表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
言葉(仮)  作者: アヒル
言葉(仮)
8/9

七章 【恋愛】

 朝、深紅の態度は一変していた。昨日起きたことが全て嘘だったかのように、明るくて、楽しそうな笑顔を皆に振りまいていた。とても痛々しいくらいに、僕にはそんな深紅を見ていられなかった。学校に出掛けていく深紅に『いってらっしゃい、無理だけはするなよ』とだけ伝えて、僕も出来るだけいつもの日常を過ごすよう努めた。一分でも時間が空いてしまうと深紅のことを考えてしまう。そうした時間はとても辛いので、無理やりにでも他のことに集中している方が良いと思った。

 こんな日に限って、数学の問題がすらすら解ける。まったく、本当に意味の分からない教科だ。あっという間に解答用紙が埋まっていき、再び手が空いてしまい、ふと気付くと頭の中は深紅のことだらけ。

 辛い。胸が痛い。今すぐ深紅に会いたい。その小さな肩を抱きしめたい。その可愛い唇を僕の口で塞いでしまいたい。……深紅。とてもじゃないけど僕の心はそれほど持たないと思う。

 気付くと、僕は数学の教科書に彼女の名前を書き綴っていた。それも、何箇所も。そんな自分で書いた名前にすら愛おしさが溢れてくる。しばらくそれを眺めていると、急に恥ずかしさがこみ上げてきて、急いで消した。

 これは病気だ。今までで一番ひどい病気だ。一人でいてこれなんだから、深紅の傍にいたらどんなことを仕出かすか分かったものじゃない。人を好きになるってこういうことなのだろうか。ひょっとして僕だけがこんなに苦しい思いをしているのではないだろうか。そう思えて仕方が無かった。

 その日の深紅はいつもより早く帰ってきた。どうやらリハビリセンターに行かなかったみたいだ。夕食を囲んで僕らは普段通りの会話をした。好きなおかずの話。東京と長野の違いの話。今日読んだ文庫本の感想。それぞれの友達の話。

 話すネタが尽きると今度はテレビから話題を拾う。将来乗りたい車。好きなアーティスト。好きなタレント。好きな映画。半ば強引に続く会話。沈黙が訪れるのが怖いんだと思う。僕も、深紅も。

 きっとお互い、胸の中は違うことを考えている。そう思っているのは僕だけじゃないはずだ。爺ちゃん達が寝てしまってからもそれは続いた。

 ごめん、深紅。やっぱり、僕にはこんなの我慢できやしない。さっきから胸が張り裂けそうなんだ。

 腫れ物に触れるようにして、そっと話を切り出したのは僕だった。

『少し話がある』

 深紅は神妙な面持ちになり、静かにこくりと頷く。



 十月も残り僅かとなった。

 前はあんなに心待ちにしていた日曜の午後。僕は爺ちゃんと居間で将棋を指している。ここのところ憂鬱な雨ばかりだ。そして、雨が降る度毎朝寒くなってきている気がする。本当に憂鬱だ。僕はパチンと桂馬を動かした。

 深紅はというと、あの日から学校を休み続けている。本人曰く『風邪』ということらしいが、理由はきっと違うところにある。

 脚のことだ。雨の日は危ないということで、バイク通学の禁止が義務付けられている。要するに深紅は自転車で登校しなくてはならない。この雨の中をだ。それでも脚が動かないと言えば婆ちゃんが快く車で送ってくれるのだろうが、そうしないのはきっとそれは、僕のせいだろう。だから『風邪』なんだ。

「おい」

 えっ、となって爺ちゃんを見ると、僕が指した歩を顎で突付いている。ようく見て赤面した。あろうことか、初歩中の初歩のルールである『二歩』を指してしまっていたのだ。ごめん! と手を合わせると、静かに笑って頷いてくれた。僕が指した歩を取り除き、再び次の手を考える。

