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書けよメロス(作:大東公太郎)

 メロスは激怒した。必ず、かの邪知暴虐の文芸部部長に負けるわけにはいかぬと決意した。

 メロスにはパソコンの使い方がよくわからぬ。ワードソフトの使い方がよくわからぬ。原稿を書く上での細かいルールもよくわからぬ。しかし、ただ一つ、文学の面白味なら少しはわかっているつもりである。

 メロスは、D大学の國文學研究会という名の、所謂文芸部に所属する部員である。國文學研究会では部員の書いた原稿を読んだりして批評するなどして過ごしていた。しかし自分ではまだちゃんと書こうとした事がなかった。

 る月曜日の四限終わり。メロスは八号館教室を出発し、生協に立ち寄り水といちご大福を買い、少し大学構内のはなれにある五号館の五一三教室に向かっていた。これから五一三教室で國文學研究会の活動なのである。

 メロスには父も、母も無い。彼女も無い。ただ友人には恵まれていた。大学生活では友人達に助けられる事も多い。メロスは部活にはちゃんと出るが、授業にはちゃんと出ない。「授業出席が足りないとメロスの単位が危ない」と友人達は危惧し、いつも出席カードを代返してくれたり、メロスの分のプリントを取っておいてくれたり、テスト前にはノートを見せてくれる。実に素晴らしい友人達であった。そんな友人達の多くは國文學研究会に所属していた。

 その中でも特に、メロスが頼り、仲良くしている友人が居た。芹田川利樹くんである。周りからはセリヌンと呼ばれている。セリヌンは真面目で人が良いので、不真面目で単位の危ういメロスの事をいつも助けてくれる。セリヌンは真面目なので、部活が始まる三十分前にはもう活動場所にいる。今日もセリヌンは活動場所に早入りしている事だろうと五一三教室の目前に来たところで、メロスは教室の様子を怪しく思った。ざわめいている。平時より、部活が始まる前はガヤガヤとうるさいものだが、どうもそのせいばかりでは無く、教室内で何かが起こっているらしい。のんきなメロスも、だんだん不安になって来た。ちょうど教室入口の脇に、メロスとカラオケ友達の仲である後輩・与灘くんが居たので、異変について聞いてみた。与灘くんは、あたりをはばかるような小さな声で、わずか答えた。

「芦澤部長がおヒステリックです」

「あの寛大な芦澤部長が? なぜ部長はおヒステリックなのだ?」

「どうも、活動でやる事が無いようなのです。それと、部員に原稿を書いている人が居ないみたいです。所謂文芸部なのに、原稿が無いのはこれ如何にと怒っているご様子です」

「そんなに原稿を書いている人が居ないのか?」

「はい」

「おどろいたな。それで部長はおヒステリックか?」

「はい、おヒステリックです。原稿を、いいから早く原稿を上げろとの事です。この頃は、部員のプライベートにも口を出すようになり、無意義で怠惰な暮しをしている部員には、名指しで原稿を書き上げてくる事を命じています。御命令を拒めば十字架にかけられて、部長による『こちょこちょの刑』です。今日は、二年生の逢坂先輩が刑に処されています」

 聞いて、メロスは激怒した。「呆れた部長だ。生かしておけん」

 メロスは、どこまでも単純な男であった。大学生協で買ったいちご大福をひとしきりもぐもぐと味わった後、のそのそと五一三教室に入って行った。しかし入るや否や、たちまちにメロスは部長の逆鱗に触れる事になった。

「メロス! その口の横に付いている餡子はなんだ! 弛んでいる! 原稿はやったのか? どうせやっていないだろう?」暴君芦澤部長は、吠えるように怒鳴り散らした。

「部長、部員に強制的に原稿を書かせるのをやめるんだ」とメロスは悪びれずに答えた。

「はっ? 何を言うか。原稿が無いのだからしょうがないだろう。このままでは伝統ある我が國文學研究会の部誌の発行もままならんぞ?」部長は、これでもかという程、声を大にして言った。「仕方の無いやつだ。おまえには、私の苦心や危惧がわからんだろう?」

