多勢に無勢(作:鷹鳶)
メロスの仕事は専ら放牧である。昨晩の大雨で、羊には干し草しか与えていない。
嵐が過ぎ去り、青空が帰ってきた。戸を開けると、清々しい風がメロスを包んだ。
なんと気持ちの良いことか。羊を追い立て、今日こそ彼らを野に放とう。青々と照り映える緑の海原を前にして、羊たちも浮き足立っている。
大きな身振りで追い立てると、競い合うように駆け出した。羊たちの活発な姿に、メロスは不覚にも見惚れてしまった。
あっぱれ、なんという健脚だ、みるみるうちに私から遠ざかっていくではないか。犬も群れに交じって並走している。彼らはどこに向かっているのだろうか。まあ、何にしても壮観だ。草原を駆け抜ける彼らに勇猛ささえ覚える。
……いや待て。私だけでどうやって連れ戻すのだ?
「……しまった! 放ち過ぎた!」
あのままでは自然に帰ってしまう。追いすがらなければ。
メロスは猛然と走り出した。
人と羊と犬が織り成す、渾然一体の疾走が大地をにぎわす。短足を補ってあまりある回転率が、メロスを翻弄した。追い抜けそうで追い抜けない。焦ったメロスに平和的解決の選択肢はなかった。ああ、祖先たちも照覧あれ、この跳躍を。獣の濁流を止めるのだ。メロスは一糸乱れぬ羊の行軍にざんぶと飛び込んだ。メロスの腕は中核の羊をしかと捉え、決死の体当たりは羊たちを一網打尽の将棋倒しにせしめた。もみくちゃになって倒れたメロスを、朝露がべったりと濡らした。
しかしそこで終わる羊でもなかった。羊の逆襲が始まった。羊たちの体当たりがメロスを飲み込む。目の前の一頭を引きはがしても第二第三の羊がメロスを草原に釘づけにし続けた。仰向けだというのに空がまるで見えない。
「やんちゃが過ぎるぞ、お前たち!」
メロスの身体は強靭だが、統率の取れた物量作戦に圧倒されてしまう。
「そうだ、マルコ、マルコは居ないか!」
メロスはたまらず愛犬の名を呼んだ。群れの中に居るはずなのだ。
すると、羊毛まみれの視界の向こうで、勇ましい一吠えが主人の声に応えた。眼前の視界が初めて開いた。ああ、そうであった。羊たちとの暮らしは彼なくしては語れない。放牧とは人間だけで出来ることではないのだ。群れを割って堂々と歩む彼は、羊たちを歯牙にもかけない。やがて、彼の雄姿を前にした羊たちは息を潜めた。
地面から見上げた面構えは、いつにも増して頼もしかった。
相棒は仰向けのメロスの顔に前脚を添えた。
そしておもむろに髪を咥えた。
もしゃりもしゃりと咀嚼を始めた相棒に、メロスはおもわず口を開いた。
「お……お前もか、マルコ!」
相棒は呆けた顔で髪を弄ぶばかりだ。マルコの裏切りを皮切りに、羊たちは嵐より手強くなった。
日を同じくして、セリヌンティウスはメロスに会いに村を訪れていた。
「メロスがどこにいるか、知らないか? 姿が見えないのだ」
通りかかった顔なじみの牧人に所在を尋ねた。
「牧場にいるとも。ほら、あれだ」
「なに?」
指さされた先には野放しにされた羊の群れがあるばかりで、人がいなかった。
「どこにいるのだ?」
「羊に埋もれているよ、おかしなもんだ」
恰幅の良い牧人は豪快に笑った。セリヌンティウスは困惑した。
「……助けなくて、よいのか? 石工の私には、何が起こっているのか……牧人とは、あそこまで身体を張るものなのか?」
「そんなことはないんだがなあ。まあ、手荒くじゃれつかれてるんだろう。俺はついぞ見たことがねえが」
牧人は蓄えた髭を撫ぜながら、呑気にメロスの方を見遣るばかりであった。
「いずれにしても、メロスが居ないことには用が済ませられないのだ。私は助けに行く」
「おすすめしねえぞ」
セリヌンティウスは忠告を聞く前に走り出していた。
赤い夕日を背に、泥まみれの牧人と石工が村へ帰ってきた。肩を組み、のっそりと歩く彼らを見て、道行く者は怯えた声をあげた。二人から滲みだす何かが、やつれた顔に一層影を落としていた。
「メロス……私は何故君に会いに来たのだろうか?」
「……さあ」
「なあ、メロス……」
「今度は何だ?」
「背後の羊たちが、若干身を低くしているのだ。まるで、地を蹴るタイミングを計っているように」
「……まずいぞ、セリヌンティウス!」
翌朝、二人は全身隈なく筋肉痛になっていたという。