 あの日、居間で話したこと。それはもちろん僕らのことについてだった。

 出来ることなら文字ではなく、自分の声で伝えたかった。

『好きだ』

 それを見た深紅の表情はなんとも形容し難いものだった。深紅の答えを、クリスマスプレゼントを開ける子供のように僕は待っていた。答えは決まっているものだと、そう考えていた。それがどうだ、リボンを解いてみれば中には何も入っていなかった。そんなことは通常ありえない。空の箱を開けた子供はどんな気持ちで、どんなことを言うだろうか。たぶん、僕は同じことをした。

 そうして引き出した答え。『ありがとう』『とっても嬉しい』『ごめんなさい』。

 そんな答えで楽しみを奪われた子供が諦めるわけがない。更に食い下がって聞くと、彼女の本音が分かった。思った通り、いとこだということと、自分の脚が悪いことが理由であることを教えてくれたのだ。それを聞いて落胆はしなかったが、自分の身勝手さに呆れてしまい、結局諦めはしないものの出直すことにした。それから深紅は僕を避けるようになってしまった。僕はこの状況をどうすることもできず、いつも通り、くよくよ悩んでいるわけだ。まったく僕らしい。

 いとこ、という点については本人同士の気持ちの問題であることが大きい。確かに否定的な考えが一般的だろう。それでもお互いの気持ちが揺るがない、確かなものであれば、法的に認められている以上問題はないはずだ。

 問題は深紅の脚のことだが、僕は深紅の脚が動かなくたって一緒に生きていけるだけで幸せだ。ただし、前に僕が言った言葉が思わぬ足がかりとなってしまった。

『歩けなくなりかけている人と、歩けない人は違う』そう言った。それはそのまま僕に置き換えられる。

『歩けなくなりかけている人を好きな気持ちと、歩けない人を好きな気持ちは違う』そういうことになる。深紅の話によると歩けなくなった自分を見て、嫌いになられるのが怖い……。ということに至ったようだった。つまりは『歩けなくなった自分を見て、それでも好きでいてくれたなら……』ということなのだろう。

「深紅となにかあったのか」

 そう聞かれたのは、将棋盤の上にあったはずの僕の強固な陣が、いつの間にか爺ちゃんの駒達によって、ひっかき回されているときだった。たまに爺ちゃんと将棋を指しているが、基本しか知らない僕は勝った例がない。この一戦でも早くも負けが見えている。

『なにも』

「ほうか……」

 そう言った爺ちゃんは、僕の陣地で遠慮なく龍と成った飛車を自由自在に操って、逃げ惑う僕の王を追い掛け回している。そのとき僕は何を思ったか、深紅とのこれからを考え、爺ちゃんに対して布石を打つことにしたのだ。

『そういえば 爺ちゃんは婆ちゃんと どうやって付き合ったの?』

 爺ちゃんは、突拍子の無いことを聞いてきた僕を、片方の眉をつり上げた顔でじっと睨んできた。少しダイレクトすぎたか……。

『俺 母さんしかいなかったからさ そういう男同士の話聞いたことないんだよね』

 しばらく考えて、ひとつ咳払いをしてから、仕方なくといった感じで答えてくれた。

「おれが押した」

 少しこそばゆい感じが背中を走ったが、満足だった。思った通りの答えが聞けたからだ。婆ちゃんはとっても控えめで無口な性格だ。昔はいいとこのお嬢様だったと聞いた。爺ちゃんが押したということは、きっと親が反対したに違いない。それをどうやって乗り越えたのかが知りたかった。

『すんなりいった?』

「まぁ、それなりだな」

『それなりって何』

 パチリと金を防御に加える。

「うーん……。人と人が恋仲になるまでってのは、そらお前ぇ、色々あるだろうが」

『うまくいかなかったってこと?』

「そうだったら、お前ぇらは生まれとらん」

 うーん、と唸っている。僕への返答を考えているのか、将棋の手を考えているのか、どっちだろうと思った。一分くらい経った頃、爺ちゃんは龍ではなく、後方で控えていた角を前線へと動かした。

「あっちは箱入りだから親の言いなりでよぉ。ちょくちょく見合い話をされて困ってることをよく相談されてなぁ」

 僕はここだと思ってさっき動かした桂馬を突入させて金に成り、王手をかけた。

『どうやって押したのさ』

 僕の手を受けて、一瞬だけ驚いた顔をしたが、腕を組んで、ふん、と軽く鼻を鳴らした。

「お前ぇ、深紅に惚れとるんだろう」

 どきりと心臓が脈打った。

(くそっ、もうバレたか。もう少し話が聞きたかったのに……)

 最終的にはバレて欲しかったのだけど、まだ早すぎる。質問があからさますぎたのかと考え、爺ちゃんの質問にどう答えるか迷っていた。

 動けずにいる僕のことをじっと睨んでから、爺ちゃんは王を動かしてさっき成ったばかりの金から逃げた。

「反対はせん」

(えっ?)

