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言葉(仮)  作者: アヒル
言葉(仮)
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三章 【療養】

 翌朝、相変わらず母が夢に出てきたものの、今までのとは違う感覚で目が覚めた。未だ悲しい世界の中だけど、少しだけ出口が見えた気がしていた。

 鳥の会話がすぐ近くで聞こえる。ベッドの枕側に面した窓のカーテンを開けてみると、すぐ下に見える瓦屋根から、スズメが何匹か飛び立って行った。その代わりに飛び込んできた風景で僕は昨日のことを思い出した。

 右端に岩が積み重ねられ、その周りに玉石が敷き詰められた広い庭園、白い塗料で壁を塗られた大きな納屋、車二台くらいが平気で通り抜けられるような砂利の通路、遠くで揺れる巨大な杉の木。

(そうか、ここはもう病院じゃないんだ……)

 そうして、ぐるっと部屋を見回してみた。ベージュの壁紙に、赤茶色のフローリング。そして、僕が寝ていた大きめのベッドの他に、たくさんの家具が置かれていた。箪笥、クローゼット、本棚、化粧台、テーブル、ベッドの脇の長いサイドボードには液晶テレビやノートパソコンまである。

 確か昨日ここへ案内されたときは、『美月くんの部屋』としか説明されなかったが、明らかに客用の部屋ではなく、誰かの部屋だ。しかも女の人。そこで僕はひとつの答えに辿り着く。恐る恐るクローゼットを開いて、この部屋の持ち主を特定しようとした。

 驚いた。中にぶら下がっていたのは男物の服ばかりだった。僕は軽く混乱しながら、その服ひとつひとつを見てはっとなった。

(あれ? これは……)

 僕が持っているお気に入りのジャケットにそっくりだった。もしや、と思いハンガーに掛かっている全ての服をもう一度観察してみると、なんのことはない、全部僕の物だった。その後、箪笥も一段ずつ確かめたが、やっぱり入っていたのは僕の下着やくつ下、季節ごとの洋服ばかりだった。

 昨日の夜、お風呂に入ったときは病院から持ってきた下着と寝巻に着替えたから気にしていなかったけど、たぶん、僕が困らないよう、家から着替えだけ先に持ってきてくれていたんだ。僕はそのやさしさに感動して、ありがとう、と心の中で呟いた。

 僕はドアを開けて部屋の外に出た。目の前にトイレがあったので、とりあえず用をたしてから一階へ行こうとしたとき、背後でドアの開く音がした。僕の隣に位置する、階段から一番遠い部屋から出てきたのは赤いTシャツに白いハーフパンツ姿のみくちゃんだった。

「ずいぶん遅いお目覚めね」

(今何時?)

(ああ、喋れないんだった……)

 僕は今が何時か分からないことを伝えようと、とりあえず首をかしげて見せた。

 それを見た彼女は何をどう受け取ったのか、軽く握った手を口に当てて『うふふっ』と笑った。そして、ひと息ついてから僕の方を向きなおり、やさしい笑顔で「おはよう」と言った。僕もぎこちない笑顔を作ってから頷いた。

「ご飯、すぐに用意できるわよ、食べる?」

 お腹を触り、食欲を確かめてみるが、ちっとも減っていないので首を横に振って答えた。

「そう、じゃあお茶いれてあげるから、顔洗っておいで」

 言い終えたあと、彼女は小さく『あっ』となった。

「緑茶とコーヒー、どっちがいい?」

 少し考えてから、困った。首を縦に振っても、横に振っても答えにならない……。瞼を何度か細かく閉じて考えると、頭の上に電球が光った。

 僕は彼女を自信満々の顔で見ると、右手でカップを持つ指を作り、口元で見えないコーヒーをすすって見せた。これで通じるはずだ。

「ぷっ」

(ぷっ?)

