探偵メロス(作:風並将吾)
多くの人によって埋め尽くされる東京は神田。古本屋が建ち並ぶ古本街の中に紛れ込んでいる二階建てのビルの二階。その窓には、『探偵事務所』と張り紙がされていた。
事務所の中に電気はつけておらず、窓から差し込んでくる光のみ。客をもてなす為の椅子と机があり、その机を正面に据えた状態で事務机が一つ置かれていた。机の上には大量の資料が載せられていて、膨大な書きこみがされているおかげで黒ずんでいる。
中に居るのは二人。一人は小柄な少年で、肌は色白。紺色の帽子を被り、皺の一つもない白いシャツに黒いサスペンダー付きのズボンを着ている。右手にはボールペンを、左手には手帳を握っていて、その手帳はどうやら使い古されているようであった。少年の名前は直哉。この探偵事務所で助手を務めている。
少年――直哉は、事務所の扉に備え付けられた鈴の音が鳴ったのを聞いて、もう一人の人物に向けてこう言った。
「メロス先生、依頼人です」
「通せ」
お世辞にもスーツを着こなせていない青年。所々皺が出来てしまい、彼のがっしりとした体格には合っていないように見えた。歳は若い方であった。その性格と事件に対する姿勢より、直哉からは『メロス先生』と呼ばれていた。彼こそがこの探偵事務所の探偵である。
「こんちは……ここが探偵事務所で、合ってるんすよね」
顎が異様に長い青年が、二人に尋ねてくる。
「はい。その通りです。それで、お名前を聞いてもよろしいでしょうか」
依頼人を椅子に座らせた後、二人が聞いた内容というのは、次の通りだった。
依頼人の名前は小野田光平。二十歳。
依頼内容は人探しだった。数日前、彼の親友が突如失踪してしまった。友人の名前は佐々木啓介。発覚当日に小野田は失踪した本人より手紙を受け取っている。ただし、直接手渡しで受け取ったわけではなく、彼のちゃぶ台に置かれていたのだそうだ。そこに書かれていたのは、この一文だった。
「『僕はメロスになれなかった』、ですか」
「佐々木の奴昔っからよく本が好きで、たまに話してくれてたんすよ。俺はなかなか読めない方っすから」
そう語る小野田の表情は、心から楽しんでいるようなものだった。
「なんであろうと見つけるのだ。友に何も告げずに去るなど、許されるものではない」
友情に熱い男、メロス。直哉が彼のことを『メロス』と称する理由の一つであった。ただし、情に流され過ぎるのは探偵として如何なものかと、直哉は時折考えてしまうという。
「確か、走れメロスって……国王を倒そうとしたメロスが捕えられて、処刑される前に妹の結婚式を執り行いたいと言って、友人であるセリヌンティウスを処刑台に残していくんですよね。そして、友人の為に全力で走って、最終的に間に合って、国王も改心してめでたしめでたし、って感じのものでしたね」
直哉が『走れメロス』の内容について語るも、メロスには皆目見当がつかなかった。本と言うものを彼はほとんど読んだことがなかったからだ。
「だが、それが原因として、理由に繋がるとは到底思えぬ」
「確かに、『メロスになれなかった』なんて言ってる以上、『走れメロスのような状況下に置かれた』ということになるでしょうし」
メロスと直哉が疑問を持つのは当然の流れであった。わざわざこのような形で残したということは、少なくとも関連性が見出せなくてはならない。
小野田は少し考える素振りを見せた後で、
「心当たり……となるかは分からないんすけど、何と言いますか、こんな話ならあります」
そして小野田は、語り出した。
「アイツ、自営業で料理屋を開いているみたいなんすけど、最近上手くいってなかったみたいで……借金抱えちまったみたいなんすよ。そんで、金払えなくて困ってたみたいなんで、俺が保証人になって借りられるようにしたわけなんすけど……」
「友の為にそれほどのことが出来るとは」
この時、メロスは小野田の語る話を聞いて涙を浮かべていた。恐らく、友情話に涙していたのだろう。だが、直哉は違っていた。
「それってつまり……小野田さん、騙されたということですよね」
その瞬間、彼らの間に無言の時間が訪れる。
静寂な時間は、およそ数秒間流れた。