「言うな!」とメロスは、いきり立って反駁した。「部長は、部員の創作意欲をさえ疑っている」

「疑うのが正当の心構えなのだとオレに教えてくれたのはおまえらじゃないか。人の心はあてにならない。人間は、もともと自堕落で怠惰なのさ。信じてはならぬ」部長は落着いて呟き、ほっと溜息をついた。「私だって、みんなの自主性を望んでいるんだ。しかし文芸部である以上、部誌は必ず発行したいだろう? 部誌を発行するには幾つかの原稿が必要なのだ。その原稿すら上がらない。私の代で歴史ある部誌を休刊にする訳にはいかないだろう? だから原稿が欲しいのだ」

「ぐ、ぐぅ――それも確かに」メロスは同調せざるを得なかった。「しかし、そんなに口酸っぱく言っていても、部の空気が悪くなるぞ? 創作意欲も削がれるじゃないか」

「うるさい、お前に文芸部を運営する立場のこの私の気持ちがわかるか?」部長は、少し興奮気味に言った。「口では、どんな清らかな事でも言える。「原稿ならやってるよ」なんて口では簡単に言えるのだ。現に、おまえだって書いてないだろう?」

「創作意欲が全く無い訳ではないぞ。書いている途中の原稿ならあるぞ。ただ――」と言いかけて、メロスは今日も二限を自主休講にした事を思い出して瞬時ためらい、「ただ、その、もう少し。もう少しだけでいいから、原稿は待って戴きたい。自主休講を多くキメたせいで、レポートやら課題やらがごまんとたまっているのだ。おまけに、出席も足りない」

「ばかな」と暴君は、嗄れた声で低く笑った。「面白い事を言うじゃないかメロスくん。國文學研究会の連中は皆不真面目で自堕落で怠惰だ。だから皆、今おまえが言った様な事を既に言っているのだよ!」

「な、なんだって!」

 メロスは自分と部長の応酬を見守っている周りの部員を一瞥してみた。確かに皆、不思議とメロスと目を合わせようとしないではないか! これはどういう事であろうか!

「な、ならば仕方あるまい」メロスは決心して言った。「私が原稿を書き上げよう。その代わり、次の活動がある木曜日まで待ってほしい。つまり二日間待って欲しい。私は二日間あれば大作を書き上げられる」

「ふん。いいだろう。だが、メロス。おまえは火曜日も水曜日も放課後はバイトが入っているではないか? 単位が危ないから授業もちゃんと出るとなると、原稿を書く暇もあるまい?」

「ぐ、ぐぅ――それも確かに」メロスは同調せざるを得なかった。メロスは困った。

 が、しかし、そこには救いの手を差しのべてくれる人が居たのであった。

「メロス、授業の出席なら俺が代わりに出ようではないか」部員達の中から一人、メロスと部長の前へ現れる者が居た。そう、メロスの唯一無二の友人である芹田川利樹改めセリヌンである。「幸い、俺は全く自主休講というやつをキメてないからな。メロスの授業に顔を出してあげるにしても、自分の単位に差し障りがない。しかも今週は何故か休講が多いのだ」

 セリヌンは自分の出席を捧げてまでも、メロスが原稿を書く時間を確保してくれるというのだ。

「セリヌン、本当にいいのか?」

「なに、構わんて。俺たちの仲だろう?」

「――すまないセリヌン。恩に着る」

 二人が熱く友情を確認し合っているのが気に食わないのか、部長は言った。「いや、セリヌンも時間あるなら原稿やれよな――。まぁ、いい。メロスは原稿を書き上げて来なかったらどうなるか、わかっているな?」「もちろんわかっている。私が逃げてしまって、木曜の活動までに原稿を持って来れなかったとしたら、私の唯一無二の友人であるセリヌンに、國文學研究会の部長にのみ代々口伝で伝わるという秘刑『こちょこちょの刑』とやらを掛けてやって下さい」

