四章 【絵本】
彼女が笑顔で『あとちょっとで出来上がるから、もう少し待っててね』と調理作業に戻ってしまったので、僕はそれ以上そこに居ることが出来ず居間に行き、スケッチブックになにかを書こうとしたが、結局書く言葉は見つからなかった。足が痛むはずなのに、ゆっくり、一枚一枚キュウリを刻む音がする。そんな彼女に僕は何か言わなくてはいけないのに、どうしても言葉が思い浮かばなかったのだ。
結局、自分の不甲斐なさにあきれて部屋に逃げ込んできてしまったのだ。
深紅は僕に突き飛ばされて足をひねった。痛かったはずだ。僕のことを嫌いになったはずだ。尚も叫び続ける僕を見て気持ち悪がったに違いない。僕なんかとピクニックに行ったってつまらないに決まってる。
(そうだ、断ろう……)
いつも一人で来るお気に入りの場所に、僕なんかが足を踏み入れて良いわけなんかないんだ。
『ごめん やっぱり行かない』
僕がその言葉を見せたのは、彼女がカラフルなタッパーに手製のサンドイッチを詰め込み終えたときだった。
軽く手をすり合わせてパンの粉を払い落とすと、腕を組んだ。
「あのね、美月、私のことを気にしてるんなら……」
一瞬何かを考えた顔をしたかと思ったら、急ににこやかな顔になる。
「私はね、この折角作ったサンドイッチ、どーしてもあそこで食べたいの、美月が行かないなら一人で行くからね」
ピクリと僅かに反応した僕に向かって、彼女は続けて言った。
「足がどんなに痛くたって行くんだから」
「あーぁ、転んじゃったらやだなー、起き上がれるかしらー」
彼女の意図が分かった。無理にでも連れて行くつもりだろう。でも分かって欲しい、もう二度と傷つけたくなんかないんだ。
「だから、ね、連れてって」
人間は心がある分、他の生物と比べて厄介だ。例えば食事だ。生き物だったら腹が減っているときに目の前に餌を出されれば、喜んで飛びつくのが普通だろう。だが人間は自らの欲望よりも心を優先する生き物だ。僕は彼女とピクニックへ行きたかった。けれど心が邪魔をした。どんよりと重たい曇が空を覆い隠すように、僕の心が欲望を飲み込んでしまっていたのだ。
そんな厄介な心を綺麗に洗い流してくれるもの、それは人それぞれ違うはずだ。深紅にとってのそれはコスモスに囲まれて緩やかに流れる小川であり、僕にとってのそれは深紅自身だった。彼女の温かい笑顔を見れば、どんなに辛いことも忘れることが出来る。彼女の高いアルトの声を聞けば、どんなに悲しい気分もすぐに和らいでいく。
もう彼女の前では僕のちっぽけな意地など無意味だろう。さっき深紅が屈託の無い笑顔で『連れてって』と言ったとき、ごちゃごちゃ考えていたつまらない感情は消え去ってしまい、彼女の傍にいたい気持ち、それだけになってしまったのだ。
既に散歩用の服に着替えていた深紅が「外で待ってるね」と言うので、部屋に戻って急いで着替えてからスケッチブックを抱え、高揚する心を抑えつつ外へ出てみると。ぱんぱんに膨らんだトートバッグを左肩に抱えた深紅が、ピンク色のスクーターに乗って納屋から現れたのだ。
(…………?)
「よーし、じゃー行こっかー」
べべべと音を鳴らしながら方向転換し、道路へ向かおうとする彼女を追いかけ肩を掴んで静止させた。
「え、なあに?」
なあに? じゃない。僕は言葉を雑に書くと、勢い良く彼女の前に突き出した。
『それはなんだ』
「ああこれ? うちの学校、バイク通学OKだから」
『そうじゃなくて!』
「えー、なによー」
『連れてけとか 転ぶとかは何』
「あら、私、歩いてく、とは言ってないわよー?」
(騙された!)
僕はむっとなって、深紅の前を歩き出すと。後ろで愉快に笑いながら「まってー」と聞こえたが、構わずにずんずん進んだ。
深紅は僕のことを少しだけ追い抜いてはスピードを落とし、また追い抜いてはスピードを落とすといった感じで付いてくる。緩やかな風を受けてなびく髪が、そのやわらかい髪質を強調している。遠くを見つめる彼女の横顔はとても綺麗だった。それを見れたこと、それだけで怒りを忘れるには充分だった。目的地にはすぐに到着した。
橋が見えると深紅は先に行ってスクーターを脇に停めると、川の入り口で僕を待っていた。近付くと彼女はニコっと手を差し出してきた。
「はいっ、連れてって」
この笑顔は反則だ。彼女の希望を叶えてやるために、黙って肩を差し出した。それにしっかり掴まった深紅は、ゆっくり歩き出し僕と一緒に坂を下った。一人しか通れない幅なので僕が先を歩き、深紅が付いてくる形になった。良かった、足の具合は思ったより深刻ではないみたいだ。
昨日と同じ場所に辿り着くと、深紅がバッグからがさごそと折りたたまれたビニールを取り出してぶわっと広げた。いっきにひろがったビニールシートは黄色い下地に白いくまが描かれたとても可愛らしいデザインで、座るのが少し恥ずかしい気がした。手を貸してやり、二人でその上に腰を下ろすと、深紅は『ふぅ』と一息ついてからバッグに入っていたものを次々に並べていった。
黄色い半透明のタッパー、赤い半透明のタッパー、水筒、弁当箱、そして水筒。
(んっ?)