「前にも言ったように、あいつの気持ちが一番良く分かるのは、今でもお前だと思っとる」

 僕はあっけに取られ、口を開けたまま爺ちゃんの次の言葉を待った。

「そのお前ぇが、家族としてにせよ、恋仲としてにせよ、傍にいるのが一番だろう。そこから先は当人同士の問題だと、おれは思ってるよ」

 『ほれ、次』と言われてからようやく僕は動き出した。慌てて盤面に目を落とす。たぶん、今僕は攻めに転じているはずだ。ここぞとばかりに手駒の香車で王の逃げ場を塞ぐ。

「あいつは良い子だ。おれや婆ちゃんにとっての宝物だよ」

『あんな良い子 他に探したって絶対いないよ』

「ばかもん」

 更に王を逃がしてから言った。

「お前ぇもだ」

(……。)

 不覚にも少し目が潤んでしまった。まったくあの件があってからというもの、本当に涙もろくなってしまった。全て深紅のせいだ。そう思いながら次に銀で王手をかける。すると爺ちゃんが不適な笑いを浮かべて僕に一瞥をくれた。

「ちなみによぉ、男が押すときは、絶対に逃げられないように押すんもんだ」

 あっ、となったが遅かった。パチリという音と共に、爺ちゃんの王は歩の隙間を縫って安全地帯まで逃げ込んでしまったのだ。次の策を講じてみるが、一手余裕ができた爺ちゃんはあっさりと僕の王を追い込んでしまった。

「もうひとつ、お前ぇが深紅に惚れとんのは、とおの昔に気付いてた。最初に気付いたのは婆ちゃんだがなっ、と」

 言い終わると同時に爺ちゃんは席を立った。

 ……完敗だ。



 とうとう何の進展も無く十月のカレンダーがめくれてしまった。

 時計の針が夜の十二時をまたぐ頃、窓から入り込んできた晩秋の夜風を全身で感じながら、いつものように机に向かって考えを巡らせていた。

 深紅に伝えていないこと、まだまだたくさんある。どれだけ僕にとって彼女が必要なのか、どれだけ恋焦がれ、どれだけ彼女を想うことに時間を費やしたか。どれだけ深紅の気持ちが嬉しかったか、そしてどれだけ今が辛くて苦しいか。こんな気持ちを抱えていたら、とてもじゃないけど脚が動かなくなるまでなんて耐えられない。

 彼女が僕のことを想ってくれている気持ちはいったいどのくらいなのだろうか、できれば僕と同じであって欲しい。エゴだろうがなんだっていい。彼女にどうしても僕と同じ気持ちを味わって欲しい。

(けど……)

 あのときの僕は浅はかだった。後悔に後悔を重ね、持ちきれないほど重くなったそれが今でも頭の中に居座っている。以前の僕ならベッドでふて寝しているところだが、今はどうにか爺ちゃんの援護のおかげで前を睨むことができる。

 『好きだ』そう伝えることが出来たのは紛れも無い事実。そして、断られたのも紛れも無い事実だ。そうなったのはたぶん、僕が僕自身のことしか考えていなかったからだろう。あの告白はただひたすら彼女を求めた結果が生んだものだ。僕はもう少し大人にならなければいけない。深紅の不安をきれいに拭い去ってやれるくらいじゃないと。いとこ同士という垣根や脚の病気のこと全部含めてだ。

 部屋の中に強い風が吹き込んできて寒さに肌が震えた。窓を閉めると途端にカーテンがおとなしくなる。そんな光景を見てふと思い出す。たくさんの深紅との思い出は、いつも風に吹かれて動き出す。