 メロスは少し、悪ノリをした。

 それを聞いて部長は、恥ずかしい気持で思わず「キャッ」と声に出してしまった。「な、なんと破廉恥な! セリヌンがどうなってしまっても知らんぞ?」

「お、おい、メロス。そ、そんな卑猥な目に遭うのは聞いていないぞ」セリヌンも焦っている。

「大丈夫だ。私は必ずや原稿を書いてくる」

「ふん。どうせ原稿など書けないに決まっている。木曜には「人は、これだから信じられん」と、私は身代りのセリヌンを『こちょこちょの刑』に処してやるのだ。部員らにセリヌンのあわれもない姿をうんと見せつけてやりたいものさ。そうだ、メロス。原稿を書く気がハナッから無いのであれば、わざと原稿を忘れたふりをして来るがいい。おまえの罪は、永遠にゆるしてやろう」

「ど、どういう意味だ部長」

「はは。おまえの言う「書いている途中の原稿がある」というのがウソな事ぐらい、わかっているぞという事だ」

 メロスは口惜しく、地団駄踏んだ。ものも言えなかった。実際、一文字も原稿を書いた事がなかった。

「クソう、書いてやるからな。私は原稿を書き上げて、セリヌンを救ってみせるからな」


 という事で、ここに約束が成された。メロスは木曜の國文學研究会の活動、今日が月曜日なのでつまり明々後日までに原稿を持ってくる事。その間のメロスの授業への出席はセリヌンが代返で行い、メロスの執筆時間を稼ぐ事。そして、メロスの原稿が木曜の活動までに上がらなかった場合、セリヌンは部長によって『こちょこちょの刑』に処される事。これらがメロス、及びセリヌンが暴君芦澤部長と交わした約束事である。よくよく考えるとメロスは部長の思うがままに原稿を書かされる事になっているし、そもそもメロス側にメリットが無いのだが、メロスは、どこまでも単純な男であった為に気が付かなかった。活動が終わり、メロスは原稿をやるべく急いで川越の自宅に帰宅する事にした。初冬、満天の星である。


 メロスはその夜、真っ直ぐ自宅へ帰って一睡もせず原稿を只管にやるつもりであったが、ブックオフの誘惑に負け、気が付いたら閉店の午後十一時まで立ち読みをしていた。メロスは思った。「ジョジョの第三部面白いな」と。メロスが川越の自宅へ帰宅したのは、時計の針がてっぺんに回るころであった。「あ、もうこれ眠いな。無理だな。原稿は明日から本気出してやろう」と思ったメロスは、とりあえず布団で眠る事にした。こうして月曜日は終わった。

 

 陽は既に高く昇って、明くる朝。二限に出るに然るべき時間に起きたメロスであったが、「あ、今日から二日間は授業に出なくても、セリヌンが代返してくれるんだったな」と思い出したメロスは、執筆する小説のネタを考えるべく、布団で小難しい顔をして瞑想する事にした。こういう時は瞑想が一番だ。

 陽は既に沈み始めて、夕方十六時。「あれ? なんで私はこの時間に布団に居るのだ」と、メロスは数分考えた。思い出して我に返ったメロスは、バイトに行かなくてはならない十九時までパソコンのワードソフトと向き合い、原稿を無理矢理にでも捻り出す事にした。これがなかなかどうしてアイデアが思い浮かばない。書きたいものはなんとなくぼんやりとあるのだが、どうも上手く文字に起こせない。まずパソコンの使い方すらよくわからぬ。ああだ、こうだ、とうねったりユーチューブで大好きなアイドルであるももいろクローバーZの動画を見ていたりしている内に、既にバイトに遅刻する時間になっていた。メロスはバイトへ行く事にした。

 バイトが終わり、メロスはまたよろよろと歩き出し、家へ帰ってパソコンのワードソフトを開き、ちょっと文章を打ってみたりしたが、間もなく床に倒れ伏し、呼吸もせぬくらいの深い眠りに落ちてしまった。