「ぷくくっ……あはははははっ」

 意味が分からない。何故か彼女はお腹を抱えて笑っている。その光景を見て、僕は呆然と立ち尽くしていた。

「ふふっ、はー、ごめんごめん。コーヒーよね、分かる分かる」

 腑に落ちない。じっと見つめて問い詰めると、彼女はうっすら目じりに溜まった涙を拭いながら説明した。

「だって、美月くん、あーんまり可愛いんだもの」

(!?)

 頬が熱を持ち始めたのが分かったので、サッと身を反転させ、わざと大きな音を立てて階段を降りた。途中、後ろから「ごめんてばー」と聞こえたが、全く反省の色が感じられない声だったので、そのまま洗面所へ向かうことにした。

 風呂の脱衣所と兼用の洗面所は、畳にして三畳くらいの、とても広々とした空間だ。ふと、鏡の中の僕と目が合った。その顔は驚いたことに、笑顔だった。――だった、というのは当然すぐに驚いた顔に変わってしまったからだ。

 楽しかった。こんなに楽しい気持ちは本当に久しぶりだ。昨日まで塞ぎ込んでいたことが、遠い過去に感じるくらいに。ただ、楽しくて、まだ笑える自分が嬉しかった。

 昔の自分に戻れるかもしれない。そんな期待に胸が膨らんだ。

 そういうふうに考えられるのは、みくちゃんのおかげだと感じていた。昨日抱きしめてくれたこともあるが、小さい頃から僕を知っていて、深い悲しみを共有してくれる歳の近い女の子。そんな子が近くに居てくれる、それだけで僕は救われる気がしたのだ。



 顔を洗うとぼさぼさの髪の毛が気になって、少しお湯で濡らして整えた。居間に向かう途中、キッチンでコーヒーメーカーにお湯を注いでいる楽しそうなみくちゃんの姿がチラっと見えた。するとなんだか急にさっきの仕返しがしたくなったので、キッチンを通らず玄関脇から居間に入り、隅に置いてあるスケッチブックを手に取った。

 昨日の夕飯の後、好きに使っていいと言われたので、よく使うことになるであろう居間に置いておくことにしたのだ。

 しばらくしてみくちゃんが両手にコーヒーカップを持ってやってきた。僕の目の前に「おまたせ」と言ってひとつ、僕から見て右斜め前にもうひとつのカップを置くと、そこにぺたんと力を抜いたように座った。この座り方は彼女の癖なのだろうか。

 カップを手にとって『ふー』と息を吹きかけたところで、ようやく僕がスケッチブックを抱えていることに気が付いたようだ。

「なあに? にやにやして」

 勢いよくさっき書いた言葉を見せてやった。

『姉さんも とーっても可愛いよ 最初見たときはおどろいたよ!』

 それを見た彼女が『!?』となるのが分かった。みるみるうちに耳まで真っ赤になるので、こっちまで赤くなってしまいそうだ。

「ばっ! ばかじゃないの!」

 続けて、両手で抱えたコーヒーカップに目を落とし『ちっとも可愛くないわよ……』と、お門違いなことを小声で言った。

 ちなみにこの言葉を書くとき、彼女のことをなんて書こうかを迷った。さすがに久しぶりに彼女のことを呼ぶのに『みくちゃん』では恥ずかしい。かといって彼女の名前を呼び捨てにするなど僕の性格上不可能に近い。ということで、無難に三つ年上の親族としての呼び名を書くことにしたのだ。

 仕返しは大成功に終わったが、なんか……ばつが悪くなって、僕もスケッチブックを床に置き、カップを手にとってコーヒーを冷ます作業に移った。

 しかし『ばかじゃないの』とは心外だ。最初に見て驚いたのは嘘ではない。彼女はとても可愛い。というか綺麗だ。僕のタイプとかそういうのじゃなく、誰から見てもそうだと思う。

 代表的なたまご型の、小さな顔。若干目じりが垂れた、切れ長の大きな目。薄い茶色の大きな瞳。小ぶりでスッと通った鼻。少し薄い唇は健康そうな朱色をしている。

 昔からそうであった赤茶色の髪の毛なんかは、胸の位置まで伸びていても痛んでおらず、サラサラでやわらかそうだ。ランダムに毛束を作った前髪がゆるやかに右に流されていて、とても彼女の上品な雰囲気に合っている。