思わず二つの水筒を見比べてしまう。
「あぁ、これ?」
両手に持って、こっちはアイスでこっちはホット、と陽気に説明する。
「安心して、どっちも紅茶よ」
一瞬の沈黙の後、笑いが飛び交う。といってもまだ僕の方は無音だが……。
「さー、食べて食べてー」
パカっと蓋を取られた二つタッパーには丁寧に耳を切り取られた長方形のサンドイッチが六個ずつ並べられていた。タマゴサンド、ハムとチーズのレタスサンド、キュウリの入ったシーチキンサンド、ポテトサラダサンド、本当にどれも美味そうだ。お弁当箱にはチキンナゲットと斜めにカットされたウインナー、プチトマトに大粒のサクランボが、それぞれぎっしり詰め込まれていた。
手を合わせておじぎをしてから、タマゴサンドの半分を口の中に放り込んだ。このチョイスは僕の定石である。むぐむぐと噛み砕いて飲み込む。美味い。少しコショウが多い気もするが、少し荒めにつぶされた半熟の玉子が良い味を出している。女の子の手作りって感じでコンビニよりも格別に美味い。もう半分を放り込む。大丈夫、僕にかぎってベタな展開はない。咽ないよう、ゆっくり噛み砕いてから飲み込んだ。
その様子を心配そうにじーっと見つめている彼女に、僕はスケッチブックに感想を書き込んでから、大げさに震わせて見せてやった。
『う・ま・い・ぞーーーーー!』
途端に彼女の顔に花が咲き、「やったぁ」と両手で女の子らしいガッツポーズをする。
「よく自分のお弁当に作るから味には自信はあったんだけど、お爺ちゃん以外の男の人に食べてもらうのは初めてだったの。よかったぁ」
僕の反応に満足したのか、「アイスティーでいいよね」と言って紙コップに注いで渡してくれた。それから自分の分も注いでサンドイッチを食べ始める。
嬉しかった。嬉しすぎて少し震えた。深紅手製のサンドイッチもそうだが、彼氏に作ったことがないという事実が、何よりも嬉しかった。その後は、こんな彼女がいてくれたらな、とか、年下は対象外なのかな、などと考えながら次々と深紅の作ったお弁当を平らげていった。
間に何度も感想を書いては見せて彼女の喜ぶ顔を楽しんでいると、こんなに楽しいひとときだというのに彼女と喋ることが出来ない自分に、苛立ちを感じてしまって少しへこみそうになったが、そういうのがすぐ顔に出てしまう僕のせいで彼女の笑顔を損なわせてしまいたくなかったから、次があるか分からない二人きりのピクニックに専念することにした。
最後のサクランボを勢い良く口に投げ入れると、また言葉を書き込んで見せてやる。彼女が読み始めたのを確認すると、僕は照れ隠しのために種を川へ飛ばした。
『深紅=才色兼美』
動きが止まった深紅の顔が、いつも通り赤くなっていく。
「やぅ……あ、ありがと……」
思った通りの反応が見れて僕は満足だった。スケッチブックを置いて、残ったアイスティーを飲み干すと、まだ深紅がもじもじしてこっちを見ているので、胸の鼓動が急激に早くなった。
自分の喉がごくりと音を立てたところで、ちらっと遠慮がちに僕のことを見た深紅の茶色い瞳と目が合った。
(えっ……)
「あ、あのね、美月……」
(そんな、まさか……。だって深紅には彼氏が……)
慌てて、スケッチブックに手を伸ばすと、手まで『どっどっどっ』と脈打っていた。
「それ……」
(えっ、どれ? これ?)
「ビが違う……」
(ビガチガウ?)
何のことだかさっぱり分からなかった。深紅が指差している方向にはスケッチブック、書かれている文字は……あっ。
「才色兼備のビは、美術の美じゃなくて、備蓄の備よ」
僕は真っ白になってから、真っ赤になった。
たらふく笑った彼女は、僕ががっくりしているのを見て悪いと思ったのか、二重に重ねた紙コップに温かい紅茶を注いで手渡してくれた。それに口をつけると、紅茶の香ばしい香りとともに広がる温かな甘さが心地よくて、沈んでいた心がぽうっと浮上した。
すると、今彼女に伝えなくちゃいけない言葉が思い浮かんだのでスケッチブックに書こうとすると、また『ぷっ』と軽く吹きだすので、悔しくなった僕は書く言葉を変えた。
『これは美しすぎる 深紅用に作られた言葉なの!』
「ふふっ、ありがとっ」
期待した効果はあまり得られなかった。それから深紅は「でも」と言って続けた。
「美月のそういうところ、私好きよ」
頭の中で勝手にエコー再生される。
(えっ……えええええ!)