 秋の風は色々な表情を持っていた。夏の終わりと共に吹く風は、まだゆるやかで、生暖かく、暑い夏を乗り越えたことを褒めてくれているような感じだった。中旬になると毎日違う風が吹いてくる。心に安らぎを与えてくれる、さわやかで心地よい風。木の葉と土の匂いを運んでくる切ない風。油断するなと戒めてくれる冷たい風。そして丁度今頃吹く風は、凍える冬に向けての準備を促しているような、遠慮の無いとても冷たい風。厳しい時期は一人よりも二人の方が楽に乗り越えられるぞと、そう僕に教えてくれているように感じる風だった。

(分かってるよ……)



 翌日、僕は深紅をデートに誘うことにした。

 風邪と言って三日間休んでから、深紅は学校を休みがちになっていった。週三回くらい行けばいい方だ。学校を休んだ日は一日中部屋から出てこない。部屋の中で深紅が塞ぎこんでいることは、食事を運んでいる婆ちゃんの表情を見れば分かる。リハビリもあれから一度も行っていないそうだ。いいかげん、日に日に弱っていく彼女と同じ家に住んでいて、まだ何もしていない自分に嫌気が差した。そうして決断するに至ったのだ。

 婆ちゃんがクリームシチューとパンをトレイに乗せたときに、『俺が持っていくよ』と書かれた紙を見せると、喜んで了承してくれた。爺ちゃんの話によれば婆ちゃんも僕の深紅に対する気持ちに気付いているはずだ。そう考えると少し恥ずかしさがこみ上げてきて顔が赤くなってしまった。

 ノックをすると、久しぶりに綺麗で透き通った声で「はぁい」と聞こえた。久しぶりというのは、話す相手が僕になると、いつも浮かない声になってしまうからだ。きっと相手が婆ちゃんだと思っているのだろう。不謹慎だが、なんだか無性に楽しくなってくる。好きな子にいたずらを仕掛けて驚かしてやろうという子供の気分に近い。あれ、よく考えればそのものじゃないか。

 期待感を膨らませて扉を開けると、ベッドに腰掛けて文庫本を読んでいる深紅が見えた。こんなに無防備な彼女を見るのはどれくらいぶりだろうか。

 部屋には、男性二人と女性で構成された、アメリカのフォークグループの曲が流れていた。曲名は忘れたが、確かドラゴンと少年の物語を唄った曲だ。昔アニメーション付きの映像が教育番組で良く流れていたのを覚えている。とてもやさしいメロディの中に、少しだけ悲しさを感じさせる素敵な曲だ。

 深紅はそのメロディに合わせて足をぱたぱたさせている。なんていうか、ものすごく可愛い。どこか誰も来ない場所に飾って、一日中眺めていたい。それが叶わないのなら、もういっそのこと、このまま押し倒してしまいたい。

 そんな犯罪まがいな事を考えてしばらく見つめていると、読んでいた文庫本を閉じたところで深紅と目が合った。案の定、驚いた表情で瞼をぱちぱちさせている。僕は黙ってトレイをテーブルに乗せてやり、その下に折り曲げた紙を差し込んだ。そのまま出て行こうとすると、背後から例の浮かない声で呼び止められた。

「美月……、ありがとう」

 振り向いた先の深紅は、もじもじしていて更に可愛いかった。上機嫌になった僕は、親指を立ててニヤリとした表情を見せてやり。勢いよく部屋を出た。

 紙にはこう書いた。

『深紅へ 明日学校休んでデートしよう! 十一時になったら居間に集合ね! 残念ながら雨天の場合は中止です。 晴れることを祈りましょう! 美月』

 明るい口調で書かれているのは、二時間みっちりと悩んだ結果だ。特に『デートしよう』と『遊びにに行こう』のどちらにするかだけで一時間近く悩んだ。気持ち悪がられていないだろうか……、引いてないだろうか……。とても心配だ。

