終幕 『意志』
痛みで、目が覚めた。
「……此処、は?」
声に出して身を起こそうとして再び痛みが頭部に走り、シャーロットは顔を顰めながらその部分に手を伸ばした。血は流れていないのを確認し、ふと周囲の薄暗さに眉を顰めると、彼方に淡い輝きを放つ大樹が目に留まった。
それを見て、シャーロットは此処がどこであるかを理解する。
「聖殿の地下――《霊樹の間》か」
部屋の奥でその数多に茂る葉から零れる微光は、大樹――精霊樹を通じてこの世界に溢れ出た魔素の光だ。そしてその木の根元に溢れる泉もまた、無数の光の粒子が湧き出るように漂っている。
このフィムルロードの領土全域に満ちる魔素の源泉。それがこの精霊樹の存在する聖域――此処はまさしく、シャーロットの知る精霊樹が座す聖地《霊樹の間》である。
「起きられましたか?」
声が掛かり、シャーロットは視線を持ち上げて彼女を見た。
アムリタ・リオルテ。
黒髪の騎士は涼やかな面持ちでシャーロットを見下ろしている。その背後に鈍重な機械の兵を従えて、普段の見慣れた微笑みは消え失せた静かな表情に対し、シャーロットは柳眉を吊り上げて立ち上がった。
「それは……なんのつもりだ? アムリタ」
「それ、とはどれのことを指しているのでしょうか? 私が擬神機を従えていることですか? それとも――」
と言葉を区切り、アムリタはすっと持ち上げた手で奥に佇むそれを指差した。
「あそこにある、精霊樹のことですか?」
「――どちらも、と答えよう。何故お前が擬神機を従えているかは、まあ熟考するまでもないだろうがな」
「私がル・ガルシェの密偵だということでしたら、それはまあ、確かに正解ですよ」
いけしゃあしゃあと、特に隠し立ててすることもなく答えるアムリタに、シャーロットは鼻で笑いながら投じる。
「お前はこの国の生まれだと思っていたが? それなのに、この国に牙を剥くというのか。私には理解できぬな」
一瞬、アムリタが押し黙る。しかし、それは国に反旗を翻す背徳のものではなく、まるであふれ出そうになる怒りを抑えるような沈黙。
一秒か。十秒か。一分か。あるいはそれ以上だったかもしれないし、実際はそれよりも短かったのかもしれない。
やがて、アムリタは小さく長い吐息を零した。内に渦巻いた感情のすべてを吐き出すようにして嘆息したのち、彼女はその口元に小さい笑みを浮かべた。
「では、こう言えばお分かりになりますか姫様。いえ――アウローラ王女」
瞬間、シャーロットの様子が一変する。先ほどまでの従者を糾弾する主の様子は完全に掻き消え、顔面は蒼白となり――思わず後ずさる。
どうしてその名を知っているのか。その名を知る者は、今となっては祖母――否、母であるディアメル以外有り得ないはずのその名を、どうしてこの自分の補佐官が知っている。
その疑問に答えるように、アムリタは笑いながら告げる。
「貴女が魔力を暴走させた結果が、歴史における災厄。その真実を知る者は王家だけではない――ということ。そして、その事実を忘れることなく、怨嗟を継承し続けた一族がいた。そういうことですよ」
「……なるほど、な」
辛うじてそれだけを口にすることはできたが、その胸中は恐慌が渦巻いていた。
怨恨――それの根強さは理解しているつもりではいた。だが、甘く見ていたことを今この瞬間実感する。
自分のしてきたすべてを覚えている。あの五〇年前の災厄――アウローラ・リム=ロード。それこそが自分の正体。忘れてはいない。忘れてはいけない、決して切り離すことのできない無慈悲で残酷な自分の過去だ。
奥歯が砕けんばかりに噛み締めるシャーロットを見て、アムリタはいつも見せる穏やかなものとは程遠い酷薄な微笑を浮かべながら告げる。
「そして貴女を殺すためならば、祖国などどうなろうと構わない。一族の末裔たる私の下した決断が、ル・ガルシェを国内へ運び込み、内側から壊す――実に簡単な方法です。私は貴女を殺し、ル・ガルシェはこの国を滅ぼし、魔素を搾取できる」
「そのためならば祖国など安い代償か」
シャーロト尾の言葉に、アムリタはにこりと笑い、かぶりを振った。
「代償などとはとんでもない。炉端の石ころ程度のものです」
国すら贄とするか。
「この……下種が」
「ならば、貴女は化け物だ」
心底から言葉を吐き出した。返ってきたのは、それを上回る怨嗟。同時に彼女の剣が閃く。