 そして何より極めつけは、透き通った白い肌だ。これは僕が将来結婚する女性を選ぶ際に絶対外せないこだわりでもある。おまけに純粋ときたものだ。ここがもし都会だったら、きっと悪い大人に騙されてしまっていたことだろう。

 こんなことを考えながらコーヒーをすすっていると、ふと気付いてしまう。僕がみくちゃんのことを、ものすっごぉーく意識していることに。

 そんな瞬間、彼女と目が合ってしまう。コーヒーをすすりながらの上目遣いに。

 すぐさま目を逸らしたが遅かった。今度はこっちが真っ赤になっているのが鏡を見なくても手に取るように分かる。彼女にバレないよう、顔を下に向けるとスケッチブックがあったので、話題転化をそいつに託した。

『そういえば じいちゃん達は?』

「あぁーと、畑に行ったわよ。お弁当持って行ったから夕方まで帰ってこないわねー」

 そうだ、ここは生粋の農家だった。どれぐらいの広さなのかは分からないが、畑と果樹園、それから松茸用の山まで持っているのだ。爺ちゃんとこの作物は本当に美味しく、特に果物は逸品だ。毎年ダンボールいっぱいに送ってくれるおかげで桃と巨峰は子供の頃からの大好物だ。

 それにしても夕方まで二人きりなのか……。ふと壁に掛けてある時計を見ると、まだ十時半だった。

 田舎特有の早い夕飯を考えても、爺ちゃん達が帰って来るまで軽く六時間はあるだろう。……参ったな。

『この後どーするの?』

「んー、何したい? 決めていいよ?」

『特に お姉さんは?』

「えー、私も特にー……あ、良いお天気だし、お散歩行こっかー」

 悪くないと思い頷いた。病院にいる間に気付いたのだが、自然の中でボーっとするのは、案外性に合っているみたいだ。

「じゃあ、お昼食べたら出掛けましょう」

 再び頷く。

「公園と川ならどっちが良い?」

 さっき書いた言葉の一部分を二重線で消して、その上に相応しい言葉を書き足した。

『川かな お姉さんは?』

「私も暑いし川が良いかなー」

「っと、そうだ美月くん。できればその『お姉さん』っていうの止めてくれる? なんだかちょっと他人っぽい気がするとゆーかー……えっと、皆私のこと『みく』って呼ぶから美月くんもそう呼んでくれると嬉しいな」

 ひとつ頷いてから、僕からもお願いした。

『じゃあ みくもオレのこと 呼び捨てでいいよ』

 それを見てクスッと笑った。

「分かったけど、名前、ちゃんと漢字で書いてよー」

 彼女はスケッチブックを奪い取ると、僕に見えるように書いて説明した。

「深い紅って書くの。気に入ってるんだから」



 その後も僕と深紅の、目と耳で受け取る会話は続いた。会話、というよりは僕の一方的な質問ばかりだったが、彼女は何にでも嫌な顔せず答えてくれた。

 今が七月の終わりで、高校最後の夏休み中だということ。小説が好きで読むときは日に五冊以上読むらしく、今までの最高記録が十冊だということ。料理が得意で、スパゲティには誰にも負けない自信があるということ。進学よりも児童教育、主に絵本や童話の書き方を教えている専門学校に通い、将来は絵本作家を目指していること。

 そして最後に思い切ったことを聞いてみた。

『好きな人とかはいるの?』

 きっとこんな大胆なことを聞けるのは、喋ることが出来ないおかげかもしれない。それと、『彼氏は居ないの?』と聞かなかったのはもちろん居てほしくないからだ。しかしその期待はあっさりと裏切られた。彼女は黙ってこくりと頷き、それどころか付き合い始めて一年になることまでをも教えてくれた。

