六章 【絶望】
「あとで部屋に来て」
僕に目を合わせずに彼女がそう言ったのは、静かな夕食の後だった。
玄関でのやり取りの後、彼女は半ば這うようにして居間に入り、窓の下の腰掛に座った。そこで脚を深紅専用の遠赤外線ヒーターで充分に温めてから、手すりだらけの壁を伝って手を洗いに行った。
この家は三年前に改装して、今の建築基準に合ったバリアフリーみたいになっているが、普通ならそれは爺ちゃんや婆ちゃんの足が悪くなったときのためのものだろう。こんな、こんな悲しい使われ方をするためのものなんかじゃない。それからほとんど会話も無しに夕食が終わり、風呂から上がってきた深紅がそう言い残して部屋に戻っていったのだ。
風呂に入っている間中、深紅の言葉が頭から離れず、気が気ではなかった。何の話をするのだろう。無理やり抱きかかえてしまったことを怒っているのだろうか、いや、怒るにしたって、いちいち部屋に呼び出してまでする話ではない。とするとやっぱり……。きっと脚のことだ。『歩けるうちは頑張って歩く』そう言ったのは紛れもない深紅本人だ。でも、今日のあれはとても歩ける状態ではなかった。彼女はこれからいったいどうするつもりなのだろう……。僕はいくら考えても答えの出ない問題にイライラして湯船に顔を沈めた。
深紅の部屋に向かう前に一度自室へ戻り、頭を充分に落ち着かせてから、スケッチブックを手にとって部屋を出た。
「入って……」
ノックの音に反応した深紅の声は、いつもより低く別人のようだった。けれど相変わらずよく通っているため、扉越しでもはっきりと聞こえた。
気分とは不思議なものだ。いつもは明るいメープルの扉も、今の僕の目にはダークブラウンに映っている。ドアノブに手をかけ、戸を開けると微かに聞こえる程度の音量で洋楽が流れていた。深紅のように低く透き通った女性シンガーの声。母が大好きでよく聴いていたのを思い出す。確か三十二歳という若さで悲惨な最期を迎え、その悲劇から映画も作られたらしい。今流れている曲は英語に疎い僕にでも何て歌っているのかよく分かる。きっと世界中の人々に向けて歌ったのだろう。とても簡単な英語。今の雰囲気とミスマッチなとても明るいメロディが余計に悲しい気持ちにさせる。
ベッドに腰掛けている深紅にはいつもの凛とした感じはなく、なんというか、切羽詰っているような、深刻そうでいて、突付いたら破裂してしまいそうな危うさを感じさせる、そういう顔だった。
いつか来る、そう思ってた。深紅の人生にとって、とても重要な意味を持つ時。それが今なのだと、直感でそう感じた。
僕はテーブルではなく、深紅の足元にあぐらをかいて座った。きっとそうした方が良いと思ったからだ。
「わざわざ来てもらっちゃって、悪いね」
ほんの少しだけ笑顔を作り、首を横に振ってやる。
曲が終わり、重苦しい沈黙が部屋を支配する。深紅は何かを喋ろうとして口を開くが、音にはならず、そのまま深いため息をついた。さっきとはうって変わって、ゆったりとしたバラードが流れ始めたとき、僕の方から話しかけた。
『焦らないで ゆっくりでいいよ』
意表をつかれたのか、少し驚いた顔になってからうつむいて「うん」と小さく頷いた。彼女は目を閉じて深呼吸して、僕に視線を合わせる。
「去年はね、冬がきて、動かなくなったの。でも……今年は秋」
