幕間
報告書の幾つかをそれぞれの部署のところへ持って行った帰り。廊下の角から姿を現したのは、いやに存在感がある割に、それと相反するほど気配の感じない――そんな人影だった。
「おや、貴方は」
「ん?」
レイフォールの出会ったのは、近衛騎士の服に身を包んだ白髪の少年――城内でも噂飛び交う剣士だった。
名は知らない。
そもそも彼の存在は殆んど秘匿とされている。知っているのは王城内でも極一部だけで、レイフォール自身その噂こそ耳にしてはいるが、その姿を遠目以外で見るのはこれが初めてだった。
足音もなく、気配もない。思わず角から姿を現した時、反射的に剣に手を掛けたほどだ。此処まで気配ない人影を賊と――それも腕の立つ刺客か何かと間違っても、正直自分に非はないとレイフォールは思う。
角から姿を現した白髪の少年が立ち止まり、訝しむように眉を顰めた――自分と同じように、腰の剣の鞘を左手で握りながら。
「誰だ?」
「これは失礼」レイフォールは笑みと共に剣に伸ばした手を解き、会釈一つ。
「私はレイフォール・メルフェイム。王国正規軍《聖輝の剣》の部隊長を務めている者。貴女の良く知るシャーロット様の部下であり、婚約者候補ですよ」
そう告げるとどういうことだろうか。彼は握っていた剣の鞘を手放すと、おもむろに量の手を合わせ、その手を胸元で構えて僅かに頭を下げた。
意味が分からずレイフォールが首を傾げていると、彼は小さく「……ご愁傷様」と呟いた。気のせいか、向けられる視線にも憐みに似た何かを感じる。
ますます意図を図り切れずにいるレイフォールに向け、彼は「なんでもない」とかぶりを振った。そして、
「……空凪彗だ」
そう短く名だけを名乗った。表情に変化はなく、まるで鉄面皮という言葉が似合いそうなほどの無表情である。表情だけでは感情の機微が見えず、また立ち居姿に隙がなかった。
――クナギ・スイ……随分と腕の立つようですね。
一見して彼の実力は未知数だが、レイフォールから見て彼の実力は自分よりかなり上だろうということだけは何となく理解できる。
想像の域でしかないが、恐らく自分が先ほど剣を抜いて切りかかったとしても、レイフォールのほうが逆に切り捨てられる――という情景が、容易に想像できてしまうほど、自分と彼との間には絶対的な開きがあると、レイフォールは推測した。
それにクナギという名には覚えがある。五〇年前の英雄、クナギ・ホウキと同じ姓を持つこの少年は、恐らく彼の伝説の存在と何らかの所縁があるものと見て間違いないだろう。
もし目の前の少年が、かつて実在した魔術の通じぬ災厄を剣一本で退けたほどの豪傑に連なるのだとすれば、それは確かに自分に勝機はない。
それでも何故だろうか。勝ち目がないと分かっていても、一度くらい剣を交えてみたいと思うのは武人としての性か……思わず腰の剣に手が伸びそうになった――その時である。
「そこ! 何をしておる!」
良く通る、鈴の音のような声が廊下に響いた。
少年が露骨に顰め面になり、それに続いてレイフォールは声のする方に視線を向け――拝礼する。
「これはこれは。今日は良くお会いしますね、シャーロット様」
「そうだな。おかげで私の気分は急下降気味だ、メルフェイム」
どういうわけか、この姫君は自分と顔を合わせると非常に機嫌が悪くなるようだ。理由は全く分からない。決して彼女の機嫌を損ねるようなことをした覚えはないのだが……まあ、最早相性が悪いのだろうと諦めるしかないのだろうと自分に言い聞かせ、レイフォールは淡く微笑んだ。
「それは申し訳ありませんでした、早々にこの場を去るとしましょう」
――きっと、これもまた彼女の機嫌を損ねるのだろうな。
予想を裏切らず、シャーロットの柳眉が吊り上った。
「ならば、そうしてくれると私はとても喜ばしいぞ、メルフェイム。早々に仕事へ戻れ」
なんとも辛辣な言葉だな、と胸中でぼやきながら、レイフォールはこうべを垂れて了解の意を示す。そして立ち上がりながら、スイと名乗った少年に向き直った。
「申し訳ないが、本日はこれで失礼することにします。また今度、お話でも」
「機会があればな……」と、返事は曖昧なものだった。だが、それでいいと思った。何故かは分からないが、この少年とはこういう間柄でいい。そんな感慨があった。
最後にもう一度シャーロットに拝礼し、レイフォールはその場を後にする。
後ろで地団駄を踏む気配があった。どういうわけだろうか、今日ばかりはそれを残念とは思わず、何故か失笑を覚えるほど愉快なものに、レイフォールには思えたのだった。