目は逸らさなかった。それが精一杯の抵抗だ。
白刃が振り下ろされるのを毅然と見上げ――そして、
「ですが――確かに王ですよ」
声と共に光閃が踊った。
アムリタが飛び退くと同時に、寸前まで彼女が立っていた場所を無数の光槍が穿ち貫いた。
シャーロットとアムリタの視線が槍の飛んできた彼方へと向けられると、同時に影がアムリタへと肉薄した。同時に弧を描く銀の軌跡。
アムリタは再び後方へ飛び退きながら剣を振るった。ガキィンという金属音が空間に木霊する中、黒髪の剣士は小さく舌打ちを漏らす。
「これは……予想外の珍客ですね?」
「予定では死んでいたのかな?」にやりと影――レイフォールは微笑する。対してアムリタは肩を竦めるに留めた。レイフォールも答えが利けるとは思っていないのだろう。こちらはアムリタと距離を測っている。
「彼のおかげで命拾いしましたよ。そうでなければ私も父たちと同じように、今頃挽肉になって屋敷の壁を彩る模様になっていたでしょうからね?」
「残念ですね。貴方には是非裏切り者になって貰おうと思っていたのですが」
冗談めかしにとんでもないことをさらりと告げるレイフォールに、アムリタはため息交じりに嘯いた。
両者が小さく笑いを漏らし――刹那、その姿が掻き消える。その様子を半ば呆然と見守るシャーロットの前で、二人はけたたましい剣撃音を立て続けに響かせた。
スイという常軌を逸しすぎた剣士がいたから最近忘れがちになっていたが、この二人もまた剣の腕では国でも随一と謳われる実力者だ。更に体内の魔力を操作して身体能力すら強化し、最早常人では視認することが不可能な領域の剣闘を繰り広げる。
一瞬にして閃いた斬撃の総数は八つ。剣閃に込めた魔力の余波が天井や壁、床に伝播し粉砕する。
――お前たちも十分化け物の域ではないか。
半ば呆れ。半ば賞賛の意を込めて胸中でぼやく。
最中、二人の剣士が鍔迫り合い、最早視線だけで相手を殺せるような眼光で互いを凝視し動きを止めた。
どちらかが気を抜いた瞬間、その一瞬の隙を狙って相手の首を跳ね飛ばしかねない殺気を迸らせる二人。
「解せませんね。どうして貴方ほどの人物があんな化け物に肩入れを?」
アムリタが問う。すると、問われたレイフォールはまるでその質問を小馬鹿にするように「はは」と笑い声を漏らし、そして言う。
「それこそ愚問、というものだ」
言いながら、レイフォールが動いた。競り合っていた手元を僅かに捻ってアムリタの剣をいなすと、そのまま横降りの一撃で頭を狙う。咄嗟にアムリタが身を反らして躱す。
――罠。
考えるより先に、シャーロットはそれを理解する。それと同瞬、レイフォールの口角が吊り上げり、反らした姿勢のアムリタの腹部目掛けて膝を叩き込んだ。
衝撃が突き抜ける。魔力を乗せた一撃が炸裂し、アムリタの身体が宙を舞った。咄嗟に自分の魔力でレイフォールの魔力を相殺したのだろうが、完全とまでいかなかったのだろう。アムリタは空中で体制を整え着地するが、その口元からは一筋、血が零れていた。
そんなアムリタに向け、レイフォールは告げる。
「自らが『王』と見定めた人です。そして、それに値する人です。だからシャーロット様に肩入れする――文句がありますか?」
「その『王』はかつてこの国に災いを齎した人物ですよ」
「知ったこっちゃありません」
アムリタのシャーロットに対する糾弾に、しかしてレイフォールは微笑を返した。同時に魔素が渦巻き、レイフォールとアムリタの間に無数の雷撃が駆け抜ける。
思わず飛び退くアムリタ。その彼女を見据えながら、レイフォールは断言する。
「貴女の言う五〇年前の災厄――アウローラ王女など、僕は知りません。僕の見定めた『王』はシャーロット・リム=ロードなので」
継続する魔術の雷が壁となる。その壁の向こうで柳眉を吊り上げるアムリタに恭しげに一礼したレイフォールは、そのまま踵を返してシャーロットの下へと向かい、そして膝をついた。
「知っている者は皆知っています。貴女が何者で、かつて何をしたのかも。そして貴女がこれまで、何を成してきたのかも――すべて含めて見てきました」
「……知って、いたのか」
辛うじて、それだけを口にできた。この男もまた、自分の過去を知っていたというのか。
いや、この男だけではない。今レイフォールは言った。「知っている者は皆知っている」と。一体、誰が?