 聞くんじゃなかった。僕は我ながら自分の馬鹿さ加減に呆れた。『彼氏はいるの?』と聞いておけば、好きということまで聞かないで済んだのに、自分でショックを倍増させてどうする。

 まぁ、落ち着いて考えてみれば誰だって分かることだ。そもそも、これほど整った美しさを持った年頃の女性に、彼氏が居ないことの方がおかしい。だがしかし、落胆しながらも、彼女が頷いたときに見せた表情に、僕は一抹の希望を覚えていた。

 なんというか、さっき僕が『今朝の仕返し』をしたときに、あれほど真っ赤になった深紅が、本来恥ずかしいことであろう好きな人のことを聞かれ、色を変えずあっさり答えたのだ。さほど好きではない、僕は勝手にそう思い込むことにした。

 それから深紅が昨日の残り物を温めてくれて、僕らは軽い昼食をとった。後片付けは彼女から半ば強引に奪い取って僕がやった。もちろん彼女に気に入られるためだ。

 寝巻のままだったので、一旦部屋に戻り出掛ける準備をする。箪笥から探し出したお気に入りの白いプリントシャツとちょっと高めのジーンズを着込んだところで、鳥のさえずる声が聞こえていることに気付いて、今度はゆっくり窓の外を覗いてみると、そこには三羽のすずめが少し飛び跳ねては何かをついばみ、また少し飛び跳ねてはついばむ、を繰り返していた。どうやらここは彼らのたまり場らしかった。あまりにも目と鼻の先で楽しげなダンスを踊るので少し見入ってしまった。

 覗いたときと同様に、ゆっくりとその場を離れ玄関へと向かった。既に深紅は用意が済んでいるようで、サンダルを履いた状態で玄関に腰掛けていた。僕が階段から降りきるのを確認したところで、「じゃ、行こっか」と言ってゆっくり立ち上がり、玄関の引き戸をこれまたゆっくり開けて外へ出た。

 彼女の動作はいちいちしっかりしている。しっかりしている、というか、例えば今の一連の動作にしても、『外に出る』という感じではなく、『立つ』と『歩く』と『引き戸を開ける』と『また歩く』をひとつずつこなしているような感じだ。喋り方はそうでもないのだけれど、実はかなりおっとりした性格なのかもしれない。

 外へ出てみると、真上から差し込む夏の日差しのせいで、一瞬にして白い世界に引きずり込まれた。目を細めて前を見やると、白いワンピースに麦わら帽子を頭にのせた、お散歩用の彼女の姿がとても眩しく見えた。遠慮の無い陽光が浴びせられた肌は、より一層白く光っていて、とても美しかった。

 高鳴る胸を抑えながら引き戸を閉めると、彼女は再び前を向いて歩き出し、僕はそれに付いて歩いた。そう、田舎というところは鍵を締めるという習慣が無い。無用心と思うかもしれないが、これでも開け放してある勝手口から猫や狸が入り込んでくることはあっても、空き巣に入られたり、強盗に押し入られたということは一度も耳にしたことが無い。田舎とはどこもそういうものなのだろう。

 家の前の砂利道を抜けると、ぎりぎり車同士が通り抜けられる程度の舗装された道路に出た。そこで彼女は一旦立ち止まってから、僕の方を振り向いた。

「そんなに遠くないから、すぐ着くわよ」

 そう言って道路の中央を歩き出す。その先に目をやると、しばらく一本道だということが分かったので、今度は彼女と並んで歩くことにした。すぐ隣でゆっくり歩く彼女。ふと見ると笑顔をこちらに向けていた。どうしてこう、いつも彼女は楽しそうなんだろう。嫌いな物ばかりが並んだ食卓でも、作ってくれた人のことを考え、彼女は喜んで食べるに違いない。きっと、そういう人種なのだ。

 六年しか経っていないというのに、目の前に広がる町の表情には見覚えが無かった。それもそのはず、ここへ来るときはいつも冬真っ盛りの季節だったので、全く白っ気の無い夏の景色を僕は知らないのだ。