「とーってもやさしいよね、美月って。きっと大人になったら良い男になるわよー」
(……はぁ。それってつまり、まだ僕は子供としか見られていないってこと、だよなぁ……。確かに、このくらいの歳で三つの差っていったらかなり大きく感じるけど……)
とても複雑な言葉をくれた彼女に、飲み終えて空になった紙コップを渡すと、おかわりを聞かれたので首を横に振った。それを確認すると彼女は片付に入り、最後の水筒をバッグにしまってから「さてと」と言って僕を見た。
「折角だから少し歩いてみない?」
『足は大丈夫なの?』
「だいじょーぶよ、それに歩かないとピクニックにならないじゃなーい」
『そうなの?』
「そうなの! 歩くの! ほら早く立つ!」
やれやれという顔を作ってから立ち上がり、お姫様を立たせてあげた。「どうせ戻るときにここを通るから」と言うので、荷物はそのままにして歩くことにした。
肩を貸そうとすると「こっちが良い」と言ってまた腕に巻きついてきた。僕の方も今度は振り解こうとはしない。半ば期待していたからだ。いつから、と聞かれれば、今朝彼女が僕に言った『連れてって』の言葉を聞いた時点からだ。
僕らはぴったりくっついて、川べりの比較的平らな芝生の道を一歩一歩確かめながら歩いた。彼女の足が気になる。本当に大丈夫なのだろうか。
向けられた視線を感じて、深紅が口を開く。
「足の怪我はほんと、大したこと無いの、一人で全然歩けるくらいよ」
そう言って僕の表情を確認してから、静かに前を向き直ってひと息ついた。それから「答えなくていいから聞いてくれる?」という前置きに僕がこくりと頷くと、彼女はおもむろに話し出した。
「私ね、病気なの」
一瞬立ち止まってしまったが、深紅は構わず歩き続けて巻きついた腕に催促した。僕は慌てて彼女のリズムに合わせる。
「徐々に筋肉が衰えていく病気。私の場合、両脚がそれ……。人によって個人差があるけど、大体の場合五、六年で動かなくなっちゃうんだって。リハビリで進行を遅らせることはできるらしいけど、治すことは出来ないそうよ」
(そんな……そんなことって……)
深紅の口から発せられた衝撃の告白は、僕から言葉を奪っていった。たとえ今喋ることができたとしても僕は黙っていることしか出来なかったはずだ。
――掛けてやる言葉が見つからない。
十五年間しか生きていない僕には、この状況でどんなことを言ってあげるべきなのか、どうしても思い浮かばなかった。
「でもねー、別にいいの、そのおかげで今の私があるんだから。諦めたわけじゃないよ。歩けるうちは頑張って歩く、歩けなくなったら……そのときの私に出来ることを精一杯するつもり。だから大丈夫」
(……。)
今までの不可解な点を思い返していた。婆ちゃんと寄り添ってトイレに行く姿、たまにふらふらと歩く姿、力を抜いたような座り方、近場の散歩で疲れたと言う彼女、その全ての点が繋がり、ひとつの悲しい線になった。
途端にふたつの考えが生まれる。深紅はあとどのくらいで歩けなくなってしまうのか、そして、彼女に何かしてあげられることは無いのだろうか、と……。
重く苦しい沈黙を破ったのは、透き通ったいつもの明るい声だった。
「あ、見て見て!」
深紅の指差す方向には、全身を覆う白い羽がとても美しく、愛らしい表情をした二羽のアヒルが、緩やかな川の流れに身をまかせ、ぷかぷかと浮かんでいた。
「可愛いねー」
確かに可愛い。彼らは思いついたように、黄色いくちばしで自分の背中をせわしなくつついたり、川の中に首を突っ込んで餌を探したりしていた。
僕らはしばらくその光景を眺めていた。
「昔さ、『みにくいアヒルの子』って読んだでしょー。あれさ、みにくいアヒルは最後白鳥になって飛んでいくじゃない」
こくりと頷く。
「昔その子をいじめてたアヒル達は、飛んで行くその子を見てどんな気持ちになったのかなー、ほら、アヒルって飛べないじゃない」
考えてみる。皆でいじめてた奴は実は自分達より優れた鳥で、自分達に出来ないことをする。羨ましいだろうか、悔しいだろうか……。いや、待てよ。アヒルにとっては飛べないことが当たり前なのだから『あいつは違う種類の鳥だったのか』ってだけかも。そもそもアヒルは飛びたいと思うのだろうか……。うーむ。
「私はね、羨ましいと思う。翼を持って生まれたんだから。折角なら飛びたいじゃない」
なるほど。飛ぶための翼を持って生まれたら飛んでみたいと思うのは当然だ。飾りの翼なんて生物にとっては足かせにしかならない。そうなるとやっぱり自分達より劣っている奴が飛んだら羨ましいに決まってる。そして思うはずだ。
『あいつが飛べるなら自分も――』と。
「ねっ?」
