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信じる者はすくわれる(作:風月)

 生贄を捧げることで、神に村を護ってもらう。そんな慣習がどれだけの昔からかは分からないが、ここには存在していた。降霊術で神を呼び、年に一人、村の中から生贄を指名して頂くのだ。

 今年の生贄はメロスであった。彼は村の皆から愛され、メロスもまた、村の者達を愛していた。村の為を思えば、彼は自身の命など微塵にも惜しく思うことはなかった。彼の体内を巡る血は、どこまでも愛と真実に燃えているのだった。



 いよいよ以ってして今年の生贄が決まる。村中の者が広場に集まり、一人の子供を囲んで眺めている。村の中でも大家の子供であったように思う。降霊師が唱える呪文は村人達には理解出来ないモノであった。しかし、厳かな空気に呑まれた彼等にとって、その内容等はどうでもよく、如何にも神聖である、この雰囲気こそが全てであった。「穢れがあってはならぬ」というような理由で焚かれた火は、轟と燃盛り、天高く煙を上げている。誰一人として、無駄な口を開く者は居らず、鳴り響く音は、力強い炎と詠唱、そしてそれを見守る者達の固唾を呑む音だけであった。

 やがて、降霊師の詠唱が止まる。神託の時が来たのだ。瞬きすら惜しいとばかりに、皆一様に目を見開いている。呼吸の音すら煩わしいかのように、息を止めて真剣に目を向ける者もいる。永遠とも一瞬ともつかぬ間を空けて、降り立ったモノは名を告げる。声こそ子供のものであるのに、それは胸の奥にどっしりと沈みこむような厳正な響きであった。その名を聞いた瞬間、緊張の糸が切れたのか、多くの者がガヤガヤと声を発し始めた。怒りを顕にする者や、すすり泣く者なぞもいる。

「何故です。何故メロスが死ななければならぬのです」

 中心に佇む子供に強い語気で問い質す村人がいた。しかし、子供は訳が分からないといったように戸惑い、泣き出してしまった。既に神はそこにはいなかった。

「神のお告げだ。仕方あるまい。私は確かに死んでしまうが、どうしてこれを悲しむ必要があろうか。誇りに思うのであるならばまだしも。私は村の為に死ねるのだぞ」

 メロスはそう言って村人を嗜めた。村人の怒りの形相は歪み、やがて眦からは涙が流れ始めた。メロスはその者に胸を貸してやった。村人は泣いた。大きな声で泣いた。それを見た周りの多くの者も泣き始めた。その場に崩れ落ちる者も出た。メロスはその光景を眺め、自分が幸福であるのを改めて悟った。それと同時に、もう数日もしない内に、この集落にいられなくなるのだということを考え、如何ともし難い悲しみに襲われるのであった。



 メロスには竹馬の友があった。セリヌンティウスである。儀式のあったその夜、独り黄昏て月を眺めていると、セリヌンティウスが彼に声をかけて来た。意識が散漫であった彼は、突然の友の声に驚いたが、直ぐに立ち上がり、抱擁を交わした。

「急にどうしたのだ」

 メロスは尋ねた。するとセリヌンティウスは目を逸らし、惑うようにこう言った。

「私は君の友だ。永遠の友だ。それ故に君が勇敢なのも知っている。君は何の躊躇いもなく、村の為に死ぬだろうことが分かる。私はそれを誇りに思う。しかし、何度も言うが私は君の友なのだ」

「何故、そのような濁した言い方をするのだ。言いたいことがあるならはっきり言ってくれ。君も言う通り、私達は友だ。何を言うにも臆することなどないだろう」

「そうか。そうだな。それならば話そう。私は友を失うのが怖くなったのだ。恥ずかしい話だ。死を目の前にした君ですら平然としているのに。私は君に逃げてもらいたいと考えて、今、この場に来たのだ」

 メロスは如何ともし難い気分になった。友の言葉を情けなく思った。しかし、同じくらい友の気持ちも分かる様に思えた。私もまた、この男が私の様な境遇にさらされたのなら、同じことを申し出たかも知れぬ。