言い終わる頃にはまたうつむいてしまっていた。
「ちゃんと、リハビリしてるのに、このままだと、来年はどうなるのかなぁ」
『ちゃんと歩ける』
「うん。分かってる……。でも、再来年は? その次の年は?」
深紅はそう言った後、とても悲しい目をして、自分の脚をやさしく擦り始めた。
「分かってるのに……もう、とっくの昔に分かりきってたのになぁ」
やっぱりそうだ、深紅は前に『大丈夫』と言っていたが、そんなのは単なる強がりでしかなかったんだ。僕に心配を掛けないため、自分を無理やり元気付けるため……。僕がそうだったように、今、彼女の心の奥は他のことでいっぱいのはずだ。
――なら僕に出来ることは……。
『分かるわけないよ』
「えっ?」
僕は急いで続きを書いた。
『歩けなくなりかけている人と 歩けない人は違うよ 去年の深紅と今年の深紅の気持ちが違うみたいに』
「そんな……なんで……」
深紅はきょとんとした表情で、なんで慰めてくれないのか、と言いたそうな顔で僕を見つめる。僕はそうなるのが分かってて書いたんだ。更に続ける。
『だから 分かるはず無い もちろん 俺にも歩けない人の気持ちを分かってあげることなんて出来ない』
「……酷いよ……美月なら、美月ならって、思ったのに……」
失望したような声に、心がズキリと痛んだ。それでも僕は続ける。
『どうして? 歩けない人の気持ちが分からなくちゃ駄目なのか?』
読み終えると、震えながら深紅は言った。
「出てって……」
相変わらず僕を睨んでいる。憎しみすら感じる目だ。でも、これだけは最後まで伝えなくちゃいけない。僕は意を決して言葉を刻み込む。
『深紅は 母さんが目の前でバラバラになった 俺の気持ちが分かるのか?』
ハッとなって、彼女の顔はみるみる青ざめていく。
『分かるわけないよな』
『でもずっと傍にいてくれた 俺はそんな深紅に救われたんだ』
『あのとき どうして傍にいてくれたんだ?』
(……くそっ、スケッチブックが終わってしまった!)
真っ青になった深紅を尻目に、勝手に机の一番下の引き出しから新品のスケッチブックを取り出して書きなぐった。
『ずっと俺の傍にいた深紅なら分かるはずだ』
『本当に分かるのはひとつだけだろ』
「やめて……」
深紅の悲痛な哀願が聞こえたが、止めるわけにはいかない。
『それだけは俺も痛いほど分かってやれる』
「もうやめてよ!」
酷く怯えた子猫が、敵わないと分かっている相手に向かって威嚇するときのように、深紅は気力を絞って僕を睨みつけた。
(最後の一言だ。我慢してくれ深紅……)
僕は深紅の鎖を解いてやるため、出すことの出来ない声を、ありったけの気持ちを込めて文字に変えた。
『怖いよな』
彼女はそれを見た瞬間、肩がピクンと跳ねたのが分かった。そして、下を向き、膝の上の小さなこぶしが小刻みに震えだした。
きっと今、深紅は自分の心と戦っている。いつもそうだった。心と頭は別のことを同時に考える。優先すべきなのはどちらなのか、それがどうしても分からない。だから第三者に委ねるんだ。どんなに強い人間だって、背中を押されないと決められないことがあるんだ。
「…………い……よ……」
ぽたっ、ぽたっと雫が深紅の膝に滴っている。次の瞬間、その映像がいきなり大きく歪んだ。
(あ……れ……?)