うんうんと頷いている僕を見て満足したようだ。それから僕らはしばらくの間アヒルを眺めた。
(なんだかこいつらって間の抜けた生き物だよな。そもそもどうして飛べないのに翼を持っているんだ? かといって歩きは遅いし、すぐバレる色してるし、鳴き声はうるさいし……)
そう考えていると、隣でアヒルを見つめる深紅の表情が少しだけ陰っているのに気が付いた。たぶん、普通に見たら気付かない程度の変化だ。きっと僕が深紅のことを好きだから気付けたのだと思う。
(もしかして、深紅は飛べないアヒルと歩けない自分を被せているんじゃないだろうか……? だとしたら……)
さっきは歩けなくても大丈夫と言っていたが、アヒルの話をしているときは、はっきりと『羨ましい』と言っていた。そう考えると、大丈夫という台詞が、単なる強がりであるような気がして、急に悲しい気持ちになってしまった。
「帰ろっか」
そんな僕の考えとは裏腹に、透き通ったいつもの明るい声が聞こえた。振り向くと、深紅は両手を後ろに組んで、屈託の無い笑顔を浮かべている。さっき感じた陰りは跡形も無く消え去っていた。
深紅のお気に入りの場所に戻ると、さっそく僕は置いてあるスケッチブックを手にとって、さっき伝えそこなった言葉に、もう一行付け足して彼女に見せた。
『今日は楽しかった ありがとう オレも深紅と一緒に頑張って歩くよ』
それを見た深紅の笑顔は本当に眩しくて、僕には夏の西日よりも輝いて見えた。
夜、自室のベッドで横になりながら深紅のことを考えていた。
彼女は言っていた。
『出来ることを精一杯する』
彼女は自分の置かれている状況を受け入れて、そして臆することなく自らの足で過酷な未来を乗り越えようとしている。
彼女は強い。僕はどうだ、母が死んでから僕はいったい何をした。ちゃんと事実と向き合っているだろうか。目を逸らしていないだろうか。
病院では毎日母の夢に怯え、母のことを受け入れることができずに先生達に迷惑をかけていた。病院から連れ出されてからは、楽しいことに甘えて辛いことから逃れようとしていた。確かに前よりもずいぶん回復したと自分でも思う。でもこのままじゃ駄目だ。
彼女と楽しい日々を過ごすことによって、辛い過去を忘れるのは簡単だ。でもそれだけじゃ自分の力で前に進んだことにはならない。
『深紅と一緒に頑張って歩くよ』
僕はそう言った。これから自分と向き合って。真実を受け入れて。それを乗り越えなくてはいけない。そうしないと彼女と一緒に歩いたことにはならないからだ。
今朝みたいに、深紅を傷つけることに怯えるのはもうごめんだ。彼女ときちんと向き合えるようになりたい。それから……。
その日から、皆の前では極力普通に振舞い、夜になって部屋に戻ってからは、自ら母のことを考えることにした。またああならないように、ほんの少しずつではあるが、心の傷と向き合うことで先に進んで行ける気がしたのだ。
相変わらずそういうときに出てくる母の姿は、楽しい思い出に映し出される笑顔の母か、最後の無残な母の姿かのどちらかだった。後者の場合は、込み上げてくるあの衝動を必死に抑えながら、息を噛み殺して震えるだけで、叫んでしまうことは無くなった。もう深紅を傷つけるのだけは絶対したくない、という強い意思がそうさせてくれたのだと思う。
不意に頭上で気配を感じた。ギクっとなって目をやるとカーテンがもぞもぞ動いている。身を起こして恐る恐る手を伸ばしてみると、『なーう』という猫の鳴き声が聞こえた。そのままカーテンを引いてみると、尻尾の無い黒猫がベッドから床へと飛び跳ねていった。昨日、勝手に入ってきた猫であることは間違いない。少し驚きはしたものの、僕自身、猫は大好きなので追い出すことはせずにそのまま観察した。
そいつは我が物顔で部屋の中を闊歩し始めたかと思うと、再びベッドの上に飛び上がり、首を後ろ足で掻き始めた。ここの飼い猫なのだろうか、あまりにも無用心で愛嬌のある仕草は見るものを和ませてくれる。そっと手を伸ばして痒そうな首を掻いてやると目を細めて僕に首を委ねてきた。
昨日巻いていた鈴付きの首輪は付けていなかった……。
そうして二週間が過ぎていった。まだまだ季節は夏真っ盛りのはずなのだが、ここは山間に位置しているためか比較的涼しく感じる。ニュースで連日の猛暑日だと報じられている東京の風景は、どこか違う世界の映像に感じられた。
あれから深紅とは特別なことは起きていない。ここへ来てからの二日間は僕のために時間を割いてくれたが、本来高校三年生の夏休みは特別なもののはずだ、友達や彼氏との時間や、受験勉強、それに彼女の場合リハビリもある。きっと彼女はやりたいことが山ほどあるに違いない。