 凍えるほどに静まり返る白銀の世界とは真逆の、大小様々な木々によって鮮やかに彩られた深い緑の大地。遠くで聞こえる小川のせせらぎ、頭上でその存在を誇らしげに誇示している大きな太陽、山から青葉の匂いを運んでくるさわやかな風、その全てが合わさって僕の知っている田舎の景色とは違う物へと変えてしまっているのだ。

 たった半年。日にして百八十日の間に、こんなにも世界は変わるものなのかと、ただ驚いていた。

「なぁに? 深刻そうな顔して、何か考え事?」

 そうか、僕は深刻な顔をしていたのか、今思っていたことを伝えてあげようと思って『あっ』と、なった。

(しまった、スケッチブックを忘れてきた。)

 取りに戻ろうかと少し考えたが、『ま、いっか』と思い、首を横に振って答えてやった。深紅の歩調のようにゆるやかな速度で。



 本当にそれほど遠くなかった。散歩を楽しみながらゆっくりと歩いてきたので二十分くらい掛かってしまったが、普通の人の速さなら十分、自転車なら五分もしないで着いてしまうくらいの距離だろう。

 家の前の背の低い木に囲まれた道路を真っ直ぐ進み、突き当たりのT字路を右に曲がって、しばらく歩くと堤防が見えた。少し急な坂道を上ると橋になっていて、その脇から川へ降りることができるのだ。そこに、彼女のお気に入りだという場所があった。嫌なことや、辛いことがあったときは一人でここに来て、日が落ちるまで川を眺めていると、それがさっぱり消えていくのだと、道中に照れながら教えてくれた。

 そのお気に入りの場所は、川というか、自然に出来上がった公園のようだった。背が高くなった夏の雑草の合間に、一人がやっと通れるような道があり、そこを下ると今度は開花したばかりの白やピンクのコスモスが揺れている。その合間に流れる幅が五メートルくらいの川はとても緩やかに流れていた。

 深紅はサンダルを脱ぐと、川の縁に腰掛けて足だけを川に泳がせた。

「気持ち良いよー、美月もやってごらん」

 サンダルを脱いで同じようにしてみると、川の水は思ったほど冷たくなかったが、それでも、いっきに夏の蒸し暑さから僕を開放してくれた。その心地よさに自然と息が漏れていた。

「うふふっ、気に入ってくれた?」

(うん)

「とっても良い場所でしょー?」

(そうだね)

「あっ、そうだ、明日ここでピクニックしようかー?」

(うん)

「サンドイッチ作ってあげるね」

(うん)

 深紅もスケッチブックが無いことが分かって聞いているのだろう。頷くだけで会話が成立する。彼女のやさしい気遣いがとても嬉しい。そんな僕の感情が透けて見えたのか、彼女は少し考えてから、いたずらっぽい表情を僕に向けた。

「飲み物は紅茶とコーヒー、どっちが良い?」

 またか、と思い今朝のようにカップを持つ手を作ったところで深紅の真意に気が付いた。彼女はにやにやと憎たらしい表情でこちらを見ているので、悔しくなった僕は必死で考えた。するとすぐに閃いてしまった。僕は天才ではないだろうか。

 わざとらしく彼女の前に見えないカップを持っていき、もう片方の手で茶葉の入ったティーパックを摘んだ指を作り、紅茶を作る仕草をしてから飲んで見せた。深紅は、はっとなってから「おー」と言って小さく手をぱちぱち叩き始めた。僕は腕を組んでどうだと言わんばかりの表情を作ってみせた。

 すると彼女は今朝と同じように口を隠してクスクス笑い出した。

「やぁっぱり、美月って……あ、なんでもない」

 怪訝そうな顔をする僕からサッと顔を逸らしたかと思うと、なんか勝手に赤くなっている。下を向いて両手で髪を梳かす仕草がたまらなく可愛い。

(あぁ、なるほど……)

