長距離ランナーの葛藤(作:壱崎重樹)
マラソン選手の朝は早い。霜のおりた凍てつく早朝を、日が昇るまで走り続けるのが、メロスの日課である。選手になる以前から、朝方は毎日走っていたので、彼にとって長い習慣となっている。メロスには父も母もいない。生活費を稼ぐために、かつては新聞配達をしていた。のんきなメロスは、己の境遇に嘆くことなく、善人として生きていれば不足はなかった。同年代の人間が、市内の大学に通っていたが、特別思うことはなかった。そんな生活を送り、十八を迎えたころである。いつものように仕事をこなしている時、ジャージを着た大男に勧誘された。大学の陸上部顧問と名乗った男は、朝のうちに全ての新聞を配り終える、メロスの足に惚れこんだとのことだ。走ることが嫌いではなかったし、男の熱弁に感銘を受けたので、陸上部員になることを承諾した。メロスは単純な男なのである。
男の見込み通り、長距離ランナーの素質があったのだろう。雄々しく地上を駆ける姿は、見る者を魅了させた。スポーツ推薦として入学し、奨学金で生活を賄えるようになった彼は、思う存分に練習に打ち込むことができた。練習を重ねる事にメロスは着々と結果を残し、世間に名を馳せる大選手となったのだ。来週には、大会を控えている。メロスは俄然やる気に満ち溢れていた。
「おはよう、メロス」
立ち止り、息を整えている時、慣れ親しんだ声が聞こえた。声を掛けたのは、メロスの友人、セリヌンティウスだった。彼と知り合ってまだ月日は浅いが、互いを思いやる佳き友で、無二の友人である。メロスと同じ学校に通い、陸上部に所属する仲間である。
日課の走り込みを終えたあと、佳き友と佳き友は、学校へ向かう。歩いているうちにメロスは、まちの様子をあやしく思った。ひっそりしている。朝だというのに、人が少ない。店も開いていない。先ほど、この辺りをランニングしたが、日射し以外は変わらないような景色だった。かつては、商売人に声をよく掛けられたものだったが、やけに寂しい。
「セリヌンティウス、君は、市全体の景気をどう思う」
「まちは、もうお終いさ」
セリヌンティウスは、静かに答えた。
年々、市の情勢は衰えている。穀物は不作に陥り、流行病が蔓延し、まち全体が混乱している。今でこそ、市民は最低限の生活を送れているが、将来の保証はない。政治の分らぬメロスの目からでも、市の衰退ぶりは明らかであるほどである。市民の不安はこれだけではない。二年前に就任した、暴君・ディオニス市長である。その男は敏腕であるが、政策は市民の意に反していた。娯楽施設はすべて廃止し、規制を増やした。「わしは、おまえたちを信ずる事が出来ぬ。分かるか、私慾のかたまりの下賤の者たちよ」という発言は、市民なら誰もが知っている。メロスは、市長が市民を苦しめているのだと、確信していた。
「人の心を疑うのは、最も恥ずべき悪徳だ。私はあの市長が、まちの賑やかさを奪っていったように思うのだ」
「では、君は今の市長が許せないのだね」
「ああ、今すぐ殴りたいくらいだ」とメロスは吐き捨てた。
「例えば、君が今から、市長のいる館へ乗り込むとしよう。たちまち警史に捕まり、邪智暴虐の市長のことだ、刑に処されるかもしれない。そうなったら、市民はどんな命令も耐え忍ぶしかない」
「なら、どうすればいい。私がやっていることといえば、無能に体を動かしているだけだ。何もせず、国が滅びゆく様を、ただ見届けろというのか」
メロスは激怒した。堪らず、セリヌンティウスに掴みかかり、からだを大きく揺さぶり問い詰めた。
「いいや、メロス。それは違うよ。君の走る姿だ。見る人々に希望を与える。市民は不安を抱えているが、君の勇姿を、人々は心待ちにしている。メロス。君の正義感が、それを許せないのは分かる。だけど、自棄になってはいけない。自分の出来ることをやるんだ」
