その2
自分の執務室へ向かい大股に廊下を歩くシャーロットの対面から、一人の青年が向かってくるのが見え、少女は露骨に表情を歪める。
対して、青年のほうは絵のような微笑を受けばて低頭した。
「おや、おはようございます。シャーロット様」
レイフォール・メルフェイムは芝居がかった仕草で臣下の礼を取った。シャーロットはそれを半眼で見据え、小さく鼻を鳴らす。
「朝から忙しそうだな、メルフェイム」
「そんな他人行儀な……どうぞレイとお呼びください」
「断る。死んだ方がマシだ」
レイフォールの言葉を一刀両断し、シャーロットはその脇をすり抜けようとアムリタを無言で促し歩き出す。その途中で、青年は笑みを消してシャーロットを見ながら言った。
「それにしても、驚きましたよ。まさか彼に《ファーレスの魔剣》を授けるとは、正直想像もしていませんでした」
「……何か不満か?」
睨むようなシャーロットの視線を受け、レイフォールは「いえ、そういうわけでは」とかぶりを振った。
両者の視線が衝突する。シャーロットの剣呑な眼差しを前にしても、レイフォールはわずかとも臆することなく穏やかな表情のまま佇んでいる。そして、シャーロットは決してこの男に対して油断することはない。
これまでの実績や実力だけではない。この男は信用ならない――そう、シャーロットの中の何かが言っている。それはただの勘のようなものだが、シャーロットは自分の直感が知らせる警鐘を、これまで疑ったことはなかった。
故に、この男を前に油断はしない。そうシャーロットは決めている。
「それで……私を呼び止めていったい何がしたいのだ、貴様は」
「強いて言うならば、シャーロット様のご機嫌伺い、ですかね?」
いけしゃあしゃあと述べた男の言葉に、シャーロットは不快感を隠そうともせず言い放った。
「それは結構なことだ! おかげさまで、私の機嫌は今最悪の状態だ! これで気が済んだか?」
「ええ、十分に理解しました」
レイフォールは慇懃に一礼した。そういう透かした態度がシャーロットの癇に障るのだが、もし狙ってやっているのならば大したものだと思う。
最後に「それでは」と一言残し、レイフォールはその場を後にした。残されたシャーロットとアムリタはというと、歩き去る彼の背を見送り――やがてその姿が見えなくなった頃、シャーロットが肩を怒らせ地団駄を踏み出した。
「スイといい、あの男といい、どうして私の周りにいる連中はこうも私を怒らせるのが上手いのだろうな? まったく腹が立つ!」
「正直なところ、姫様の堪忍袋が短すぎるのもその要因の一つだと思いますが?」
アムリタの言に、シャーロットは暫し彼女を見つめ硬直する。そして、まるで何事もなかったかのようにかぶりを振ると、
「まあ、今はそのことを怒っていても詮ないことだ。さっさと書類仕事を終わらせるとしよう」
「此処暫く放置していたせいで、随分溜まっていますよ」
にこり、と現実を示唆するディアメルの言葉に、シャーロットは歩き出そうとした足を止めて、
「……やはり戻って演習でもするか」
「いいわけありませんよ、姫様」
回れ右しようとするシャーロットの襟首を、アムリタがむんずと鷲摑みにして引っ張った。
「さっさとあの紙切れに目を通して、次期君主としての職務を全うしましょう。我らが《魔女の軍姫》」
「分かったから引っ張るな! 自分の足で歩けるわ!」
という少女の訴えを無視し、黒髪の従者は主を問答無用で執務室へと連行するのだった。
◇◇◇
ディアメルにとって、書庫とは一種の聖域のような場所だといえる。
長い長い歴史の中で生まれてきた、様々な人間によってまったく異なる物語や理論文が本として紙に記され、それらは筆者が亡くなろうとも後世にその存在を存続し続ける。そしてそれらの書物を内封する場所が書庫と呼ぶのならば、そこは筆者たちの歴史を納める神聖な場所になる――と、ディアメルは思う。
王家専用のその書庫に足を踏み入れたディアメルが最初に見たのは、読書用に設置してある中央の長テーブルの上。そこに積み重ねられた無数の本の山だった。
はて? とディアメルは首を傾げた。
この書庫を使える人間は酷く限られており、そしてその利用者には悉くディアメル自ら厳命している。
読んだ本は本棚に戻せ、と。
まさかその厳命を守れない者がいるとは。ディアメルは思わずため息を漏らし、頭を抱えそうになった。
が、今はそんなことを言っても仕方がないと考えを改め、テーブルの上に積み重なった本を片付けようと歩み寄り――そしてそこにいる人物を見て、納得した。
「何処の大馬鹿者が片づけもできないのかと思い馳せていましたが――貴方でしたか、スイ」
そこには白髪の青年が椅子に背を預け、長い脚をテーブルに乗せたまま揺れていた。分厚い書物を手にしたまま、視線だけを本からディアメルへと向け、軽く会釈して見せた。
「どうも。お邪魔しています、ディアメル太后閣下」
「いいえ」とディアメルはかぶりを振る。そしてそのまま視線を彗からテーブルの上に積み上げられている本へと向けた。
ざっと見ただけでも、そのテーブルの上に積み重なった本の数は数十冊に上るだろう。まさかとは思うが、
「もしや……これらすべてに目を通したのですか?」
その質問に対し、彗は視線を本へ戻しながら首を縦に振った。
「まあ、適当に。どういうわけか、この世界の文字など知らないはずの俺にも読めるようなんでな。ざっと流し読みをしていた」