 眼が覚めたのは水曜の朝だった。メロスは起きてすぐ、セリヌンにメールをした。「今日も代返お願いしますね」と。さて、明日が約束の木曜なので、出来れば今日中に原稿を書き上げてしまいたい。不幸中の幸いか、ちゃんと朝に起きる事が出来たのだ。今日は一日パソコンにしがみ付いていよう。メロスは、この時点で書く原稿の構想は殆ど決めていた。悪政を働く暴君に一人の青年が立ち向かうという小説である。構想や展開をぼんやりと定めた為か、メロスは余裕なんかありもしないのに「これは余裕だわ。二時間もあれば終わるわ」と過信し、大好きなアイドルであるももいろクローバーZのDVDを見ては満面に喜色を湛え、しばらくの間は、セリヌンとの約束をさえ忘れていた。メロスは、このまま学校をサボり続けて、テレビを見たりしてごろごろ過ごしたいなと思った。原稿も課題もやらず、ずっと寝ていたい。いっそ冬眠したいなと願った。だがしかし、今はセリヌンが自分の代わりに頑張ってくれていて、兎角小説を書き上げなければならない。ままならぬ事である。メロスは、わが身に鞭打ち、ついに本格的な執筆を決意した。明日の活動までには、まだ十分の時が在る。ちょっと。あと、ほんのちょっとだけ一眠りして、それからすぐにワードソフトを立ち上げよう、と考えた。少しでも永くごろごろしていたかったのだ。メロスほどの男といえども、やはり怠惰というものは在る。メロスはまたスヤスヤと寝息を立てて眠った。

 眼が覚めたのは正午ちょっと前の頃である。メロスは跳ね起き、南無三、寝過したか、いや、まだまだ大丈夫。今日は十九時からバイトがあるが、これからすぐに原稿をやれば明日の活動までには十分間に合う。明日は是非とも、あの部長に、人の信実の存するところを見せてやろう。そうして笑って五一三教室の教壇に上ってやる。メロスは、苦労しながらもワードソフトを立ち上げた。原稿の構想はバイトしながらや寝転がっている間に練ったのだ。

 メロスは、ぶるんと両腕を大きく振って、一人の部屋で、跳ね馬が如くキーを打ち出した。

 今までのメロスなら、「原稿の一本も書けないのか」と部長に笑われていただろう。でも今のメロスは違う。身代りの友を救う為に書くのだ。部長の奸佞邪智を打ち破る為に書くのだ。書かねばならぬ。そうして、メロスは部長に打ち克つ。サラバ、口先だけの自分よ。

 だが、執筆経験の無いメロスには、執筆は辛かった。幾度か、ユーチューブの誘惑に負けそうになった。えい、えいと大声挙げて自身を叱りながら書いた。難しくて学のありそうなお洒落な言葉を使いたくても、メロスには学が無い為に自由に使えない。だから逐一辞書で調べた。執筆経験が無いから、「――」とか「……」とか「、」さえ上手く絶妙なタイミングで使えない。それでもグーグルやウィキぺディアを駆使して、何千と字を書いた。作品の『起承転結』の『結』直前あたりに行き着く頃には、テレビでやっていた『お昼の洋画劇場』も終わる頃だった。

 メロスは額の汗を拳で払い、「ここまで来れば大丈夫、あと一息で無事に原稿は完成するだろう」と一息ついた。部長やセリヌンとの約束も果たせるだろう。私には今、なんの気がかりも無い筈だ。このまま書き続ければ、それでよいのだ。そんなに急ぐ必要も無い。「ゆっくり書こう」と持ちまえの呑気さを取り返し、大好きなビートルズの『オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ』を鼻唄で歌い出した。そろそろ原稿が『結』の頭に到達した頃、脳裏に浮かぶ大事なアレ。メロスの指は、はたと、止まった。そうだ、メロスはプリンターを持っていないではないか。原稿は紙原稿の状態で部長に献上しなければならない。メロスは困った。困り果ててメロスは自宅玄関にうずくまり、泣きながらゼウスに手を挙げて哀願した。「ああ、どうしたらいいんだ。プリント機能はノートパソコンに付いて無いのか! 付いているものだと思っていたぞ!」

 時は刻々に過ぎて行く。太陽も既に真昼時を過ぎている。あれが沈んでしまわぬうちに、原稿を書き上げる事が出来なかったら、あの佳い友達が、メロスのために秘刑・『こちょこちょの刑』に処されるのである。