僕が家にいるときっと気にしてしまうはずなので、弱っていた身体を取り戻すと言って、毎日爺ちゃん達の手伝いをすることにしたのだ。今の時期は桃を枝からそっと収穫し、その日のうちに箱に詰めて出荷したり、九月の終わりに収穫を迎える巨峰の枝切りを毎日こまめにやっている。腰を曲げたり伸ばしたりを延々と繰り返すので、帰る頃には必ず腰が悲鳴を上げている。それを気遣ってか、夕食の後のデザートに桃が出ることがあった。収穫したばかりの桃は自分が収穫に携わったことも相まって、本当に甘くて美味しかった。
爺ちゃん達も働き詰めではなく週に一日は休む。その日は深紅が貸してくれた文庫本を読みながら部屋で一日中横になっていたり、爺ちゃんと将棋を指して遊んだりした。
何度か深紅が作業に付いてきて軽い作業を手伝い、四人でお弁当を食べたりもしたが、結局この二週間、二人きりで出掛けることは一度も無かった。これでいい。これで自分の足で歩ける。そう思っていた……。
八月も後半に差し掛かった頃、この家の異変に気が付いた。
世間はお盆だというのに、この家ではそういった素振りをまったくしようとしないのだ。僕は疑問に思って夕食を終えた後に爺ちゃんに聞いてみた。すると爺ちゃんはギョッとした顔を僕に向けたのだ。その瞬間に僕は分かってしまった。再び言葉を見せる。
『じいちゃん オレならもう大丈夫 皆で母さんを迎えてやろう』
しばらく悩んだ末に爺ちゃんは重い口を開いた。
「美月、お前ぇ、もう大丈夫なのか」
しっかり頷く。
「ほうか……付いて来い」
そういうと爺ちゃんと婆ちゃんの寝室に案内された。初めて訪れるそこは、微かに線香の匂いがして、風に揺られる風鈴の音が響いていた。たぶん僕の心境がそうさせたのだろう、夏もまだまだ盛りだというのにじめじめと湿っぽい感じがした。
漆塗りの立派な箪笥の横に爺ちゃんが僕をここへ連れてきた理由があった。金箔によって煌びやかに装飾された黒い仏壇。中に目をやるといくつかの立派な位牌が立てられていた。中心に立てられている比較的新しいのがきっと母のものなのだろうと感じた。爺ちゃんを一瞥すると、深く頷いたので、置いてある線香を一本焚き、鐘を鳴らしてから静かに手を合わせ、心の中で母にお別れを告げた。
こうすることで何かが変わるのか、正直なところ僕にはよく分からなかった。母は今安らかに眠っているのだろうか、僕と同じように苦しんではいないだろうか、その考えは仏壇に手を合わせても消え失せることはなかった。
「それとな」
襖の奥から一つのダンボールを取り出すと僕に手渡した。
「お前ぇの心の準備ができたら渡そうと思ってたやつだ」
僕はそれを一度床に置き、軽く閉じられているふたを開けて中を覗く。どくんと大きく脈打つのが分かった。そこに現れたのは黒くて硬い布と、その上に置かれた見覚えのある女性用の長財布だった。
すぐにそれがあの瞬間に僕が持っていた母の財布で、下のは僕のトレンチだと分かった。更にその下に何か入っている。
(まずい……)
僕は握り締めたこぶしを高鳴っている胸に当て、深紅の顔を思い浮かべた。彼女の顔、彼女の声、必死に精神を沈めると、平静を装いスケッチブックに書き込んだ。
『ありがとう 部屋に持っていっていい?』
「お前んだ、好きにしろ」
喋れなくて良かった。きっと今の僕では声が震えてしまうだろう。額に浮かんだ汗を見られないよう、うつむいた状態でゆっくりと立ち上がり、ダンボールを抱えて部屋に戻る。
部屋に着いて、気持ちを充分に落ち着かせてから、もう一度中を確認する。
母の財布……。中身はあの日のままだ。まだ微かに母の匂いがする。母がいつも付けていたバラの香りの香水を思い出す。
トレンチコートを取り出すと、その下にはトレーナーとジーンズ。これらはあの日の僕の服装だ。病院から渡されたのだろうか、だとすれば何故……。よく分からないままに服を取り出す。すると一番下に薄汚れたワークブーツと、見慣れぬ麻袋が半分に折りたたまれて入っていた。中に入れられた物によって、いびつな形に歪んでいる。明らかにいくつかの物が詰め込まれて出来た形だと分かる。
ダンボールから取り出して袋を広げてみると、微かに鈴の音が鳴った。
――何度も感じたあの感覚が甦る。
なんなんだこの身体は。なんで鈴の音ひとつでこんなに心臓が破裂しそうになるんだ。もう嫌だ、ちっとも治ってくれないじゃないか。僕にどうしろって言うんだ。
(息が詰まる……。苦しい……)
必死に抑え込もうとしていると、ノックの音と共に深紅の声が聞こえた。
「美月ー、入るわよー?」
扉を開ける音。
「美月? ……ちょっと!」
慌てて駆け寄って来る深紅の方へ顔を上げると、同時に瞳に溜まっていた涙が零れ落ちた。そうなったら止まらない。一度頬にできた水路を伝って次々に膝に落ちて行く。