「そ、そんなわけないじゃないですか。アイツは約束だけは絶対に守る奴ですし、今回に限って裏切るなんて馬鹿な話は」
「あり得ない話ではありません。お金が動くとなると、人間は簡単に心が動いてしまいますからね。例えそれが信じていた相手だったとしても、です。現に、お金を借りた後に佐々木さんは失踪してしまっているじゃないですか」
悲しそうな表情を浮かべながら、直哉は語りかけるように言った。
この話を聞いて、
「佐々木という男は必ず捕まえなくてはならぬ」
メロスは激怒した。必ず、かの友情破壊男を捕えねばならぬと決意した。
「行くぞ。必ず見つけるのだ」
「しかし手がかりもないのにどうやって探すのですか」
「虱潰しに決まっているだろう」
メロスという男は、決断力こそ高いが、計画性に難ありであった。
「……とりあえず、よく佐々木さんが行きそうな場所ってありますか、小野田さん」
呆れた気持ちを隠せないまま、直哉は小野田に尋ねる。
小野田は少し考えた後、
「そういえばアイツ、いつも高尾山を登るのが趣味でしたね。ほら、この前俺も一緒に山登ったんすよ。何か行き詰ると、山登って気を落ちつかせるみたいで……」
そう呟いた後、小野田は黙り込んでしまった。メロスも直哉もまた、かける言葉が見つからず、ただ黙っているのみ。
「……アイツ、帰ってきます、よね。見つかるっすよね」
絞り出すような声で、小野田は呟く。
「信じるしかないだろう、必ず会えると。友を信じろ」
メロスの口から発せられたのは、不器用な慰めの言葉だった。だが、小野田には心配する気持ちが伝わったようで、
「ありがとう、ございます」
泣きながら、彼は礼の言葉を述べた。
「小野田さん、僕達と一緒に来てください。そして今すぐ佐々木さんにお会いしましょう」
「はい」
直哉の言葉に、小野田は力強く頷いた。
高尾山まで行く交通手段がなかったメロス達は、己の足だけで駆ける他なかった。故に彼らは、必死に先を急いでいた。
その時、突然、目の前に集団の黒いスーツの男達が躍り出た。
「待て」
「何をするのだ。私達は行かねばならぬ場所がある。通せ」
「そうはいかない。あり金を全部置いて行け」
「生憎あり合わせがない。それに、そんな暇などない」
「そこにいるのが連帯保証人なら、我々には連れて行く義務がある」
この男達は借金取りだった。小野田達を捕える為にここまで来たのだ。その目はとても鋭く、獲物を狩る獣のようだった。
「ど、どうしましょう、先生」
困惑する直哉を背に、メロスは一歩前へ歩み出た。
そして、男達を鋭く睨みつける。
「わけの分からぬことを言うな。邪魔だ」
「聞かないなら、その命をもらおう」
その言葉と共に、男達は勢いよくメロス達に襲いかかった。メロスはそれらを避け、近くの男を蹴り飛ばした。
「気の毒だが、正義の為だ」
そのまま他の男の鳩尾を殴り、更に襲いかかってくるもう一人の男を蹴り飛ばす。そしてあっという間に三人を片づけてしまった。
「凄いっすね……」
「何と言っても、メロス先生ですから」
感心する小野田に、何処か得意げに語る直哉。
やがて男達が全員倒れたのを見て、
「行くぞ」
メロスが二人に声をかける。直哉と小野田の二人は、駆け出したメロスの背中を追いかけていた。
彼の身体は既に限界に達していた。彼だけではない。直哉や小野田もまた、体力の限界をとうの昔に超えていた。
身体が疲れてしまうと、それに伴って精神も疲労してしまう。自然と、彼の脳裏にある言葉が思い浮かんできた。
『もう、よいのではないか』
依頼人の為に十分働いた。借金取りから身を挺して守った。自分は何のために走っている。別に今すぐ辿りつく必要もないではないか。ここまで頑張って来たのだ。神だって認めてくれるだろう。依頼人だって満足してくれるだろう。現に彼らは疲れているではないか。私も疲れているのだ。こんなことに何の意味があるというのだ。
「先生、しっかりしてください」
直哉の声がメロスの耳に届いた。その言葉はとても強く、メロスの心を打ち抜いた。
「先生はこんなところで挫けるような人じゃないはずです。僕が信じる先生は、決して折れたりはしないはずです」
