五章 【克服】
あれから数日。いつの間にかカレンダーの写真が紅葉した山の風景に変わっていた。
うまく食事が喉を通らない。部屋の外へ出る気がしない。あの頃と同じだ……。『――逆戻り』そう考えたくはないが、どう考えてもやっぱり同じだった。
ひとつだけ違うところ。話しかけてくれる人も、部屋に食事を運んでくれる人も、悲しくて辛いときに助けてくれるのも、全部深紅だった。
夏休みが終わってから、彼女は一度だけ学校に行った。僕の身を案じてのことだろう。次の日から一日中僕の面倒を見てくれた。もちろん爺ちゃんと婆ちゃんは反対したと思う。何もわざわざ深紅が学校を休まなくても、爺ちゃんに仕事を任せて、婆ちゃんが傍にいてくれれば済むのだから。けれど彼女はこうして僕の傍にいる。なんと言って爺ちゃん達を説得したのだろうか。
ちなみに、僕の傍、といっても彼女は自分の部屋で絵本を描いたり、文庫本を読んだりしているだけ。
何故彼女がそんなふうにしているかというと、全ては僕のわがままのせいだ。毎日付きっ切りで面倒を見てくれる彼女に、僕からそう頼んだからだ。
『できれば 家の中で好きに過ごしていて欲しい どうしようもないときは きちんと言うから 大丈夫 前みたいなことは絶対にしない』
それを見た深紅は、散々僕に注意を促してから、しぶしぶと自分の部屋に帰っていった。
ずっと自分の部屋で考えて、駄目になりそうになって、深紅の部屋の戸を叩く。それが今の僕の生活。
「お母様が亡くなったのは、美月のせいなんかじゃない。あれは事故だったのよ」
僕が悩んでいることを打ち明けた夜、彼女は知っていることを全て教えてくれた。
話によると、母はたまに三軒隣のビルの屋上でタバコを吸っているとのことだった。客の前でタバコを吸わないことにしている母は、いつもなら店の裏で吸うのだけど、嫌なことがあったときや、憂鬱な気分のときは、きまってそのビルまでわざわざ足を伸ばしてタバコを吸いに行くらしい。
その日もタバコ休憩の時間にそこへ行った。いつものように柵に寄りかかると、運悪く腐っていた柵の根元が折れ、体勢を崩したところ、雪に足をとられ、落ちた。警察から説明されたのだから間違いない。ということだった。
それは分かった。直接の原因は僕との口論ではない事。でも、嫌なことがあったからその場所へ行ったはずだ。その原因はきっと僕にあるんじゃないか。そして、母は僕のことを恨んでいるのではないだろうか……。
いつもそうだった。そんなことを考えていると、外でたくさんの鈴虫が耳をつんざくような悲鳴をあげる。そうしてまた深紅の部屋の戸を叩く。延々とその繰り返し。
無情にもどんどん秋が深まっていき、水分を含んだ冷たい風が吹き始めた長野は、早くも冬の訪れを感じさせていた。部屋に届けられる食事に収穫したばかりのみずみずしい巨峰が添えられているようになった頃、その日はやってきた。
いつものように半分以上残してしまった食事を深紅が下げに来たときだった。「少し良いかな」といってテーブルを挟んで僕の正面に腰を下ろす。相変わらずぺたんと座る彼女を見ると少し寂しい気持ちになる。
「あのね、美月」
テーブルに両ひじをつき、指を組み合わせ、その上に顎をのせた彼女は、僕の残した食事をじっと見つめながら話を続けた。きっと怒られるのだと思った。
「私のお母さん、私と喧嘩して出て行っちゃったの」
(えっ……?)