 きっとまた『可愛い』と言おうとして、その後に自分がされた『仕返し』を思い出したのだろう。深紅のそんなところがまたとても可愛いらしかった。こんな彼女を見て好ましく思わない奴などこの世にいないだろう。

 すこし甘酸っぱい沈黙が流れ、二人で穏やかな午後を満喫していた。

 しばらく経って、深紅は思い出したかのように帽子を脱いで背中の方に置き、代わりにぷちっと一輪のコスモスを摘んで、顔の前でくるくる回した。

「私ね、本当に安心してるの。病院にお見舞いに行ったとき、私やお爺ちゃん達がどんなに話しかけても全く聞こえてないみたいで、もうずっとこのままなんじゃないかなって、それから面会出来なくなっちゃって……すごく心配だったの」

 視線が少し下に下がったのが分かった。それから彼女は『でも……』と呟いてから僕の方を見て言った。

「本当に良かった。美月がこうしてここに居ることが、本当に、嬉しいの、あれ? やだ……」

 深紅は不意に流れた涙を隠そうとまた下を向いてしまったが、隠すまでもなく、僕は彼女のそれを見てはいけない物のように思えて、ただ緩やかな川の流れをじっと見ていた。

 彼女の気持ちはとても嬉しかったが、その中にひとつの違和感を感じていた。

 ――何故僕のことをこんなにまで心配してくれるのか……。

 まず、彼女が僕のことを好きだということは有り得ない。何せ子供の頃遊んだといっても年に一回程度だし、それに六年も会っていなかったのだ。だとすると、母を亡くした僕のことが不憫でならないのか、それとも数少ない親戚なら当然のことなのか……。

 直接聞こうにも、今の僕はその術を持っていない。

 その後もあれこれ自分なりに考えてみたが、再会して二日しか経っていない彼女の心など僕に分かるはずも無かった。



 どれくらい経ったのだろう。僕らが座っている場所はいつの間にか太陽の角度が変わって橋の陰になっていた。

 そろそろ帰ろうかということになり、足を川から出して、体育座りの格好で少し乾かしてから僕らはサンダルを履いて立ち上がった。そこで深紅だけが体勢を崩して前に倒れかける。

「わっ」

 反射的に僕が肩を捕まえてやる。

 彼女の肩はとても細くてやわらかく、力を入れすぎると壊れてしまいそうだった。リップが薄くひかれた唇から吐息が漏れ、僕の肩にあたっているのが分かる。それに密着したときの彼女の身体は、並んで歩いているときには気付かなかったが、僕よりもひとまわり小さくてほんのり桜の匂いがした。

 深紅は顔を上げると、少し照れて「えへへー、ありがと」とお礼を言った。

 僕が手を貸して体勢を直してやったところで、赤くなっているであろう顔を悟られないよう、彼女よりも先に来た道を引き返した。

 深紅の彼氏は、あの細い肩を抱きしめたことがあるのだろうか、あの可愛らしい唇に触れたことはあるのだろうか。それともその更に先に……。つまらない男と思われるだろうが、彼女を近くに感じれば感じる程、そう思わずにはいられなかった。

「ねぇ」

 ん、と振り返る。

「ここまで連れてきてあげたお礼に」

 スッと細くて白い手を僕に差し伸べた。

「私を連れて帰ってくれない?」

 は? という顔をしてると、彼女は「ちょっと疲れちゃったみたい」と付け足した。僕は諦めた顔で深紅の手を取り、顔を見ないようにして、ゆっくりと道路まで出た。そこで手を離すと、あろうことか彼女は腕に巻きついてきたのだ。気が動転した。もう隠せない。耳まで熱い。『なんのつもりだ!』という顔で必死に抗議すると。

「ね、もう足が疲れちゃって、うまく歩けないのー、おねがーい」

 というわけの分からない嘘で誤魔化してきた。そんなわけないだろう、と軽く振り解こうとしたが、思いのほか強い力で巻きついているので、ものすごく恥ずかしかったが、僕はとうとう観念して歩き出した。