「メロス。私は実に複雑な気分だ。私は君に逃げて貰いたい反面、君の称えるべき勇敢を尊重したいとも思うのだ」

 それを聞いて、メロスは胸の奥に込み上げるものを感じた。セリヌンティウスが、天より授かりし何物にも変えられぬ友が、こんなにも自分のことで悩んでくれているのだ。これを喜ばずしていられるだろうか。私はセリヌンティウスを抱きとめた。

「そうか、そうか。私はそれで十分だ。ありがとう、我が友セリヌンティウス。君がいて本当に良かった。後は私の最期をしっかとその目に焼き付けてくれさえすれば良い。私はそれで満足だ」

「済まない、メロスよ。私は無力だ」

 メロスは悲しかった。友を失うことが悲しかった。そしてそれと同じくらい、友を失わせることが悲しかった。神などという実在するかも分からぬ存在を信じる己が、村人が、風習が、全てがメロスには悲しく映った。世の無情が、酷く重く身体へと圧し掛かるのを感じていた。



 どうにも寝苦しい夜であった。メロスは寝床から這出ると、夢遊病の者がする様に、フラリと外へと歩みでた。風の吹かぬ夜であった。昼には無い、むしむしとした静かな熱気に包まれながら、メロスは村中を練り歩いた。恐ろしく閑散としている。明かり一つない村の空気は、どこか妖しげであり、また、神聖なようでもあった。呼吸を止めた村では、確かな孤独だけがメロスに寄り添っていた。

 やがて、セリヌンティウスの家の辺りへ辿り着いた。不思議なことに、家の明かりが点いているようであった。セリヌンティウスは石工である。弟子にフィロストラトスがいる。彼と仕事の話でもしているのだろうと思った。何とはなしにメロスが近づくと、二人の男の話し声が聞こえた。一人はセリヌンティウスであった。一人はフィロストラトスではなかった。もう一人は、村長のディオニスであった。ディオニスは暴君と呼ばれていた。彼の圧制の為に、餓死する者も後を絶たなかった。ディオニスは処刑と称して、村の者を殺した。しかし刑に処された中で、本当に悪徳を持つ者は少なかった。突き詰めると、彼の気に食わぬ者達であったのだ。最近は、そのようなことも大分減り、落ち着いているのだが……しかし何故、そのような暴君がここにいるのか。メロスは困惑した。

「……ところでセリヌンティウスよ。今年の生贄はどうだった」

「は……どうだと申しますと」

「確かめたのだろう。メロスは逃げだしそうか」

「そのことでございますか。いえ、それはあり得ませぬ。メロスは正しきことであれば死すらも恐れぬ男でありますから」

「ふん、成る程、そうだろうな。今年の生贄に選んだのはそれが理由だからな。気に食わぬ男だ。愚直さ故に、愛だの正義だの人を信じるだのと世迷言を語る。そんなものはあり得ぬ。見ているだけで癪に障る」

 メロスは激怒した。必ず、この邪知暴虐の長を除かなければならぬと決意した。昨今、ディオニスの身勝手な処刑が減っていたのには、このような裏があったのか。メロスには信じられなかった。神の威を借りることで、我を世間に罷り通る形で貫こうとする者がいることを。このような邪悪が在ることを。決して赦してはおけぬ。メロスは単純な男であった。怒りもそのままにセリヌンティウスの家へのっしのっしと上がっていった。二人の男は驚いたようにこちらを見た。メロスの形相は鬼のようであり、それを見たディオニスの顔は蒼白であった。

「何をしに来た」

 長は静かに、けれども威厳を以って問い詰めた。

「愚問だ。村の為に生かしておけぬ」

 長は憫笑を漏らした。この男にはわしの孤独は分からぬ。

「人の心を疑うのは、最も恥ずべき悪徳だ。それどころか、気に食わぬという私欲に塗れた理由で、その芽を摘もうとするなど、極まった愚かさと言えよう」

「ふん。どうとでも言え。奇麗事など如何様にも吐き出せる。して、どうするつもりだ。わしを殺すつもりか。それも良いだろう。しかしそれは、お前の言う悪徳者のやっていることと同じだぞ」