深紅は僕が持っている麻袋を見てはっとなり、僕から袋を奪い取って自分の後ろに置いた。そうするとまた鈴の音が鳴り、体が反応してしまう。
すると彼女は、僕の肩を抱きかかえ、優しく頭を撫でてくれた。
「大丈夫よ……美月……」
(まただ……)
そうささやいているときの彼女は、眉を少し下げて微笑んでいた。とても美しくて、とても優しい表情に、僕は全てが許される気がした。その顔を見ていると、さっきとは違う苦しみが胸を締め付ける。
(駄目だ、深紅……そうされると、僕は自分の足で歩けなってしまう……)
深紅には頼らないと決めていたのに、また助けられてしまったことに悔しさを感じて顔を背けてしまう。
「どうして。どうして一人で考えちゃうのよ……」
(……そんなの決まってる。深紅と一緒に歩きたいからだ。)
「皆に、弱いところを見られるのが怖い?」
(そうじゃない、一人で立ち上がらなくちゃいけないんだ……)
「そうやって……」
相変わらず僕は下を向いたままだが、普段とは違うやや低めのトーンから、深紅が怒っているのが分かる。
「一人で解決してなんになるのよ、私たちはどうして一緒にいるの?」
ぴくりとも動かない僕に嫌気が差したのだろう、彼女は静かにため息をついた。
「私に相談するの、そんなに嫌?」
(嫌じゃない……けど……)
僕は考えた末にゆっくりと首を横に振った。
「私、美月に頼って欲しいの。辛いときは辛いって言って欲しい。悲しいときは悲しいって言って欲しい……。一緒に歩くって言ったじゃない。それってそういうことじゃないの?」
スケッチブックに手を伸ばす。
『相談するのが嫌なんじゃない』
『また怪我させてしまうかもしれないし』
『とにかく今は自分の力でなんとかしたい』
それを読み終えた彼女は少し目を閉じてから「わかった」と言って立ち上がる。
「でも、この袋だけは私が預かる。見るときは私のいるところで見ること。それだけは約束して、お願い」
そうか、深紅はこの中に何が入っているのか知っているんだ。僕は直感的にこの状態を克服するには麻袋の中身と対面しなくてはいけないと感じたが、彼女の凛とした表情に、僕は逆らうことは出来なかった。
翌日の朝、目が覚めて居間へ行き皆と朝食をとっていると、昨日までの深紅とは明らかに態度が違っていた。挨拶はしてくれたものの、いつもなら今日の予定や、今読んでいる小説の話などを喋って聞かせてくれるのに、今日は何も話してくれない。朝食を食べ終えると「じゃあ、出かけてくるから」と言ってあっさり出て行ってしまった。
昨日の事を怒っているのだろうか。昨日僕が頼ることを拒否したからか、それとも、あまりにも情けない僕に嫌気が差したのか、もう何がなんだか分からなくなってきた。今日にでも深紅の部屋で麻袋の中を見ようと思う。でもまた我を忘れて深紅のことを傷つけてしまったら……。
農作業している間もぼやぼや考えていたせいで、せっかく美味しそうに熟した桃を落として駄目にしてしまった。もちろんそのくらいのことで爺ちゃんは怒ったりはしないが、自分自身の罪悪感が許してくれず、ひどく落ち込んでしまった。そんな僕のせいでその日の夕食も会話は殆ど無かった。
深紅が足早に部屋に戻ってしまったあと、爺ちゃんが二人の仲を気遣ってなのか、こんなことを言い出した。
「美月、深紅のこと、もっと信頼してやれ。お前ぇとあいつはよく似てる……。一番お前ぇのことが分かるのはあいつだ。それに、一番あいつのことを分かってやれるのはお前ぇのはずだ」
部屋に戻って考える。『お前とあの子はよく似ている』それは二人とも両親が居ないからなのか、それとも種類に違いはあれど、二人とも立ち向かわなくてはならないものがあるからなのか……。
こういうときの一日は本当に長い。深紅のことを考えては、時計を見て肩を落とす。これを何度繰り返したことか。
今、僕は深紅の部屋のドアの前にいる。手に持ったスケッチブックには既に必要とされる言葉を書き込んでおいた。後はこのドアにノックをするだけ。
残念なことに、深紅が袋を預かると言ったあの日から既に一週間が経っていた。まったく、自分の情けなさにも呆れてしまう。あれからうじうじ考えまくって、ようやく決心がついたのは昨日の昼のことだ。では何故その日のうちにこのドアを叩かなかったというと、深紅が友達の家に泊まりに行ってしまったからだ。ちなみに彼氏の線は無い。女の子二人とどちらかの母親らしき人が車で深紅のことを迎えに来ていたからだ。深紅の病気のことを当然分かってのことだと思う。