 居間に戻ると、頭の中に深紅の無防備な姿と、最後に見た恥らう姿が交互にやってきた。もうそれだけでキュンとなってしまう。とても深紅の食器を引き下げになど行けないので、忘れたふりをして夕食後はそそくさと風呂に入ってしまう。明日は一世一代の大勝負だ。別にいやらしいことをするわけではないが、体の隅々まで念入りに洗う。ふと我に返り、なんだか前と比べてどんどん自分が馬鹿になっていく気がしたが、別にそんなことどうでもよかった。深紅のためならえんやこら。そんな気分だった。

 早々にベッドに入り、目覚ましを六時にセットする。明日は大忙しだ。深紅のいる方向に顔を向けて、再び胸をキュンとさせながら眠りについた。

『……ヴ、ヴヴヴ、ヴヴヴ、ヴヴヴ』

 枕元の携帯を手に取り、六時であることを確認する。何故音を消していたかというと、隣の部屋の深紅を起こさないためだ。バイブなんかで起きれるか不安だったけど、今からすることは絶対に見られてはならないのだ。

(よぉーし、やるぞぉー)



 来てくれるかという不安はまったく無かった。むしろ、予定時刻よりどれくらい早く来るかを予想して楽しんでいたくらいだ。現に十時を少し過ぎたばかりだというのに、しっかり出掛ける準備をした深紅がこうして目の前にいるのだ。どうしてそんなに自信があったのか、ということではない。無理に押し付けたこととはいえ、深紅は約束を破るような人間ではないと知っているからだ。

『おはよう! 深紅の祈りが通じたよ!』

 少し自分でも無理があると思う図太さを見せてから、外を指差してみせる。雲ひとつない快晴、とは言いがたいが晴れていることに間違いない。天気予報によると、降水確率は午前10%、午後20%、夜20%とのことだ。上等とは言えないが、こんな勝負どころでその20%を引くようじゃ、この先良い人生は待っていないというもの。振り返って深紅の顔を見ると、サッと顔を逸らすのが見えた。

 今日の深紅は中に薄いピンク色のハイネックに白いダッフルコート、下は茶色のミニスカートだ。おまけに黒いニーハイまで履いている。もう、この姿が見れただけで今朝の早起きが報われた。

 少し予定よりも早いけど、僕は出掛けることにした。さっそく僕は深紅に手を差し伸べる。深紅はしばらく何か言いたそうな顔で僕を見ていたが、僕がまったく動じないのを見てか、諦めておずおずと手を掴んできた。引っ張りあげてやると、よろよろと一人で玄関まで行ってしまった。

 なんだかとても不思議な気分だ。今はまったく恥ずかしさがこみ上げてこない。それどころか、気持ち良いくらいに深紅への愛おしさでいっぱいだ。イタリア人の霊でも乗り移っているのだろうか。

(どうせ三つも年下なんだ。格好つけたって鯛焼き野郎にかないっこない。なら、出し惜しみせず深紅への思いを投げつけるだけだ。それだけなら絶対誰にも負けない自信がある!)

 僕はあの日のトレンチを羽織り、丸々と太った自前の黒いリュックを手に持った。そのまま玄関でもぞもぞ動いている深紅を追い越して先に外へ出た。それから、用意しておいたママチャリのかごにリュックを入れて玄関に横付ける。『キッ』というブレーキ音に気付いて深紅が座ったままこっちを見た。すかさず、今朝のうちに小さいクッションを縛り付けておいた後ろの荷台をぽんぽんと叩いてみせる。

 さすが深紅だ、首をかしげてぽけーっとしている顔も絵になっている。もう一度、ちょっと強めにぽんぽんと叩いてやると、ゆっくり立ち上がって近づいてきた。

「あの、これ、乗っていいの?」

(もちろん)

 深紅が座るのを確認してから一枚の紙を渡した。深紅はそれを無言で受け取る。

『今日はデートに付き合ってくれてありがとう。折角のデートだけど、いとこからの一生に一度のお願いを聞いてください。それは、今日一日遠慮しないで思いっきり甘えると約束すること!』