「それはまあ……勉強熱心なことですね」
「別に」ディアメルの言葉を彗は否定した。ぱらっ……と頁の捲れる音が深と静まりかえる書庫に小さく響く。
ディアメルは積み重なる本の山に目を向ける。そこに積み重なっているものは非常に無差別だ。
絵本、純文学、語学、地学、法律、軍事教本、果てには歴史に詩篇や伝記。そして魔道書……積み重なっている本の類に統一性はなかった。
本棚に並んでいる本を片っ端から読み漁り、読み終えた本を積み重ねたのだろう。読んでいる本人も、あれが読みたい――といった目的を持って読んでいるのではない。ただなんとなくで、この少年は本に目を通しているのだろう。
いや、それでもディアメルは気づいた。この書庫を管理しているディアメルであるからこそ気づけた。
彼の呼んでいる本は確かに無差別である。しかし、その多くが歴史のある一部分を中心にされていることに、ディアメルは気が付いたのだ。
「……ホウキのことを調べていたのですか?」
その問いに対し、無言――そして、彗の僅かな停滞が答えだった。やがて頁を捲っていた彗が、諦め半分の吐息を漏らす。
「探してはみたものの、ほとんどあの人に関する文献はなかった。歴史にその名が記されている形跡すらない。あるのはわずかな詩と、絵本程度。まるで夢物語の存在――伝えているのは人々の口伝だけ……その存在が歴史に残ることを拒んでいるような……そんな気がする」
少年の言葉に、ディアメルは静かに彼の言葉を肯定した。
「歴史上、異世界より訪れ、この国を救った英雄は何人もいます。しかし、そのどれもが歴史書に名を記されることはない――彼らのことを後世に伝えるのは彼らを讃えた詩と、その活躍を描いた少ない絵本物語のみ。それは建国当初からこの国の習わしなのだそうです。
――決して彼らの名を歴史に残すな。
そう、私は父より教えられました」
「……まあ、国主としてはなかったことにしたいだろう。自分の国を、何処の誰とも知らぬ人間に救われるなんて、恥もいいところだろうからな」
皮肉めいた彗の言葉に、ディアメルは全くその通りだと自虐的な笑みを零した。何ら深い意図があるわけでもない。これまでの歴史で、何度となく異界の英雄に国を救われていながらその名が歴史に記されていないのは、単に当時の王や重臣たちが、自分たちの至らなさを後世に知られたくなかっただけなのかもしれない。それこそ、役立たずの王と臣がいた、という事実を、彼らは単に隠したかっただけなのかもしれない。
そう思うと、ディアメルにしてみればそれほど可笑しいことはなかった。
その事実を隠蔽しようとする心こそ、最も恥ずべきものであろうに。そう、ディアメルは思う。
故に、ディアメルは可能な限り彼女のことを伝え残そうとした。
自分の子に、そして孫に、自分が友人と認め、英雄と信じ止まない彼女のことを話して聞かせたのは、そういう部分があったのかもしれない。
――ああ、そういえば。
ずっと昔。それこそホウキが現れた頃のこと。父たちは執拗にこう口にしていた。「彼女はこの国の歴史を壊す」と。
その言葉を思い出したディアメルは、興味なさげに本に目を走らせている彗へ訪ねた。
「――歴史とは、なんだと思いますか?」
少年は答えた。
「それもまた、人だろう。記すことができるのも、記されるべき存在を築くのも、人の所業だ。物であれ、人であれ……な」
「違うか?」と首を傾ぐ彗に、ディアメルは「いいえ、その通りです」と首を縦に振った。
そして思う。
父が記したかった歴史とは自らの偉業であり、自分たちの恥部は、一つとして残したくなかったのだろう。自分の記すべき偉大なる、輝かしい歴史を脅かす存在――それが異界より招かれる英雄。
即ち、歴史を壊す者。
なるほど、とディアメルは納得した。そして同時に、なんと愚かしい、とも思った。
千年続く美しき王国と謳われたフィムルロード。しかしその真実はなんとも浅はかな暗愚に彩られていることか。
自らの行いを執拗に隠し続け、この国を救った恩人に対してなんの行いもせず、それどころかその功績を歴史から抹消することに徹する――実に馬鹿馬鹿しい見栄だろう。
その見栄のために、過去の英雄たちは歴史に名を残すことがなかったのかと思うと、自分の中に流れる血脈は実に恥晒しで恥知らずな血筋だろうと笑えてくる。
ディアメルは目の前に座す少年を見た。
未だ彼は山積みになった本に目を通し続けている。しかし、どれほどその本を読み漁ろうと、彼の母に関する記述は自分の父祖たちの愚行により存在するわけがない。
ならば、自分のするべきことは決まっている。
「書物を調べたところで、あの人のことは何処にも記されてはいませんよ」
「だろうな……」
諦め半分と言った様子で、彼はため息交じりに本を閉じた。そして最早用はない、とでもいうように立ち上がろうとする彼に向け、ディアメルは微笑んだ。
「――ですから、私の知る限りのことでよろしければ、彼女のことをお教えしましょうか?」
その申し出に、少年は僅かに目を見開き、きょとんとした様子で目を瞬かせた後、ふっ……と口元を綻ばせて、
「では、ご教授願おうか? 太后閣下」
そう言って、再び席に腰かけた。
ディアメルは反対側の席に腰を下ろし、口を開き、
「では、彼女と出会った日のことから、お話ししましょうか」
そうして語りだしたのは、何の変哲もない、ディアメルの知る限りの――英雄であり、友人である女性、クナギ・ホウキの話だ。