「わーい」

 ……これは一体なんなのだろう。彼女がそうしてきた理由を考えようとするが、さっきから腕にふにふに当たる物が思考を妨げる。初めて感じる女の人の胸の感触。厳密に言うと事故で何度か触れてしまったことはあるが、こんな特別な状況は初めてだ。深紅の胸は見た感じ大きいサイズでは決してないのだが、ぎゅうっと押し当てられると意外にもしっかりその存在を認めることができた。いや、むしろ大きいと思った。

 やばい……。ジーンズが窮屈になってきたかと思うと、途端に歩きづらくなってきた。バレていないだろうか、そう思いチラっと深紅の顔を見ると、彼女は何の疑いも無い天使の笑顔でこちらを見ていた。

(だ、大丈夫、バレてない。たぶん……)

 少々ぎこちない歩き方だが、幸いにも彼女の歩調がゆっくりなのが功を奏した、といったところか。

「美月ったら、大きくなったのねー」

(!?)

 固まった。

(ば、ばかな……)

「昔はこーんなに小さかったのに」

 といって手で高さを作った。

「今では私より大きいなんて、男の子ってすごいわねー」

 それを聞いていっきに全身の力が抜けた。

(そっちかぁ~~~~)

「ん? どうしたの?」

(なんでもな~い……)

 僕は脱力した手をひらひらさせた。



 無事家に辿り着くと、深紅は僕の腕から離れ、おぼつかない足取りでふらふらと玄関まで行って引き戸を開けた。

(あれ、本当に具合でも悪かったのかな。)

 家の中から深紅の元気な「ただいまー」の後に、「おかえりぃ」という婆ちゃんの声が聞こえた。散歩の報告を婆ちゃんにしているところを見ると、特に具合は悪くないようだった。

 それから順番でお風呂に入り、夕食を食べ、なんとなく皆で夏休みの特番を見た。僕の様子が昨日とは、がらっと変わっていることに気付いたのか、爺ちゃんが「なんか良いことでもあったんか」と言うので、僕は親指を立てて見せてやると「ほうかー、良かったなー」と、それ以上は聞かなかった。少しだけアクシデントが起きたものの、誰かさんのおかげで本当に良い一日だった。それは間違いない。

 『ふああ』とあくびしているその人を横目に、たぶん、僕はこの人が好きなんだろう、そう思った。といっても彼女をどうこうしようという気は今のところ更々無い。なんせ曲がりなりにも両思いの彼と付き合っているのだから……。

 特番の後に放送された何度も見たことのあるアニメ映画が終わった頃、壁掛け時計が十一時を知らせるオルゴールのメロディを奏でた。ふと、明日は早起きしてやろうと思い、スケッチブックに言葉を書き込んで見せてやった。

『よし ねる』

「じゃー、わたしもー」

 二人で居間を後にする。爺ちゃんと婆ちゃんは映画の途中で床についてしまったので、電気を消して回って二階へ上がる。部屋の前に着いて、深紅の「おやすみぃ」に手を振って答えてから部屋に入った。

 ベッドに横になり、クーラーは使わず窓を開けて寝ることにする。ここは山から吹き降りてくる風がとても涼しいので、クーラーを使う必要が無いのだ。さっそく網戸越しに入って来た心地よい風を感じて、少し考え事をした。

(やっぱりそうだ、この部屋……。この部屋は深紅の母親の部屋だ。)

 今朝、部屋を見回したときに辿り着いた答え、それはここが深紅の母親の部屋だということ。そして僕がこの部屋に居座り、今日一日全く母親の話が出てこなかったということの答え、それは深紅の母親がまだ戻ってきていないということだった。

 数年前、母が受話器に向かって誰かと口論してるのを見つけて問いただしたことがあった。『カケオチ』ってどういうことかと。あまりに大きい声だったので聞こえてしまったのだ。