「え? これどういう……わっ」

 読み終えたみたいなのでママチャリを発進させた。はずみで深紅は僕に抱きついてきた。狙い通りだ。僕のお腹に回された深紅の手が、さっき渡した手紙を持っていたので、サッと奪い取ってポケットにしまう。こんな恥ずかしい物、何度も見られたくない。

「美月ー、どこにいくのー」

 砂利道のせいで、深紅の声が震えて聞こえる。答えるわけにはいかないので顔をぶんぶんと横に振った。自転車だと会話が出来ないのが残念だが、かえって余計な詮索をされないで済む。我ながら良い選択だ。深紅を自転車の後ろに乗せて走っているだけなのに、ただ腰に手をまわされているだけなのに、それだけで僕の気持ちが彼女に流れ込んでいる気がして、ひどく充実した気持ちになっていた。

 深紅が乗っているぶんスローペースなので十五分もかかってしまった。予定より早く出たのは正解だったかもしれない。僕は以前スーパーへ買い物に来たときに見つけた輸入小物雑貨店で自転車を止めた。

 二人で降りて店の前に立つと、お店は丁度開いたところらしく、緑色のお洒落なエプロン姿の女性店員が箒で店内を掃いていた。店内に顔だけ入れて目配せしてみると、女性店員が気持ちの良い声で挨拶をしてくれた。どうやら中に入っても良いようだ。僕は女性店員に笑顔でお辞儀をして、三段だけある入り口の階段で転ばないように深紅をエスコートして招き入れた。

 店内はほんのりとローズマリーのお香が焚かれており、照明が落とされて薄暗い雰囲気になっている。あまりこういう類の店には来たことが無いのだが、この雰囲気は輸入小物のことがよく分からない僕でも楽しみな気分にさせてくれる。こんな小洒落た店がどうしてこんな田舎の駅前にあるのか不思議だったが、前に女子高生らしき二人組みが中で楽しそうに騒いでいるのを見たので、少なからず需要はあるのだろう。

 訳も分からず入り口に立ちすくんでいる深紅に向かって手招きをする。深紅には悪いが、買う物は既に決めてあった。パワーストーンやウッドネックレスの棚を通り抜けた先に指輪のコーナーがある。そこに連れて行き、手のひらで『どうぞご覧ください』といった感じの仕草をしてやる。並べられている指輪に気付いた深紅は、熱い物に触ってビックリしたときように、両手を胸の位置まで引っ込めた。

「……えっ?」

 さすがに仕草だけでは選ぼうとしてくれないので、ポケットに入れてあったメモ用紙に言葉を書き込んで見せてやる。

『好きなの選んでいいよ 買ってあげる』

「そんな、なんで?」

『初デートの記念』

 深紅は嬉しい顔、ではなく、残念ながら少し困った顔になってしまった。

『甘えてくれるって約束だろ いーからいーから』

 読み終えた深紅の背中をポンと叩いて促すと、不服な顔のままではあるが、ようやく指輪に目をやってくれた。深紅は、上体をかがめると、垂れ下がってしまう髪の毛を片側だけ指で押さえながら選んでいる。思わず顔がにやけてしまう仕草だ。そんな彼女の前にもう一度メモを見せる。

『少し選んでて 俺ちょっと他見てる』

「え、ちょっと……あっ」

 颯爽とお店の外に飛び出した。僕はそのまま四軒隣の小さな書店に入って、取り寄せを頼んだときに渡された紙を店員に見せた。奥に入って行った店員をしばらく待っていると、やがて彼はA4サイズくらいの大きな本を持ってきた。「お間違えありませんか?」という質問に、題名を確認してからこくりと頷く。会計を済ませリュックに入れようとしたが、少し無理があったので雑貨店に戻ってから自転車のかごにそれを入れた。

 店内に戻ると深紅はまだ選んでいた。僕の足音に気付いて振り向くと、すぐに拗ねた表情に変わって僕に目で何かを訴えている。手を合わせて謝ると、深紅はぷいっとそっぽを向いてから、なんとか指輪選びに戻ってくれた。ほっと一安心した僕は店員のお姉さんがにこにことこちらを見ている事に気付き、体中がくすぐったくなった。なんだかこういう場面を見ると、本当に恋人同士みたいだ。