直哉による激励。恐らく彼は、走るメロスの背中が段々と弱く見えていたのだろう。もしかしたら心が折れかけているのかもしれない。故にこのようなことをしたのだ。
メロスは目覚める。わずかながらの希望を抱く。そして、己の弱さを恥じ、足に力を込める。こんなことで挫けていては、メロスの名が廃ってしまう。私は『メロス』探偵だ。心の中で、彼はそう激励をし、そして全身にありったけの力を込めた。
走れる。まだ走れる。まだ、間に合う。
「すまない。私はどうかしていた」
直哉に対して、メロスはそう言葉をかける。
「いいんですよ、先生。そのための助手なんですから」
「悪くないな、こういうのも」
直哉の言葉に、メロスは照れ臭そうにしながら笑顔を見せた。
「二人共、大丈夫っすか。はやく行きますよ」
一刻も早く友人の元へ行きたい小野田は、いつの間にかメロスと直哉を追い抜いていた。ここまで彼の心が挫けなかったのは、見事であるとメロスは考えていた。
「分かっている。行くぞ」
三人は、勢いを殺す事なく、そのまま高尾山まで向かった。
山の頂上から下を見下ろす、一人の青年。その面持ちは何処か暗くて、まるですべてを諦めてしまっているかのようだった。だが、何処か申し訳なさそうな気持ちに押し潰されているようにも見られた。
「ごめん、ごめん……」
まるでうわ言のように彼は呟く。下を見るとそこは崖。運が悪ければそのまま命を落としてしまうかもしれない。それでも彼は足を止めようとしない。そして……。
「やめろ」
彼の思惑は、失敗に終わる。
「何をしようとした」
メロスは激怒していた。
走ってきたことにより息があがってしまっている彼らの目の前で、探していた人物――佐々木が今にも飛び降りようとしていた。
「佐々木、あの手紙はなんだ。お前は何がしたかったんだ」
肩を上下に動かしながら、小野田は尋ねる。
佐々木は、崖の方をジッと見つめたまま、答える。
「なぁ、待つ方と待たせる方って、どっちの方が辛いと思うか、君には分かるかい」
「い、いきなり何を」
「僕は断然、後者の方が辛かった。待つのは全然苦しくないんだ。君といつも待ち合わせしていても、僕は全然辛くない。けど、待たせるのはわけが違う」
その言葉を聞いて、直哉はハッとした表情を浮かべていた。この言葉で、すべてが繋がったのだ。
「そうか。『メロスになれなかった』というのは、間に合わなかったことを指してたんですね。借金取りに小野田さんを差し出して、佐々木さんは返済しようと頑張ったけど……」
「結局、無理だった。間に合わなかったんだ。だから僕は、自分の命を投げ出して、せめて最期に償いをしたかった。友と交わした約束を守れなかったから、責務だけでも……」
続きの言葉を佐々木は述べられなかった。何故なら、
「この大馬鹿者」
メロスが思い切り殴り飛ばしたからだ。
「せ、先生、何を」
「何が償いだ。何が責務だ。お前は友との友情を踏み躙り、壊そうとしていたのだぞ。こんな形で果たされても悲しむだけだ。それに、お前のそれはただの自己満足に過ぎない。仮初の友情で許されると本気で思っているのか」
佐々木の胸ぐらを掴み、乱暴に自分の元へ引き寄せて、メロスは更に言葉を繋げた。
「どっちが辛いかなんて決まっている筈がない。どっちも辛いし、辛くないのだ。本当に辛いのは、待たせておいて果たせなかったのと、待っていて裏切られることだ。それを忘れるな、愚か者」
低い声でメロスは言い放つ。その後佐々木を、小野田のいる方に強引に突き飛ばし、対面させる形にした。
「後はその者と話をしろ。それで己の犯した罪を理解するといい」
小野田達が何を話すのかを聞かぬまま、メロスはその場から立ち去ってしまう。
「あ、待ってください先生」
直哉もその後を、必死に追いかけていった。
「よかったんですか、二人が何を話すのかを聞かなくて」
事務所に戻った後、直哉はようやっとメロスに尋ねる。メロスはただ一言、これだけを言った。
「よいのだ。後は二人だけの問題だ」
メロスはすでに、自分が言うべきことを言った。もしかしたら、彼には二人がどうするか分かっていたのかもしれない。直哉はそう考え、そこで話を終えた。
その時、事務所の扉が開く。
「先生、依頼人です」
「通せ」
二人の事件は、まだまだ終わらない。