「お母さん、好きな人が出来たって。その人が九州に行くことになったから、その人と三人で暮らさないかって言われたわ……。会ったこともない人とよ? 私は絶対に嫌だった。お母さんやお父さん、それにお爺ちゃん達とずっと一緒に暮らしてきた思い出いっぱいのこの家を、お母さんの都合で離れるのはどうしても嫌だったのよ」
目線を落としたまま、彼女は深いため息をついた。
「私が言うことを聞かないから、いつも口喧嘩ばっかりしてた。いつかね……、言っちゃったの。『好きな男のことで私を振り回すのは止めてよ。そんなに男が大事なら勝手に一人で出ていってよ。お母さんなんて大っ嫌い』って」
深紅は淡々とした口調で母への暴言を話していたが、きっと実際は大声で怒鳴ったに違いない。けれど、僕には彼女の口が母を罵倒している場面が、どうしても想像できなかった。
「お母さんがいなくなったのは、それから三日後だった……。お母さんが出て行ったのはきっと私のせいだ、もう私のことなんて好きじゃないんだって、しばらくの間ずっとそう考えていたわ……」
(それじゃあ……、それじゃあ僕と同じじゃないか……)
「でも一ヶ月もしない間にお母さんから電話がきたの。最初になんて言ったと思う? お母さんはね、私に『ごめんなさい』って言ってた。それから『あなたのこと大好きよ』って、そう言うの」
(…………。)
「だからね。だから……。きっと美月のお母様も、美月のこと大好きだと思う。母親って、そういうものなんだと思う。どんなことをされたって、子供のことを恨んだりする母親なんていないのよ」
深紅の話を聞き終えると。必然と僕と母が口論しているあの場面が思い浮かんだ。でもそれだけじゃなかった。次々に胸から浮上してくる僕と母のあらゆる場面。
保育園児のとき、母の迎えが遅くてスネてしまい、家に帰りたくないと言ってきかなかった僕に、母はオロオロと困った顔で何度も謝ってくれた。ようやく帰ることを了承した僕は帰り道もずっと黙ったままで、母さんはそんな僕を喜ばせようと、臨時に商店街の総菜屋さんで大好きなコロッケを買ってくれたな。ようやく笑顔になった僕に、母はとびきりの笑顔を見せてくれた。
小学生のとき、万引きをしてしまった僕は、母に何度も頬を叩かれて泣いていた。でも、叩いた母の方が僕よりもぼろぼろに泣いていた。真っ赤に膨れ上がった頬よりも、ずっと胸の方が痛かった。あのときの母の顔、たぶん一生忘れないと思う。
去年、全国一斉学力テストの結果が、国語だけまぐれで学年一番だったとき、母は本当に喜んでくれて、結果の書かれた紙を店に飾ってお客さんに毎日自慢していた。恥ずかしいから止めろって言った僕に、母は『これは母さんの宝物なの。どうしようが母さんの勝手でしょ』と言ってその紙を胸に抱きしめ、満面の笑みを浮かべていた。
母は、母は生まれてから何度も、本当に何度も僕に言ってくれた。
『大好きよ』って。
僕は馬鹿だ。本当に大馬鹿者だ。今まで目を背けていたんだ。母の愛に……。あんなに深い愛を与えてもらいながら、僕はなにひとつ返していない……。
(ごめんね母さん。僕のことを恨んでるだなんて疑って本当にごめん。僕も大好きだよ。もう会えないのは辛いけど、これからは前を見て一生懸命生きていくよ。母さんの子供に生まれて本当によかった。ありがとう母さん。)
ふと、母が小さい僕をきつく抱きしめながら泣いている光景が頭に浮かんだ。軽トラックの真下を奇跡的に無傷で通り抜けたときの光景だ。買い物の途中で迷子になった僕は、道路の向かい側に母を見つけ、脇目も振らず飛び出してしまい、道路の真ん中で転んでしまった。その上を軽トラックが通過して……。気付いたら息苦しいくらいに抱きしめられていた。苦しいって言っても、ずっと離してくれなくて、結局そのせいで大泣きしてしまったな。今ならあのときの母さんの気持ち、痛いくらいに良く分かるよ。