 しばらく余韻にひたりながら深紅を待っていると、やがて二つの指輪を手に取って悩み始めた。手元を見ると、中央がゆるやかなV字型にくねったシルバーの指輪と、控えめな大きさの石がはめ込まれた指輪で迷っていることが分かった。僕はスッと片方の指輪を指差して教えてやる。それが深紅に似合っていることを。

 一目で分かった。中央にはめ込まれている石は、六年ぶりに再会したときに深紅が着ていたチュニックの色と同じ、深い藍色だ。本当に彼女にぴったりの色だ。

 深紅はV字型のシルバーを指輪ケースに戻すと、その藍色の石の指輪をやさしい目で見つめた。と思ったら急におろおろしだした。どうしたのかと不思議に思ったが、少し考えると彼女が何に動揺しているのかすぐに分かった。それを察して今度は深紅の右手の薬指を指差してやる。彼女がどんな顔をしたのかは分からない。さすがに今僕が真っ赤になっているのが分かるので、顔を逸らしてしまったのだ。

「どお……かな?」

 その声に振り向くと、深紅の薬指にぴったりはまった深い藍色が目に映って、言葉を失う。きっとこの店のこの指輪はずっと深紅のことを待っていたに違いない。本当にそう思った。巡り会えてからあっさり深紅と一つになれた指輪に嫉妬すら感じた。その気持ちを、さっそく深紅に伝えてやる。

『悔しいくらいに似合ってるよ 本当に』

 彼女は頬を赤くして素直に喜んでくれた。

「ありがとう。美月」

 店を出た僕たちは再び自転車に乗って、次の目的地に向かった。もう深紅は何も聞いてこない。観念したように頭を僕の背中にあてている。

(ありがとう)

 それは僕の台詞だよ、深紅。



 背中に深紅のぬくもりを感じながらのんびり自転車をこいだ。終わる間際の秋の陽気を全身で楽しみながら。ふと遠くで学校のチャイムが聞こえた。丁度良い時間だ。

 ゆっくりとブレーキをかけた。着いた場所は小さな川原だ。深紅との思い出の場所。通ってきた道で気付いたのか、それとも半ば予想していたのか、彼女の顔は驚いていなかった。折角前とは違う道順で来たのに、ちょっぴり残念だ。右手でリュックと本を持って、左手を深紅の腰にあてると、彼女も僕の肩に手をまわした。転ばないように一歩ずつ、しっかりと地面を踏んで、安全を確かめてやりながら先導する。

 ようやく辿り着いた深紅の場所。そこは三ヶ月前の青々しくて爽やかだった面影は既に失われていた。狐色に支配されたその風景はとても寒く感じる。きっと深紅は僕よりもっと寒く感じているに違いない。少し心配になって聞いてみる。

『寒いか?』

 深紅はいつから僕の真似をするようになったのだろう。まるで喋れないかのように、彼女は首をゆっくり横に振った。相変わらず、やさしい笑顔は崩さないままだが、揺れているすすきの穂を背景にした彼女は、見ているととても寂しい気持ちになる。やはり、辛い冬の訪れを感じてしまっているのだろうか。

 深紅をここへ連れてきたのは悲しい思いをさせるためではない、僕の気持ちを感じて、少しでも元気になってもらうためだ。僕はリュックからスケッチブックを取り出した。深紅が持っている物とは違う表紙のやつだ。おとといの内に文房具屋で買っておいた。何故わざわざ買ったかというと、ここのところ深紅に話しかけづらくて最後のスケッチブックを使い切った後は、婆ちゃんに貰ったメモ用紙で会話をしていたからだ。そして、今日の僕にはこれが必要なのだ。

 これから僕がすることを考えると足がすくむ。一世一代の大勝負、とは本当によく言ったもんだ。おそらく、後にも先にもこれほどまでに恥ずかしいことなどありはしない。でも、今日やらなきゃ深紅と僕の未来は消えてしまう。そう無理やり自分に言い聞かせて崖から勢いよく飛び降りた。