 時刻は、メロスの叫びをせせら笑うかの如く、刻々と過ぎていく。その時、メロスは自分のノートパソコンの脇に変な差込口のようなものがあるのを発見した。そこでメロスは閃いた。「あ、USBを使えばよいではないか」と。「大学図書館には生徒が自由に使えるパソコンと印刷機がある。USBに入れた原稿データを大学図書館で印刷すればよいのではないか」と。しかし、メロスはUSBを持っていない。故に自宅からほど近い、ドン・キホーテ川越店に決死の覚悟で買いに行く事にした。マイ・自転車である『こせんば号』に颯爽と飛び乗り。目指すはドンキ。一刻といえども、無駄には出来ない。陽は既に西に傾きかけている。十九時からはバイトがある。ぜいぜい荒い呼吸をしながら『こせんば号』を漕ぎ、漕ぎに漕いで、ようやくドンキに着いた時、突然、目の前に一隊のヤンキーが躍り出た。

「待て」

「何するだ。私はUSBとやらを買わねばならぬ。放せ」

「どっこい放さぬ。有り金全部を置いて行け」

「私の財布には、野口英世が描かれたありがたいお札一枚の他には何も無い。その、たった一枚のお札も、これからドンキにくれてやるのだ」

「その、お札が欲しいのだ」

「さては、部長の命令でここで私を待ち伏せしていたのだな」

 ヤンキーたちは、「部長ってなんだよ?」と言いながら拳を振り挙げてきた。メロスはひょいと、からだを折り曲げ、飛鳥の如く身近の一人に襲いかかり、その身体の自由を奪い、「気の毒だが正義のためだ!」と猛然一撃、たちまち、三人を殴り倒し、残る者のひるむ隙に、さっさと走って店内に入った。

 一気に数人のヤンキーを相手にしたのが身体に響いたらしく。流石に疲労が困憊し、メロスは幾度となく眩暈を感じ、これではまずい、と気を取り直しては、よろよろ二、三歩だけ歩いて、ついに、がくりと膝を折った。もう立ち上る事が出来ぬのだ。ドンキの天井を仰いで、くやし泣きに泣き出した。ああ、原稿を八割は書き上げ、ヤンキーを三人も撃ち倒し韋駄天、ここまで突破して来たメロスよ。真の勇者、メロスよ。今、ここで、疲れ切って動けなくなるとは情無い。愛する友は、おまえを信じたばかりに、やがて辱めを受ければならぬ。おまえは、情の希薄な人間、まさしく部長の思う壺だぞ、と自分を叱ってみるのだが、身体が全く動かず、もはや芋虫ほどにも前進かなわぬ。「くそう日頃の運動不足だ」僅かに残った力を振り絞り、メロスは家電コーナーの「ご自由にお試し下さい」と書かれたマッサージチェアにごろりと寝ころがった。身体疲労すれば、精神も共にやられる。もう、原稿などどうでもいいや、バイトもある事だし、マッサージチェア気持ちいい~という、勇者に不似合いな不貞腐れた根性が、心の隅に巣喰った。メロスは、そこそこに努力したのだ。約束を破るつもりはそんなに無かった筈だ。神も照覧、精一杯に努めて来たでしょう? 動けなくなるまでやってきたでしょう? これからバイトですよ? メロスは不信の徒では無い。無いったら無い。ああ、できる事なら自らの胸を截ち割って、真紅の心臓をお目に掛けたい。チキンラーメンのスープといちご牛乳から濾したであろう血液だけで動いているこの心臓を見せてやりたい。けれどもメロスは、この大事な時に、精も根も尽きたのだ。メロスは、よくよく不幸な男だ。メロスは、きっと笑われる。メロスは友を裏切った。中途で倒れるのは、はじめから原稿をやらないのと同じ事だ。ああ、もう、どうでもいい。バイトも始まってしまうし。これが、メロスの定った運命なのかも知れない。

「セリヌンよ、ゆるしてくれ。君は多分、いつでも私を信じた。私も君を、裏切らなかった。多分。私たちは、本当に佳い友と友であった筈だ。一度だって、暗い疑惑の雲を、お互い胸に宿したことは無かったろう? 今だって、君は私を無心に待っているだろう。それを思えば、たまらない。友と友の間の信実は、この世で一番誇るべき宝なのだからな。セリヌン、私はそこそこに原稿を書いたのだ。セリヌンを裏切るつもりは、あまり無かった。信じてくれ!」