(だからもうそんなに泣かないで、僕が代わってあげるからさ。)
こんなに気持ちの良い涙は久しぶりだ。きっと今僕は、泣きたくて泣いているんだ。相変わらず胸は高鳴っているけど、その部分はとても暖かくて、雪を溶かす春の太陽みたいだ。
正面でずっと僕のことを見守っていてくれた深紅に微笑んで頷いてみせると、静かに涙を流していた彼女は、小さく声を漏らしながら泣き始めた。
(言わなくちゃ。深紅に、伝えてあげなくちゃ。)
今まで本当に長かった。僕が壊れそうになったときも、寂しくて震えているときも、ずっと傍にいてくれた。たくさんの場面を振り返りながら、彼女に宛てて思いを綴る。
『もう大丈夫 きちんとお別れできた 深紅がいてくれたからだ 本当に ありがとう』
時の流れは早いもので、この家に来てから三ヶ月が過ぎようとしていた。
最近はとうとう朝の気温が十度を下回り始めた。あれから深紅は毎日学校に出席している。深紅のセーラー服姿はものすごく可愛い。その可愛さといったら直視できない程だ。見ただけで赤くなりそうで、出掛けていくときの後姿ばかりが記憶に残ってしまう。帰ってくるとそのままの姿で夕食を食べるので、いつもテレビに集中して食べている。夏服じゃないだけまだマシだ。夏服だったら、自分だけ部屋で食べていたかもしれない。しかし、深紅にとっての最後の夏服は既に終わってしまったので、もう見ることは無いと思うと、それはそれで落胆してしまう。なんなのだろう、僕は。
僕の方の学校生活はというと、実はまだ埼玉の学校に籍を置いてある。まだ自宅療養ということになっているみたいだ。じきに長野へ転校ということになるだろうが、いつから学校に通うかは自分で決めていいと爺ちゃんが言ってくれた。
もう精神的にはずいぶん落ち着いてきた。けれど、どうしてもまだ声だけが出ない。一度、隣街の精神科医に診察を受けたことがあったのだけど、もう心は回復しているが、しばらく声を出していないと、脳が声を出すことに抵抗してしまうのだとのこと。けれど、きっかけさえあればすぐ元通り喋れるようになると言われた。
きっかけ。カウンセラーの先生が言うには、思いっきり何かを楽しむことがきっかけに繋がると言っていたが、正直よく分からない。充分今の生活が楽しいというのに。
というわけで、ここのところはきっかけを掴むために学校に通ってみるか、喋れるようになってから学校に行くか、で悩んでたりする。
今僕は昔深紅が使っていたという、えんじ色のママチャリを納屋から引っ張り出し、家から三キロ程のところにある駅前のスーパーに向かっている。
深紅の趣味なのかどうかは分からないが、側面に貼られている鳥の羽の形をしたシールのせいで、ちょっとばかし恥ずかしい。
どうして恥ずかしい思いまでしてスーパーに向かっているのかというと、夕飯を深紅が作るというので、せめて買出しくらいはやらせてくれと僕がお願いしたからだ。ちなみに爺ちゃん達は町内の集まりに参加していて、今日の帰りは遅くなるとのことだった。深紅の話だと最後の酒盛りがメインなのだとか。ようやく巨峰の収穫も終わりを迎えたところなので、この連休中は爺ちゃん達に思いっきり羽を伸ばしてもらいたい。そして僕も深紅と二人きりの時間で、大いに羽を伸ばさせてもらうつもりだ。今は伸ばすというよりも、走らせているという方が正しいが……。