どうして、僕も。泣いているんだろう。胸がズキズキする。……違う、そんなことどうだっていい、まだやることが残ってる。
僕は震えている深紅の手を強引に引っ張って、ベッドから引きずり降ろす。二人とも膝立ちの状態になって向かい合う。そして、やさしく深紅を包み込んでやった。
「怖いよ……」
深く小さく頷くと、深紅も僕の背中にそっと手を回した。
「こ……わい……。こわっ……いのぉ……」
胸の中を支配しているだろう黒くてどろどろした感情を吐き出すと。今度は涙がぼろぼろ出てくる。僕も痛い程知っている。たぶん、弱い部分を吐き出すことと、涙を流すことは二つ合わさって効力を発揮するものなのだろう。きっと今、深紅の心の中のどろどろは、少しだけ涙と一緒に流れているはずだ。そう信じて、深紅の頭を撫で続けてやる。
――今度は僕の番だから……。
深紅のとても悲しい泣き声に混じって、おもちゃの鉄琴のイントロが聴こえた。耳を傾けていると、どうやら虹のことを歌っているようだ。さっきと違い、歌詞の内容は理解できないが、とても深紅の泣き声にぴったりの曲だった。
それを聴いて、僕が何故泣いているのか、なんとなく分かった気がした。
アルバムの全ての曲が再生され尽くして音が鳴り止んだ頃、深紅も目もとに残った最後の雫を拭って、深い深い、深呼吸をした。それから彼女の願いで電気を消して、今僕らはベッドに寄り添って座っている。
きっと、明かりを消したのは、初めて僕の前で大泣きしてしまったことの恥ずかしさを紛らわすためと、赤く腫れ上がった目を隠すためだろう。暗闇の中、深紅が頭を僕の肩にコツンとぶつけてきたので、そっと肩を抱きかかえてやった。いつもの甘く切ない桜の香りが胸を突く。
「そっか……、こんな感じだったのね……」
はっきりとは分からないが、少しだけ微笑んだ気がする。
「美月って本当に大人ね。それとも、私が子供なのかなぁ」
首を横に振って見せた。それから深紅はしばらく黙ってしまい、どこか一点を見つめている。何かを考えているのだろうか。さっきと同じように口を開いては思いとどまり、ため息をついている。だけどさっきとは何か違う感じ。今は、艶やかでとても色っぽく見える。そんな深紅の姿を意識して見てしまったのがいけなかった。
ふと、今僕が置かれている状況を客観的に見てしまう。
――好きな女性が、腕の中で、切ない表情で、ため息をついている。
そんな言葉が頭の中をぐるぐるとまわり始め、今まで聞こえなかった心臓の音が、急に大音量で響き渡ってくる。
『どっくん、どっくん、どっくん、どっくん』
まずい、これではさすがに深紅に聞こえてしまう……。こんなに静かで、こんなに身体を密着させているのだから……。
さっき勝手に止まってしまったアルバムが、ものすごく恨めしく思えた。静寂の中、僕の心臓の音に気付いていないか気になって深紅の様子をこっそり窺う。
(っ!)
途端に全身が硬直して金縛りにあってしまう。心臓だけが動いている世界。空気さえも止まってしまったのだろうか、うまく息が出来ない……。いや、止めているのは僕の意思だ。
どうしてか、それは深紅が僕の顔をじっと見ているからだ。
全てを見透かすような、潤んだ茶色い瞳で、僕と目が合ってからも逸らすことなく、ただひたすら見つめてくる。彼女は何故そうするのか、僕に何を求めているのだろうか、もしかして……。そんなはずはない、そんなことがあるわけない、でも。
(駄目だ、思考がうまく回らない)
身体が勝手に、彼女の瞳に吸い込まれていきそうになる……。
「……あのね?」
僕は、足元の脅威に驚いたときの猫のように飛び跳ねた。それと一緒になって深紅も跳ねて驚く。一瞬の沈黙の後、僕らは目を見合わせて、どっと笑いあった。深紅なんて、うっすら涙すら浮かべている。僕の方も、あんなに張り詰めていた心臓が、笑い合うことによって、少しずつ開放されていくのを感じていた。
しばらく笑い続けた。笑い終わっても目が合うとまた笑ってしまう。どれくらいそうしていたのか分からないが、ようやく落ち着いて、涙を拭った深紅が口を開いた。
「あのね」
僕も涙を拭ってから頷いた。
「前に、しのざきって人に話しかけられたでしょ」
過剰反応しないようにしてコクリと頷く。
「あの人が謝ってたことって、実は美月のことと関係があるの」
(え?)