そして今日の夜に帰ってきた。夕食は済ませたらしく、風呂に入ってすぐ部屋に行ってしまった。僕への態度は相変わらずのままだ。今日最後に彼女が僕に喋ったことといえば、「お風呂の水抜いておいてね」だ、『おやすみ』ではない。そろそろ僕も少し腹が立ってきていた。この一週間、僕がどんな思いで過ごしていたのかを少しは考えて欲しい。確かに自分でなんとかしたい、とは言ったが今僕を悩ませているのは、どちらかというと深紅の態度だ。そこまで冷たくあしらわなくたっていいじゃないか。
意を決してドアを二回ノックすると「はーい、開けていいよー」と聞こえたのでゆっくりとドアノブに手をかけた。
実は深紅の部屋を訪れたのは初めてではない。最初に中に足を踏み入れたのは生活が始まって三日か四日経った頃だった。夕食中に何でもない会話をしていたら、スケッチブックを使い切ってしまい、それに気付いた深紅が僕を部屋に招き入れてくれたのだ。そして勉強机の一番下から新品のスケッチブックを取り出して僕に渡してくれた。使い切ったスケッチブックは何に使うのかよく分からないけど、彼女が欲しいと言った。スケッチブックの中身はミミズが這ったような汚い字なので渡すのは嫌だけど、貰った身分なので仕方なく返却した。
どうしてこんなにスケッチブックを持っているのか疑問に思い、貰ったばかりのまっさらなスケッチブックに書き込んで聞いてみると、絵本を書いているからだと、少し恥らいながら彼女は答えた。見せてくれと頼んだのだけれど、「もう少しうまくなったらね」と軽くあしらわれてしまった。まったく不公平な話だ。
それから度々、使い切ったスケッチブックを新品と交換するために、深紅の部屋を訪れることがあった。だけど、この一週間はほとんど会話をしなかったせいもあって、ここへ来る機会はなかった。
深紅の部屋は、およそ彼女の可愛らしさからは想像できないくらいさっぱりしていた。僕の部屋と同じフローリングの床に、勉強机と小さな布団が掛かったセミダブルのベッド。中央に置いてある折りたたみ式のガラステーブルには、いつも化粧ポーチと鏡だけがちんまりと置いてあった。壁に収納されたクローゼットがあるためか、深紅の部屋はとても広く見える。そして、少しだけ寂しくも感じた。きっと女の子の部屋には、もっとそれらしく彩る物があるはずだからという、男の勝手な先入観がそう感じさせたのかもしれない。それっぽい物と言えば机の片隅に置かれた黄色くてまあるいヒヨコの人形だけだった。
扉を引くと、正面の勉強机に座り、体をねじってこちらを見ている深紅と目が合った。彼女は『あっ』となった後、机に手をついて立ち上がり、僕と向かい合った。
「どうしたの?」
無表情が胸に痛い。用意してきたスケッチブックを見せてやる。いつもより丁寧に書かれた言葉。
『袋の中 見せて欲しい』
「ふうん、やっと来たのね」
紙芝居みたいにページをめくる。
『遅くなってごめん』
「どうしてあなたが謝るのよ」
少し胸が軋む。『あなた』ときたか、でも負けるわけにはいかない。次に見せるページを確認してから、書くのに苦労した長文を広げた。ところどころ間違えてしまって、言葉の間に塗りつぶされた四角い記号が挟まっている。
『あれからよく考えてみた。自分の心と向き合うのは大切だけど、俺は一人じゃない。深紅がいる。爺ちゃんや婆ちゃんだっている。それから、深紅にはやっぱり俺のことをしっかり見て欲しい。その代わり、深紅がこれから病気に立ち向かうときに、辛かったり、悲しかったりしたら、隠さないで見せて欲しい。そうやって一緒に歩いて行きたい』
読んでいる彼女のことを固唾を呑んで待っていると。やがて、彼女の視線が僕の顔に戻る。僕の知らない表情。怒っているのか、悲しんでいるのか、喜んでいるのか。ただ、少しだけ、その茶色い瞳は湿っているように見えた。
「私……ごめんなさい……」
驚いたことに、深紅の瞳が一瞬揺れたかと思うと、ぽた、ぽた、と二つの雫が頬を伝って床に落ちた。
二人の間に静寂が訪れる。窓の外から吹き込む風に混じって、微かに鈴虫の鳴き声が聞こえた気がした。どうして泣いているのか、その理由は僕には分からないが、次々に流れ落ちる涙を必死に拭う彼女の姿は、寂しそうで、とても弱々しく見えた。
しばらく経ってから、机の引き出しから例の麻袋を取り出し、赤く腫らした目で真っ直ぐ僕を見つめる。
「それじゃあ、これ、返すね……」
両手で差し出された袋を受け取ると、僕のことを待っていたかのようにあの音が鳴る。本来、その美しい音色で人の耳を喜ばせたり、注意を引くために奏でられるであろうその音色は、僕を壊すための引き金、もしくは心の奥底にある重厚な扉を開けるための鍵でしかなかった。