『俺が肩を叩くまで後ろを向いてて』

 しかし、今日の深紅はいつもの二倍は動きが遅い。顔を傾げて僕を見ているだけで、一向に後ろを向いてくれない。僕が急かすように人差し指と親指で『クルッ、クルッ』という動きを見せてやって、ようやく後ろを向いてくれた。

 深紅が完全に後ろを向いたのを確認して、僕は行動に移った。リュックから取り出したビニール袋、その中から一枚の紙を取り出して見つめる。

(頼む、届いてくれ)

 僕はもう一度強く決心し、その紙から手を離す。するとその紙はひらひらと舞い踊りながら落ちていき、やがて静かに地面に着地した。それを見送ると、次々と袋の中にたくさん詰まっているそれを、掴んでは上に投げ、掴んでは上に投げを繰り返した。散らばっていく紙の数に呼応するかのよう、僕の心臓が脈打つ回数を増やしていく。大丈夫、きっと届くはずだ。そう心に何度も言い聞かせながら最後まで気持ちを込めて紙を撒き散らした。

(終わった……)

 空になったビニール袋を縛ってリュックに戻し、もう一度じっくり辺りを見回した。自分の作り出した光景に満足した僕は、そっと深紅の肩を二回叩いてやる。

 ピクっと反応して、恐る恐る深紅が振り向いた。

「……」

 口は『あっ』と言っているが、声は出ていない。そのまま顔を動かして辺りを見回していく。

「すごい……」

 そのとても小さな第一声を聞いて、僕は心底ホッとした。

 辺り一面に咲き乱れるコスモスの花。赤、黄、青、ピンク、オレンジ、白、紫。少し大げさな色に塗られた手作りのコスモスは、辺りを包む秋色に溶け込んで、不思議な世界を創り出していた。

 僕はそのコスモス畑の中央にビニールシートを広げ、呆然と立ち尽くす彼女をそこへ座らせた。すると彼女は一枚のコスモスを手に取って眺め始めた。右手に淡く輝く藍色の指輪、その指先にはピンク色のコスモス。

(まだだ、まだ僕の気持ちは伝えきれていない)

 続けて僕はリュックの中に手を入れた。目的の物を掴んだとき、隣から鼻をすする音が聞こえた。慌てて振り向くと、そこには、瞳から流れ出ている雫を拭おうともせず、ただ手に持ったコスモスを見つめ続けている深紅がいた。

「もういいよ……美月……」

 深紅は顔を上げてからもう一度言った。

「お願い……もう、止めて」

 胸が音を立てて軋んだ。片手をリュックに入れた間抜けな格好のまま、体が震えて動かなくなる。途端に頭に血が上ってくるのを感じた。

 深紅の言葉が理解出来ないわけじゃない。いや、むしろ今深紅がどんな気持ちなのか手に取るように分かる。そうじゃなくて、どんなことを言われようが、どんなに引かれようが、最後までやり遂げると決めたのに、こんな簡単に挫けそうな自分に苛立ちを覚えていたのだ。

「痛いよ……美月の、気持ちは……嬉しい、けど、痛いの……」

 声が漏れるのを堪えて泣いている彼女は、まるで大事な物を無くしてしまって親に必死で謝る少女のようだった。

 硬直している体を奮い立たせて、深紅の方に向き直る。

『届いたんだね 俺の痛み』

 読み終えた深紅は小さくこくんと頷いてくれた。

 深紅の口から『痛い』と聞けた。その瞬間、本当の意味で僕と深紅が繋がったんだと思った。それなら僕は続けられる。

『俺にも届いてるよ 深紅の痛み』

 届いてる。届いてるんだ。だから、だから涙が止まらないんだろ? 書いているそばからスケッチブックを滲ませているのは、僕の涙じゃない、深紅の涙なんだろ?

『覚えてる? 最初は深紅だよ』

『次は俺だった』

『そして今はお互いに届いてる』

『こうなったら もう無理だよ』

『我慢できっこない』

『そうだろ?』

(そうだよな? これ以上待てないよな?)

『もう一度だけ言うね』

 静かにスケッチブックをたたんでから、静かに、大きく息を吸い込んで深紅の顔のある場所を見つめた。


――「好きだ、深紅!」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