 メロスは急ぎに急いでここまで来たのだ。睡魔と闘った。夜勤バイトも熟した。ヤンキーの囲みからも、するりと抜けて一気にここまで来たのだ。メロスだから、出来たのだ。

「ああ、この上、私に望み給うな。放って置いてくれ。どうでも、いいのだ。私は負けたのだ。だらしが無い。笑ってくれ。部長はセリヌンを辱め、原稿一つすら上げられぬ私をバカにするのだ。私は部長の卑劣を憎んだ。けれども、今になってみると、私は部長の言うままになっている。私は、ちょっとだけ『こちょこちょの刑』を見てみたい気にもなっている。最低だ。部長は、ひとり合点して私を笑い、そうしてセリヌンを辱めるだろう。そうなったら、私は、死ぬよりつらい。あ、でもやっぱりちょっと見てみたい。いいや、セリヌンよ、私も辱めを受けるぞ。君と一緒に『こちょこちょの刑』を受けさせてくれ。君だけは私を信じてくれるにちがい無い。いや、それも私の、一人よがりか? ああ、もういっそ、辱めを受けている君を部長と共にケタケタと笑っていようか。悪徳者として生き伸びてやろうか。原稿だの、友情だの、部長だの、考えてみれば、くだらない。楽をしたい。それが人間世界の定法ではなかったか。ああ、何もかも、ばかばかしい。ああ、楽がしたい。バイトだるい。私は、醜い裏切り者だ。どうとも、勝手にするがよい」

 一人ドン・キホーテ川越店家電コーナーのマッサージチェアの上で叫ぶメロス。

 そのままメロスはマッサージチェアでうとうと、まどろんでしまった。

 ふと耳に、ケータイの着信音が聞えた。はっ、としてポケットからケータイを取り出すと、バイト先の先輩からであった。

「あ、今日のバイトなんだけどね。俺のシフトが入っている金曜とメロスの今日のシフト代わってくれないかな? 金曜に急用ができちゃってね。ごめんね」ほうと長い溜息が出て、夢から覚めたような気がした。

 今日はバイトに行かなくていいのである。 

「寧ろありがとうございます」

 いける。これは楽勝だ。肉体の疲労が一気に恢復すると共に、わずかながら希望が生れた。義務遂行の希望である。わが身を殺して、名誉を守る希望である。木曜の活動までには、まだまだ間がある。メロスを、待っている人があるのだ。少しも疑わず、静かに期待してくれている人があるのだ。メロスは、信じられている。メロスは、信頼に報いなければならぬ。いまはただその一事だ。書け! メロス。

 メロスは信頼されている。メロスは信頼されている。先刻の、あの悪魔の囁きは、あれは夢だ。悪い夢だ。忘れろメロス。不摂生を極めている時は、不意にあんな悪い夢を見るものだ。メロス、おまえの恥ではない。やはり、おまえは真の勇者だ。再びマッサージチェアから立ち上がって走れるようになったではないか。ありがたい! メロスは、正義の士として原稿を書き上げる事が出来るぞ。

 さあ、急げメロス。USBを買って、原稿を一気に書き上げるのだ!

 明日の國文學研究会の活動までに必ず、原稿を書き上げ、大学図書館で原稿を刷り、必ずや、かの邪知暴虐の芦澤部長に原稿を提出するのだ!

 さあ、急げメロス。時間がないぞ! 

 さあ、書けよメロス!

 

  ※


 D大学図書館から暴れ馬のように飛び出したメロスは、図書館前にたむろする人を押しのけ、跳ねとばし、駆け抜けていった。

 原稿の印刷には、予想以上に時間を要した。大学図書館は、メロスと同じようにレポートを印刷しようとする学生で大変混雑していたのだった。

「クソう、このままでは活動開始時刻に間に合わないではないか」

 メロスは大学図書館から五号館へと向かう道を疾風迅雷の如く走り、帰りのバスを待ち並ぶ生徒を仰天させ、犬を蹴とばし、小猫を飛び越え、女子大生のスカートをめくり、少しずつ沈んでゆく太陽の、十倍も早く走った。そして五号館・五一三教室へ向かう國文學研究会の部員達と颯爽っとすれちがった瞬間、不吉な会話を小耳にはさんだ。「今頃は、セリヌンも、磔にかかっているよ」ああ、その男のために私は、今こんなに走っているのだ。その男との約束を守らなければならない。急げ、メロス。遅れてはならぬ。チキンラーメンといちご牛乳の力を、今こそ知らせてやるがよい。風体なんかは、どうでもいい。颯爽と走るメロスに向かい風が強く吹き、なんやかんや上手い具合に服が脱げて飛んでいき、メロスは今、ほとんど全裸体であった。