ちなみに何故こんなお願いをしたのか、もちろんまだ学校も行っていないので、家でぐーたらしている身分なら当然なのだが、それだけじゃない。どうも彼女の脚の具合が悪いようなのだ。深紅の話によると、寒くなればなるほど言うことを聞いてくれなくなるのだそうだが、この前、夕食の後にコーヒーを淹れてくれたとき、キッチンからコーヒーを運んできた深紅が、僕の目の前で転んでしまったのだ。
『転んだ』という表現はいまいち合っていない。なんというか、かくっと急に脚の力が抜けた感じだった。幸い、コーヒーを被って火傷を負うという事態は避けられたが、僕は初めて深紅が本当に歩けなくなってしまう病気なのだと実感した。
そういうことがあり、僕はできるだけ深紅が嫌な気分にならないよう、さりげなくサポートすることにしたのだ。きっと強い彼女のことだから、必要以上の心配などはされたくないだろう。
スーパーに到着する頃には顔面に冷たい風を受けたせいで、鼻の感覚が若干薄れていた。買い物かごを手に取り、メモに書かれた野菜を次々に放り込む。僕は何が出来上がるのは知らない。リクエストを聞かれたので、深紅の得意なやつ、と答えたからだ。それでも買い物かごの中身を見ればおおよその見当はつく、パスタであることは間違いない。それも和風のやつ。
会計を済まして外へ出ると、丁度僕と同年代くらいの男二人が露店の鯛焼き屋の主人から袋を受け取っているところが見えた。ママチャリにまたがったところで、露店に併設されたベンチに腰を下ろした彼らと目が合ってしまい、どくん、と心臓が一回鳴った。
明らかによそ者を見る目だ。それもそのはず、深紅の話によると、この町には僕らの年代の学生など数える程度しかいないという話だ。きっと見たことも無い同年代の人間を見ると、必然的にそういう目になるのだろう。こういうところは都会の方がずいぶん楽だ。
自転車をこぎ出して彼らの前を通り過ぎようとしたとき、嫌な予感が的中した。
「お前」
ギクリとなって自転車を止めて後ろを振り向くと、片方の男が立ち上がって僕を見ていた。上下にウインドブレーカーを着込んだ彼は紐で吊るしたサッカーボールを肩に掛けていて、スポーツが専門だということは一目で分かる。
「深紅のいとこだろ」
ピクンと肩が跳ね上がって、しどろもどろしてしまう。
(この男は誰だ? ていうか、何で分かったんだ?)
「その自転車、深紅のやつだ。誰だってすぐ分かる」
僕は顔に出やすいのだろうか、何故こう簡単に考えていることが分かってしまうのだろう。僕は仕方なく頷いて見せた。すると彼は少しだけ驚いた顔をして、ベンチに座って僕の様子をじっと観察していた男と顔を見合わせた。
「本当に喋れないんだなー」
そう僕に投げかけると、彼は舌打ちをして、小さな声で『ったく』とつぶやいた。何か僕は彼を不機嫌にさせてしまったらしい。
「まぁいいや、深紅に伝えとけ。篠崎って奴が謝ってたって」
なにがまぁいいのかさっぱり分からない。さすがにムカっとなって、返事もせずに再び自転車をこぎ出した。
おかげさまで、帰り道はアイツのことが頭から離れなかった。茶色い短髪の頭で、少し目がきつい感じがしたが、鼻が高く、さわやかなスマート顔だった。背は僕と同じくらい。170センチといったところか。とにかく人を小ばかにしたような腹の立つ喋り方だった。
いったい奴は深紅のなんなんだ? 呼び捨てかよ、鯛焼きなんか食いやがって、偉そうに! まったく、深紅の自転車のせいで嫌な奴に話しかけられてしまった。篠崎め、深紅と同じ高三か。
……まさか彼氏だったりして。
深紅が夕食を作っている間もその考えは尽きなかった。
(奴が深紅の彼氏……? 近くに住んでいるってことは、ガキの頃から知り合いだったに違いない。僕の知らない深紅の顔を、奴はいっぱい知っているのだろうか。くそっ!)