セリヌンティウスの言葉を聞き、メロスは我に返った。市民を案じる余り、関係のないセリヌンティウスに声を荒げてしまった。市を暴君の手から救うためならば、市長の前に現れよう。もちろん決死の覚悟だ。だが、メロスは一端の学生であり、マラソン選手である。友が言っているではないか。私には役割があると。私がやるべきことは、走ることだ。それで人々の救いになるのだったら、真っ当するべきなのだ。
「すまない。セリヌンティウス、君の言うとおりだ。私は愚か者だな」
メロスは申し訳なさそうに頭を下げた。珠に言いすぎることもあるが、素直になれる二人だからこそ、互いに信じあえるのだ。きっと、片方が囚われの身になったら、その時は全力で助け出すだろう。市長の疑う人の心も、確かにここにある。しかし、どうしてか、メロスの誠心を前にしても、セリヌンティウスは浮かない様子だった。
「メロス。君と私の仲だ。他に言うことはないか」
どうしたのだろう、セリヌンティウスは私を許していないというのか。「来週の大会のことか、一体どうしたと言うのだ」とメロスは狼狽した。セリヌンティウスの様子が、いつもと違う。佳き友は、答えず押し黙り込んだままである。
しばし沈黙が続くうち、校舎に辿り着いてしまった。
「では、また放課後に会おう。時間に遅れるのではないぞ、メロス」
別れ際では普段通り、私は、セリヌンティウスを困らせたことがあったか。先ほどの激昂は、迷惑をかけたが、私は謝った。心の底から、君に悪いことをしたと思った。いつもなら君は許してくれただろう。
いや、もしかしてセリヌンティウス。
君は、私の様子に気が付いているというのか。
数日が経ち、とうとう大会当日となった。前日までは悪天候が続いたが、晴れ上がった空は、辺りを爛々と照らしていた。今回は規模が大きい。周囲を見渡せば、覚えのある有名校の選手ばかりだ。国の景気は年々悪くなり、学校法人は無くなりつつある。選手層が厚い、有力な大学が残り、参加校が絞られているのだ。メロスの通う大学も、結果を残さなければ無くなってしまうだろう。
「メロス」
丹念に身体を伸ばしている最中に、慣れ親しんだ声が聞こえた。声を掛けたのは、セリヌンティウスである。声を掛けられるのは随分と久しかった。選手の待機場まで、わざわざ駆けつけてくれたのだろうか。それにしては、強面でメロスを見つめているようだった。
「君の一番きらいなものは、人を疑う事と、うそをつく事だ。そうであろう」
メロスは一瞬躊躇ったが「そうだ」と答えた。
「では、何故、私にうそをつくのだ。メロス、脚を怪我しているのだろう。ずっと、私に黙っていただろう。うそも、隠し事も同じだ。私は、君が打ち明けるまで待っていたのだぞ」
セリヌンティウスは叫んだ。泣いた。ここまで感情的になる、友の姿は初めて見た。
確かに、メロスは怪我を負っていた。ここ最近、過度に練習しすぎていたためだ。足首には、痛々しい痣が広がっている。サポーターで足首を覆い、誰にも見えないよう隠していた。だが、練習中でも、一緒に行動しているセリヌンティウスには、筒抜けだったらしい。
友を欺くなら、怪我のことを告げるべきだった。しかし、メロスはどうしても走らなければならなかったのだ。
「市を暴君の手から救うのだ」
「気が狂ったか。今からディオニス市長を殺めるつもりか」
「いいや。私は大会に出るぞ。私の走る姿を見れば、人々に希望を与えると言ったのは、君だったな。私では、市長に逆らう事さえ叶わないだろう。メロスは、この大舞台で颯爽と駆け抜けてみせる」
「馬鹿な。怪我を負っているのだぞ」
「市民がそれを待ち望んでいる。それだから、走るのだ。信じられているから走るのだ」
セリヌンティウスは困惑したものの、やがて首肯き、メロスは背を向け、コースへと歩き出した。二人の間に、言葉はもう必要なかった。自信を持って言える。セリヌンティウスは、私が誇れる最高の友だと。足の痛みも、今なら感じない。友が見ている。市長が見ている。市民が、みんなが見守っている。選手達は、ピストルの発砲音を合図に、一斉に駆け出した。
群衆のひとりが、勇者の背後に声援を送った。
「頑張れ、走れ、メロス!」