「ああ、メロス様」うめくような声が、風と共に聞えた。

「誰だ」メロスは走りながら尋ねた。

「与灘でございます」与灘はメロスの後について走りながら叫んだ。「もう、駄目でございます。無駄でございます。走るのは、やめて下さい。もう、セリヌンをお助けになることは出来ません」

「いや、まだ活動は始まらぬ」

「ちょうど今、あの方が『こちょこちょの刑』に掛かるところです。ああ、あなたは遅かった。あと、ほんの少し、もうちょっとでも、早かったなら! あの方は、あなたを信じて居りました。刑場に引き出されても、平気でいました。部長が、さんざんあの方をからかっても、「メロスは来ます」とだけ答え、強い信念を持ちつづけている様子でございました」

「だから、走るのだ。信じられているから私は走るのだ。間に合う、否、間に合わぬは問題でないのだ。セリヌンの命も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ」

 まだギリギリ活動は始まらぬ。最後の死力を尽して、メロスは走った。五一三教室までの距離がやけに長く感じたが、走った。メロスの頭は、からっぽだ。何も考えていない。ただ、わけのわからぬ大きな力にひきずられて走った。丁度活動開始の号令が掛かろうとした時、メロスは疾風の如く五一三教室に突入した。間に合った。

「待て。その人を辱めてはならぬ。メロスがやって来たぞ。部長! 約束の通り、原稿を持ってきたぞ。彼を人質にした私は、ここにいる!」と、メロスはかすれた声で精一杯に叫びながら、ついに教壇に昇り、釣り上げられてゆく友の縄を解いた。

 部員は、どよめいた。「全裸同然よ! 見苦しい! 全裸丸!」と口々にわめいた。

「セリヌン」メロスは眼に涙を浮べて言った。「私を殴れ。思いっきり殴れ。あ、ごめん、やっぱ待って。あんまり痛くない程度に殴れ。私は、途中で一度、原稿とか友情とかちょっとどうでもよくなっていた。君が若し私を殴ってくれなかったら、私は君と抱擁する資格さえ無いのだ。さあ、殴れ」

 セリヌンは、すべてを察した様子で頷きき、教室中に鳴り響くほど音高くメロスの右頬を殴った。殴ってから、「メロス、私を殴れ。同じくらいあんまり痛くないように私を殴れ。私はこの三日の間、三日中、君を疑っていた。というか、本当の話をすると、君を信用した試しがない。でも私が先に殴った手前、君が私を殴ってくれなければ、私は君と抱擁できないんだよなぁ」と言った。

 メロスは腕に唸りをつけてセリヌンの頬を殴った。そこそこに本気で殴った。というか、ちょっと怒っていた。

「ありがとう、友よ」二人同時に言い、ひしと抱き合い、お互いのムサ苦しさを改めて実感してサッと離れた。

 部員の中からは、疎らに拍手が聞えた。暴君部長は、二人の様をまじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき、顔をあからめて、こう言った。

「おまえらの望みは叶ったぞ。おまえらは、私の心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、私もおまえらの仲間に入れてくれないか。どうか、私の願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい。というか、私は友達が居ないんだ――」

 どっと群衆の間に、爆笑が起った。

「メロス万歳、セリヌン万歳、部長万歳」

 与灘が、藍のマントをメロスに捧げた。メロスは、まごついた。佳き友は、気をきかせて教えてやった。

「メロス、君は、全裸じゃないか。さてはわざとだろう? 早くそのマントを着てくれ。それから部長――」

「なんだね?」

「おまえも原稿やれよ」

「さっ、活動でも始めるか」 


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