僕はテーブルに頬杖をつき、もう片方の手で油性マジックを掴んで指でくるくる回し始めた。
(あの野郎……。深紅の髪の毛に触ったのか? 深紅を抱きしめたことがあるのか? 深紅の唇に触れたのか? まさかもう深紅の身体を!)
油性マジックが手から勢い良く飛び跳ねていった。と、同時に深紅の声が聞こえる。
「美月ー、運ぶの手伝ってぇ」
(ぬぬぬぬぬ、この深紅の透き通った美しい声が、あろうことかあんな奴の手によって、いやらしい女の声に変わるのか!)
スッと立ち上がってキッチンに行き、皿を受け取ると、まるで皿を運ぶためだけに作られたロボットのように、テーブルに置いてはキッチンに戻り、次の皿を受け取る、を繰り返した。深紅のあられもない姿を想像してしまった僕は、その後ろめたさから彼女の顔を見れないのだ。とにかく話しかけられないようにサクサク動いた。
全ての皿を並べ終わり、最後に冷蔵庫から牛乳を取り出して居間に戻ると、深紅はもう座っていた。僕も反対側に座って、二つのコップに牛乳を注いだ。
「美月の口に合う合わないは別にして、今日のは改心の出来よっ」
かなりの自信だ。チラっとだけ深紅を見ると、少し顔を仰け反らせた、えへんという顔だった。それから皿に目を落とす。案の定パスタなのだが、僕の食べたことのない種類のやつだった。
透き通った狐色の和風スープに、あらゆる種類のきのこと野菜が和えられたパスタが盛られ、上には鶏肉と白髪葱がもっさり乗せられている。匂いを嗅ぐと、醤油と鶏肉が合わさったとても良い香りが鼻の奥に広がった。口に入れなくても旨いと分かる。なんてったって深紅が作ったのだから。
二人でいただきますをしてから、目いっぱいにフォークに巻きつけた深紅特製パスタを口へ放り込む。
(!!!)
(なんだこれは! いったいなんなんだこれは!)
一瞬目眩がした。素晴らしい。芸術の域だ。こんなに旨いパスタを僕は食べたことが無い。深紅の視線を感じて、僕はわざとそのまま倒れこんだ。
「えっ? ちょっとやだ、美味しくなかった?」
倒れたまま、すぐそこにあったスケッチブックを手に取り、深紅に見えないようにして言葉を書き入れる。起き上がると同時に、不思議そうな目でこちらを見ている深紅にそれを見せた。
『意識がぶっ飛ぶほど……』
ページをめくる。
『美味!』
深紅は安心するように肩を落として「よかったぁ~」と言った。
「びっくりしたじゃないよぉ、もー」
少し呆れた表情になってしまったので、慌てて弁解する。
『ごめんごめん マジでくらっとしたんだって』
そうすると深紅はふふっと笑ってサラダを食べ始めた。ちなみに、テーブルの上にはパスタだけではなく、サラダ、コーンスープにこんがり焼かれたフランスパンのバタートーストまでもが並んでいる。
さっき並べているときには考えなかったが、これはもう、どこかのお店レベルじゃないか。これを全て作ってくれた深紅を見て感動する。なんて良い子なんだ……。
「な、なによもぉ……、美味しいのは分かるけど、そんなに見ないでよぉ……」
(その顔も素敵です。深紅様。)
たぶんこれが漫画やアニメなら、今僕の両目はハートマークになっているに違いない。むしろそうなって欲しいくらいだ。
そこから僕は、つまらないことなど忘れ、ひとくちずつ身体の全感覚を総動員させて深紅の手料理を味わった。
(ざまあ見ろ篠崎。お前も食いたいか。やらねぇぞ馬鹿たれが!)