しかしそれを訊くよりも先、レイフォールが視線を上げてシャーロットの背後を見――そして微笑み、
「ほら――来ましたよ」
そう言って、指差す方向。
「――何?」
振り返って――そして見る。そして驚愕に目を見開く。
レイフォールが指差した先。それはこの《霊樹の間》へ通じる門だ。今は開け放たれたままのその門の向こう。門を通じて雪崩れ込んでくるのは、シャーロットの見慣れた制服に身を包んだ一団。
「――《聖輝の剣》?」
シャーロットの指揮する《聖輝の剣》が、そこにはいた。数十人近い《聖輝の剣》のメンバー瞬く間にシャーロットの周りに布陣する。そしてその中の一人が駆け寄って敬礼一つし、
「残存していた《聖輝の剣》のうち半数は城下へ。三割は城内の鎮圧に。残りを引き連れ参上しました」
「ご苦労」
レイフォールが立ち上がって敬礼を返す。シャーロットはぽかんとした様子で口を開く。
「これは……一体?」
「スイの推察とディアメル様からの報告で大体のことは見当がついていたので。だから皆に真実を伝えました。貴女が過去に何をしたのかを――彼らはその上でこの場所に来ている。貴女の力になるために……という答えでよろしいかな?」
嘯くレイフォールの姿勢に、シャーロットは呆然としたままだった。そんな彼女に、レイフォールは諭すように言葉を紡いだ。
「皆、貴女がいつも矢面に立っていたのを見ている。皆、貴女が民のためにいつも奔走していた姿を知っている。貴女の背景にある過去。そして現代に目覚め、奔走する姿勢。その胸中に何を思っていたのか、想像するのは難くない。その行動のすべてが、その理由の根源が過去の行いに対する『贖罪』なのだとしても――私は貴女のその姿に、王としての姿を見た」
そっと、レイフォールはシャーロットに手を差し出す。
「だから私も、《聖輝の剣》も、今こうしてこの場に馳せ参じた――さあ、いつまでそうしているつもりですか? 姫様」
泣きそうになるのを堪えるのは本当に大変だとシャーロットは思う。喉から込み上げてくる衝動を何とか抑え込み、差し出される手に自分の手を乗せながら不敵にほほ笑む。
――ありがとう。
胸中でのみ礼を告げ、
「だからお前は嫌いだ」
口では真逆のことを言う。「承知してますよ」とレイフォールはにっと笑み、摑んだ手を引いてシャーロットを立たせた。
「――さて、準備は良いか、皆の者?」
毅然とした立ち姿に、レイフォールも、そして参じた《聖輝の剣》が嬉しそうに笑むのを見て、むずかゆいものを感じながらシャーロットは腰に帯びた鞘から刀を抜き放ち、雷雨の壁が掻き消えた彼方に立つアムリタを見た。
「ならば、あの反逆者を捕らえるとしよう。絶対に逃がすな!」
『御意!』
唱和が飛び、彼らが一斉に剣を抜き、槍を翳す。対峙するアムリタが無言で手を翳し、待機したままでいた擬神機が動き出す。
「私などを相手にしている暇があるのですかね。今頃城下は惨事になっていると思いますよ」
その発言に、シャーロットは無言でレイフォールを見た。すると彼は皆に見えるようにかぶりを振った。
「問題ないでしょう」
「それは何故?」とアムリタが訝しむように尋ねると、レイフォールは大仰に肩を竦めた。
「僕が此処にいて、彼はいない。それが答えですよ」
「なるほどな」
今度はシャーロットが肩を竦める番だった。逆に、アムリタは憐れむような視線を向けながら問うた。
「何を根拠にそう言えるのか、理解に苦しみますね。どれだけ強かろうと、所詮一人の人間に過ぎない彼が、ル・ガルシェの擬神機に勝てるとでも?」
「確かに、あの巨大な擬神機には驚きましたが……まあ、大丈夫でしょう?」
嘯くレイフォール。信じられない問いでもいう風に目を瞬かせるアムリタに、シャーロットはくつくつと笑いを漏らした。
馬鹿にされたと思ったのだろう。アムリタの顔が紅潮した。普通に考えれば、アムリタの考えの方がよほど正しいだろう。
スイがどれほど強くても所詮は魔術一つ使えない人間だ。魔術もなしに、人間が擬神機に勝つなど本来なら誰も考えない。荒唐無稽を絵に描いたようなものだろう。
しかしシャーロットも、そしてレイフォールも疑うことはない。彼が――クナギ・スイが擬神機如きに敗北を喫するなど、シャーロットは夢にも思わない。
何故なら、
「これは聞いた話ですが、五〇年前にも貴女言うのと同じような科白をいろんな人が口にしていたんじゃないですか? そして――そんな言葉を覆した英雄が存在したことも、貴女はご存じのはずだ。全霊はあるんです。だから二度あっても不思議じゃない。ましてやその英雄の血を引いているならなおのことです。そしてなにより彼は――」
まるで芝居の台詞を口にするように朗朗と語っていたレイフォールが、そこで言葉を切ってシャーロットへ視線を向ける。
頷きを返事に、シャーロットは笑みを浮かべてアムリタを見た。
彼が何故言葉を切ったのか。何故その先を自分に促すのか。シャーロットには分かった。
シャーロットにとって、スイが何であるか。それはきっといろいろな言葉があるだろう。しかしこの場面で必要な言葉はあれしか思い浮かばなかった。
かつて一度、スイに剣を渡したことをレイフォールが話題に挙げたことがある。あの時は怒りに任せて言わせなかったが、レイフォールが促したのは、きっとそのことについてだと、シャーロットは知っている。
王位を持つ者が剣を授ける――それはその者を騎士と定める所作である。
そうだ。彼は――
「――この私、《魔女の軍姫》の騎士なのだからな」
胸を張って宣言した。
地震が聞こえる。外で何が起きているのか、容易に想像はできた。
だが、不安はなかった。
思ったことはただ一つ。
――勝て、スイ。