耳の中に水が入ってしまったときのように音が遠くなってゆく。ただひとつ、心臓が脈打つ音だけがハッキリと、いつまでも鳴り響いていた。
世界が震えだした瞬間、僕の視界が固定され、世界は深紅だけになった。いつの間にか深紅が両手で顔を押さえてくれている。
「美月、大丈夫、ゆっくりでいいから」
彼女を見つめたまま三つほど深い呼吸をして、頷く。
麻袋の中に手を入れ、指先に当たったものを慎重に取り出す。もう検討はついている。この中に入っているのは全てあの日僕が身につけていたもの。
財布、時計、取り出した物を彼女に渡して次に移る。携帯電話、そしてキーホルダーが付いた家の鍵……。覚悟をしてから対面すれば、どうってことはない。僕は茶色い猫をじっと見つめた。母の最後の姿が目に浮かぶ。何度も僕を苦しめてきたあの日の映像。大丈夫、今僕は一人じゃない、目の前には深紅がいる。どうってことはない。ただ涙が出るだけだ。
「美月……」
震える声で僕の名前を呼んだ深紅は、いつの間にかまた涙を流している。僕より三つも年上のくせに、本当に泣き虫だ。僕よりも涙を流しているじゃないか。
(ありがとう、深紅)
それから目を閉じて、あの日の母にお別れを言った。
(もう僕は平気だよ。さようなら、母さん。長い間引き止めてごめんね。)
ゆっくり目を開けて、深紅に頷いてみせる。彼女は笑顔で頷き返してくれた。
「頑張ったね、美月」
二人の笑顔の間を一陣の風が通り抜けた気がした。その瞬間左手の力が抜け、麻袋が手からこぼれ落ちた。床に着地した麻袋から不思議な音が聞こえた。
『チリン』
無意識に視線は右手に移る。茶色い猫と目が合う。
(……え?)
背筋が凍りついた。得体の知れない恐怖が徐々に僕を飲み込んでくる。体が勝手に動き始めて、目に映る映像だけがゆっくり動いてゆく。床に落ちた麻袋が近づいてきて、僕の手が荒々しく中をまさぐる。ぴたっと手の動きが止まり、掴んだ物をゆっくり引き出して握っている手を開く。
キーホルダーが付いた家の鍵。笑顔で僕を見つめているは鈴付きの首輪を巻いた黒い猫。
(どういうことだ、これは……これはきっと母のだ……。それは分かる。)
全身の肌が針で刺されたようにチクチクする。
「みつ……き……?」
(あの日、無残な亡骸の傍らで見つけた母の鍵、ただそれだけのはずだ。僕をあの時間に引き戻す鈴が付いたキーホルダー、それだけのはずだろ。なんで、なんでこんなに胸がざわつくんだ。さっきお別れしたはずだろ? たかだかお揃いのキー……ホルダー……で…………)
あることに気が付いた。多分、初めから分かって知らないふりをしていた。これはお揃いのキーホルダー。頭の中に再び映るあの瞬間の映像。そこから逆再生されていく。
黒い猫のキーホルダー。怯える女性。破裂したような血液。
(やめろ。もう分かった。見たくない。やめろ。)
「……ょっと! みつ……どう…………の?」
どんどん時間を遡っていく映像の外側で微かに深紅の声がこだまする。だが逆再生は止まってくれない。
歌舞伎町のネオン街。声を掛ける人、掛けられる人。電車の中。乗ってくる人、降りていく人。茶色い猫のキーホルダー。
まだ逆再生は止まらない。着替えている僕。コンビニの弁当。布団に包まっている僕。朝から夜になる。
(やめてくれ! 頼む! あああぁぁあ!)
カチリと音がして、映像は止まる。
(…………)
気付いてしまった。体が鈴の音を嫌がる本当の理由。声を出すことが出来ない理由。
――母が、死ぬ前日、くれようとした、お揃いの、キーホルダー。
それを僕はどうしたか。あのときどんな言葉を交わしたか。母はなんて言った? 僕はなんて言った? 震えが止まらない。
(嫌だ……僕は……嫌だ、怖い……助けて……深紅……)
深紅が居た方向に助けを求める。たぶん、きっと僕は情けない顔をしている。酷く怯えているのが自分でもよく分かる。できればこんな顔見せたくないけど、もう限界だ。このままではいけない。頭がおかしくなる前に、深紅……。
身体に軽い衝撃が走る。一瞬視界が大きく揺れた。さっきまで深紅が居た場所。そこにはただ壁を向いた机と椅子が見えるだけ。視界の隅に動く物が見えた。微かに桜の香りがする。深紅だ……、深紅の頭が僕の肩にある。深紅の身体がここにある。急に身体に体温が戻ってきた。二人分の体温がとても暖かい。
――どうしよう深紅……。僕、母さんを殺しちゃったかもしれない……。
僕は小さな深紅の背中に手を回し、更に近くへと抱き寄せた。
さっきから泣いてばかりなのに、溢れ出る涙は枯れる気配がまったく感じられない。だけどもう、止まらなくたっていい。ずっと深紅とこうしていられれば……後はもう何だっていい。これ以上考えたくない。