生涯一番の幸せな夕食が終わり、例のごとくお皿を洗っていると、頭の中に鯛焼き野郎の言葉が流れた。そういえば、喋れないからって、なんで舌打ちされなくちゃいけないんだ? それと、伝えておけとか言ってたな。分かった、伝えてやろうじゃないか。キュっと蛇口をひねり水を止めると、意を決して居間に戻り、深紅の向かいに座る。
『そういえばスーパーでしのざきって人に声を掛けられた』
「えぇ?」
眉をひそめて『マジ?』という顔になった。
「ゆたか……、美月になんて?」
よほど気になるのだろう、深紅は前のめりになって質問してきた。
(やっぱりか、鯛焼き野郎。良かったな。お前も呼び捨てだぞ)
少し頭にきてしまったので、奴の言葉をそのまま書いた。
『深紅に伝えておけ しのざきって奴が謝ってたって』
すると深紅は見慣れない反応をする。なんか良く分からないけど胸に手を当てて、ほっとしているのだ。
(なんだよ! 鯛焼き野郎に謝られてそんなに嬉しいか!)
一人だけ蚊帳の外にいる僕は、いらいらする頭の勢いに任せてスケッチブックに書きなぐる。
『彼氏でしょ、格好良い人だねー』
不思議そうにその文字をしばらく見つめて、『あっ』となって彼女は言った。
「美月って鋭いわねぇー。確かにゆたかとは付き合ってたけど、もう別れたの。結構前だと思ったけど、そっか……。言ってなかったわね」
しばらく固まっていたと思う。徐々に嬉しさがこみ上げてきて、僕は笑顔を抑えるのに必死になった。
(嘘だろ、マジかよ、それって……。好きになっていいってこと……?)
いっきに身体が粟立った。さっそく告白している自分を思い浮かべてしまったからだ。
「でも、どうしてあなた達が?」
字が汚くならないよう平常心を装って書く。
『たぶん 自転車の羽で気付いたんじゃないの』
「そっか、なるほどねー」
『そういえば 何を謝ってるの しのざき』
「えっ? ……それはまぁ、いいじゃない」
良くないが、あまり深いところを聞くのはデリカシーが無いというもの。というより、別にどうでもよかった。鯛焼き野郎と別れただけで十分だ。調子に乗った僕は恥ずかしい台詞を惜しげもなく言う。
『まぁ、いいや。それより今日のご飯、本当に美味しかった』
勢いをつけてページをめくる。
『深紅の旦那になりたいくらいだよ』
「なっ! なに言って……」
これだ、これが見たかったんだ。
深紅はいつかのように耳まで赤く染まった顔をうつむかせて、両手の指で髪の毛を梳いている。普段は凛としていて落ち着いた大人の表情のくせに、恥ずかしいことがあったときの深紅は、僕か、僕よりも年下を感じさせるとっても可愛らしい顔になる。僕はこっちの顔の方が数段好きだ。
僕は狙った通りの顔が見れて感無量になり、盛大なガッツポーズを繰り出した。
深紅のいない月曜日がきて、深紅のいない火曜日がくる。そうやって僕は指折り数えて週末が早く来ないかと平日を過ごしている。
そういう日に何をするかというと、学校から届いた中間テストの解答用紙を教科書を見ながら埋めたり、深紅に借りた文庫本を読み漁ったり、携帯に届く友達のメールに返事をしたり、深紅のお母さんのパソコンで、喋れない人達のコミュニティに参加したりしている。と言いつつ、どれも合間に深紅のことを考えながらすることがほとんどだ。
カウンセラーの診察を受けてから、爺ちゃん達の手伝いはしていない。今は朝から晩まで好きなことをして過ごせ、と爺ちゃん直々に命令が下ったからだ。
今も途中まで埋めた解答用紙の続きをやっている。教科書を見ながらなので、答えを埋めるだけなら本当に簡単なのだが、理解しないまま学校に戻ることを考えると、恐ろしくてとてもじゃないけどそんなことは出来ない。