「しかもね、それが原因で別れたんだぁ」
(ちょっと待った、どういうことだ? さっぱり分からない。だってあの時初めて奴と会ったんだぞ?)
スケッチブックに手を伸ばそうにも、深紅の肩から手を解くことなんて出来ない。それに暗くてスケッチブックがどこにあるか分からない。そもそも書いたってこの暗さじゃ……。そのとき、あるひとつの考えが過ぎった。
(もしかして、電気を消したのは……)
「ほら、美月がこっちに来てから、私、ずっと付き添ってたでしょ?」
(……。)
「彼にね、何度もデートに誘われてたの。でもね、私は一度も行かなかった」
(そんな、それじゃあ、僕のせい……なのか……?)
目を丸くして驚いている僕に気付いて、彼女はやさしく言った。
「ううん、美月のせいなんかじゃない。私のせい……」
首をだらんと下に曲げ、髪の毛で顔が隠れてしまった。今彼女は落ち込んでいるのだろうか。だとすればいったい何に……。
「ずっと誘いを断ってたら、いつかね、言われたの……。そいつ、本当は病気だなんて嘘なんじゃないのか、お前のことが好きで、一緒に居たくて引き止めてるんじゃないのかって……」
どくん、と心臓が大きく鳴った。
「私、気付いたら彼のこと叩いてた」
(どうしよう。僕はなんて男だ……)
卑怯な手で別れさせてしまった後ろめたさがどっと押し寄せてきて、僕は全身の力が抜けていくのを感じた。それに彼女は顔を上げて反論する。
「もう! 美月のせいじゃないって言ってるでしょ、お願い、最後まで聞いて……」
それだけ言って、また顔を伏せて黙ってしまう。深紅は何を怒っているのだろうか。
「あのね、その後……ね。彼は怒って言ったの。なんだよ、お前もそいつのことが好きなのかよ、って……」
(は……?)
「私ね、そのとき、気付いちゃった……。だからね、美月、その、だから……。美月のせいじゃないの……」
(え……? ええええええっ!)
世界がひっくり返った。驚いて僕はどうしたら良いのか分からなくなり、とりあえず深紅の顔を覗き込んだ。すると彼女はいつものあの仕草をしていた。
待ってくれ。まだ僕は全然理解できていない。ここは喜ぶところなのか? その……、深紅は僕のことが好きということなのか? 誰か教えてくれ。僕はこの後どんな顔をすれば良いんだ?
この心臓の破れそうな沈黙に耐えられなくなり、立ち上がってスケッチブックを探す。
「駄目」
振り向くと深紅はまた首を下に垂らしていた。
「答えなくていいの、電気は点けないで、今日はここで終わり」
(でも……)
「お願い……」
やっぱりそうだ、深紅はこの話をしようと考えたから、電気を消させたんだ。僕に答えさせないために……。
いくら待っても深紅は下を向いたままなので、僕は彼女の言う通りにして部屋を後にした。
部屋に戻ってひどく後悔した。戻ってくるべきじゃなかった。あのまま、強引にでも自分の気持ちを伝えておくべきだった。きっと深紅は迷っている。いとこ、それも三つも年下の僕とそうなってはいけないと、そう思っているに違いない。……でも。深紅は最初から答えを聞くつもりが無かった、それはつまり最初から恋を成就させようという気が無かったからじゃないのか。くそっ、分からない。僕にどうしろってんだ。
冷たい布団に潜り込むと、彼女の気持ちが余計に閉ざされていく気がして、とても辛くて切ない気持ちになった。さっきまでこの腕の中に深紅がいたなんて、到底思えないほどに。
ふと、彼女の部屋の方に目を向ける。この壁の向こうで、深紅は今何を考えているのだろうか。どうしてそうしたか分からないけど、僕は布団から手だけを出して、深紅が寝ている方向に伸ばしていた。