 メロスは考えた。気に食わぬことではあるが、長の言うとおりである。今ここで、長の命を絶つことが正義であるとは言いがたい。

「村の者共にこのことを伝えよう。暴君ディオニスの真実だ。偉大なる神の名すら借りて人を殺す、どうしようもない悪徳者であると」

「面白い。やってみろ」

 長の嘲笑は、メロスの身体を巡る正義の血を焚き付けるのに十分であった。メロスの怒りは頂点に達した。今に見ていろ、貴様の失脚は目の前だ。そう思いながら、メロスは家を後にした。セリヌンティウスは俯き、最後まで何も話すことは無かった。


 メロスは村の者に昨晩の真実を語って回った。語気は荒く酷く興奮していた。村の者達はメロスの言葉に、最初こそ耳を傾けたが、下らぬホラの類と考えたのか、耳を貸さなくなっていった。メロスは引き下がらなかった。引き下がれなかった。あの長を必ず除くと決意したのだ。メロスは語ることをやめない。やがて、ある村人がこんなことを口にした。

「メロスは自分の命が惜しくなったに違いない。長は確かに悪徳に満ちている。しかし、それにしたって神を疑うなどとは……」

「疑うのではない。神は確かにおられるだろう。しかし、長は尊ぶべき神をも私欲の為に利用したのだ」

「神を利用しているのはお前の方ではないか、メロス。ここでお前を信じれば、村の力を結集し、長をここから追い出すことも可能だろう。処刑することにすらなるかも知れぬ。しかしだ。我々には、どうにもこのことを利用している様にしか見えぬのだ」

 そうだ、そうだ。これが火種になったらしく、村の者が怒鳴り始めた。石を投げる者すら現れた。メロスは恐ろしくなった。私は真実を語っているというのに、何故、誰も信じてくれないのか。

「そうだ、セリヌンティウス。君は昨日、あの場にいた筈だ。どのような理由で君が長に協力していたのかは分からない。フィロストラトスを人質に取られたか。理不尽な重税を強いられたか。何かで脅されたに違いない。しかしもう大丈夫だ。長はこの村からいなくなる。今ここで君が私の語ることが真実であると証明してくれれば良い」

 メロスはセリヌンティウスを見た。皆も怒鳴るのをやめ、セリヌンティウスを見た。彼は何も話さない。

「さあ。頼む。君だけが頼りなんだ」

 メロスは詰め寄った。セリヌンティウスは俯き、少しの間を置いて、重々しくこう言った。

「私は…………何も見ていない」

 ほら見ろと言わんばかりに、再び村人達は怒鳴り始めた。メロスは愕然とした。村人達の怒鳴り声も、最早、耳には届かなかった。

「すまない……メロス。しかし私は本当に君のことを友だと思っている。本当に心苦しいのだ……すまない……すまない……」

 もう、メロスには信じられるものが何もなかった。唯一絶対と信じてやまなかった友にすら裏切られてしまった。メロスの心は暗闇へと飲み込まれていった。

「矢張りな。人を信じて馬鹿を見るのは自分なのだ。そのことが良く分かっただろう」

 長の声が聞こえた気がした。本当にいるのかも知れないし、私の絶望が生み出した幻聴であったかもしれない。

「愚か者」

 長が言った。

「愚か者。愚か者。愚か者……」

 やめろ、やめてくれっ。メロスは声を振り払うようにして、激しい動作で立ち上がった。かと思うと、メロスは急に走り出した。

「待てっ。逃がすなっ」

 誰かが叫んだ。しかしメロスは村の誰よりも立派な脚を持っていた。ぐんぐんと村の者達を引き離し、メロスは走る。メロスには後ろを振り返る余裕などなかった。決してメロスは村人から逃げているわけではなかったのだ。もっと、恐ろしく、強大な……。

 やがて村を囲む森の中へと入っていった。周りには木や草が乱雑に生えるばかり。誰もいない暗闇の中を、メロスは走った。走った。どこまでも走った……。


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