その中でも国語、社会、理科は比較的楽に覚えられる。問題は数学、英語の二つだ。前者は答えそのものが教科書に載っているので暗記するだけで終わる。けれど後者は違う。数学は数式を覚えて、それを問題に置き換え、更に解かなくてはならない。極めつけは、折角解いたものを今度は分解しろとか、その過程を説明しろだとか、本当にわけが分からない。一体僕に何をさせたいんだ。英語に至っては、小学校の頃から大のつくほどの苦手で、基礎が出来ていない僕にその上の段階の問題を出されても、丸写しはできても理解するだなんて土台無理な話だ。
本当なら深紅に教わりたいのだけれど、ここのところ学校が終わった後はリハビリセンターに通っていて、帰って来る頃にはくたくたになっている。とてもじゃないけど深紅の休息の時間を奪うことなんて、今の僕に出来やしない。
彼氏と別れた。そう聞いてからの僕の心は、日に日に深紅への思いが募るばかりだ。いとこだから駄目。そういう気持ちが邪魔になることもあった。でもパソコンで調べると意外にもあっさりそんな気持ちは消し飛んだ。
あるサイトで見つけた情報によると、『いとこ同士の婚姻は法的に認められている』とあった。それを見て喜んだのもつかの間、新たな心配が増えてしまった。『しかし、近しい血族間に生まれる子供は、虚弱体質になってしまう確率が若干上昇する』深紅にとっては最悪の事実だ。
でも、僕は深紅と一緒になれるなら子供なんていらないと思った。深紅はどう思うだろうか……。ガキの発想だと笑うだろうか……。
そもそもまだ付き合ってもいないし、深紅が僕のことをこれっぽっちも好きではないのかもしれないのに、思いだけが勝手に先走ってしまう。本当、男ってやつは馬鹿だな、と冷静に考えては素に戻り、その数分後にはまた同じような事を妄想しては勝手に切なくなっているのだ。恋の病とはよくいったものだ。
深紅のスクーターの音がした。時計を見ると針は夕方六時半を指している。ほぼいつも通りの帰宅時間だ。問題はその後だった。スクーターの音がしてから一分、二分、と過ぎても引き戸を開ける音がしないのだ。気になって外を見てみると、納屋の柱につかまった状態で座り込んでいる深紅の姿が見えた。――もしかして……。
いいようのない不安に駆られた僕は、急いで一階に降り、爺ちゃん達に見つからないようゆっくり引き戸を開けて納屋に向かった。
深紅は僕と目が合って、恥ずかしそうに笑った。僕の好きな表情ではなく、どことなく寂しい笑い方だった。
「えへへ、ちょっと無理しすぎたかも、疲れちゃって……」
僕は黙って手を差し出した。深紅がしっかり握るのを確認してから引っ張りあげて肩を抱えてやる。
(重っ……)
驚いた。疲れたどころの話ではなかった。深紅はどうみても脚に力が入っていない様子で、ほぼ全体重が僕の肩にかかっている。これではたった数メートルの玄関まですら無事辿り着けるか危うい。そう思って彼女の膝を抱えあげた。
「ちょ! みつきっ!?」
手をバタバタさせて抗議している彼女に構わず、玄関へと歩き出した。
「やっ! 嫌だってばぁ!」
うん、お姫様抱っこをすると、今度はかなり軽く感じる。きっと平均体重よりかなり軽い方だろう、と彼女の気など関係なしにそんなことを思っていた。
玄関前に着き開放してやると、彼女は怒りかけたが、そのままへたりこんでしまいそうになる。また僕が肩を抱いてそれをなんとか阻止する。引き戸を開けて中に連れていき、玄関の中に座らせると今度は黙り込んでしまった。
僕はすかさず居間に置いてあったスケッチブックを手に取って書いて見せる。
『ごめん でも制服が汚れるよりましだろ』
それを読んだ深紅は、チラっと上目遣いで僕を見てから、そっぽを向いた。
「ありがとう……」
かろうじて聞き取ることのできた彼女の声は、とても弱々しくて、とても儚く、僕には泣いているかのように聞こえた。