。