 母は迷いながらも教えてくれた。深紅の母が男と逃げたと。子供ながらにショックを受けたのを鮮明に覚えている。とっても優しかった人なのに、家族を置いて逃げるだなんて、誰が想像できるだろうか。あれは確か三年くらい前だったと思う。それからまだ帰ってきてないのかと思うと、深紅のことが可愛そうに思えて仕方なかった。

 彼女は今どんな気持ちなのだろうか。自分のことを捨てた母のことを今でも恨んでいるだろうか。それとも、三年経った今でも逢いたくて仕方のない気持ちなのだろうか。どっちだとしても、僕は深紅が早く母に逢えると良いなと思っていた。彼女の母はまだ生きているのだから。

 ――そんなことを考えたのがいけなかった。



 あの日と同じ光景が夢の中で再現され飛び起きた。

 胸が物凄い速さで鳴っていて、うまく息が出来ない。僕は、叫びそうになる衝動を抑え付けるため、震えている手を顔に当てて呪文を唱える。

(落ち着け、大丈夫。落ち着け、大丈夫。)

 駄目だ、手の震えがどんどん大きくなる……。

(落ち着け! 大丈夫だから! 落ち着け!)

 酷く汗を掻いていて、寝巻きがビショビショだった。

(着替えなくちゃ……。)

 自我が崩壊しそうになるのをなんとか制止しながら、箪笥から代えのシャツを取り出して、半ば千切り取るように服を脱ぎ、新しいシャツに手をかけた。意識を着替えることに集中して、なんとかこの場を切り抜けようとしたのだ。

 その試みはうまくいっていた。とりあえず息が出来るようになっていた。

(落ち着け、大丈夫。落ち着け、大丈夫。)

 そうしてシャツに首を通して、無事、着替え終わったときだった。

 この部屋に。長野の田舎であるこの部屋に。背後から鳴るはずの無い音が響き渡った。

「チリン」

 時間が止まる。

 振り向いてはいけないと頭が知らせていたが、人間の条件反射に抗うことはもはや不可能だった。振り向いた瞬間、目が合った。

 いつの間にか少し開いていた網戸から部屋の中に侵入してきたとこだった。鈴が付いた赤い首輪を巻いた黒い猫。

 その刹那、僕はそいつの金色に光る目に吸い込まれた。もう考える力なんて残っていなかった。目の前に横たわるあの日の母の姿。

「ねえ母さん。顔はどこにやったの? 腕と足はどこにやったの? 駄目だよ、こんなに血を流したら死んじゃうよ。早くしまって。ねえ母さん」

 ――僕が悪かったから――



 気付いたのは翌朝だった。

 あろうことか僕はきちんとベッドの上で目が覚めた。身の回りを観察してみるが、着衣や布団の乱れもない。体調は少しだるいくらいで心臓も落ち着いている。酷い夢だった……。

 まだ、あの日の傷は癒えていないようだ。自分でも情けなくなる。昨日は自分でもすいぶん回復したと思っていたのに。いつまで苦しまなくちゃいけないんだ。僕がいったい何をしたっていうんだ。

 苛々している頭を少し落ち着かせてから起き上がり、トイレを済ませて一階へと向かった。

 今朝も既に爺ちゃんと婆ちゃんの姿は無く。キッチンでなにやらごそごそと作業をしている深紅を見つける。きっと昨日言っていたサンドイッチを作っているのだろうと思い、僕は顔を洗ってから声をかけることにした。

 顔を洗い終えてタオルで拭う。仕上げに鏡を見る。すると、僕が着ているTシャツの袖口に、少しだけ血が付いていることに気が付いた。あれ? と思い袖をまくってみる。と、そこに現れたのはくっきりと残った爪の跡だった。僅かに血が滲んでいる。もしや、と思い反対側の腕も見てみると、やっぱり同じだった。

 あの夢を見ているときにでも引っ掻いたのだろうか、痛々しい傷跡だったが、不思議なことに、触ってみてもそれほど痛くはなかった。

 僕は辛気臭い表情の自分を吹き飛ばすように、鏡の前で大きく深呼吸すると、キッチンで作業をしている深紅に『おはよう』の挨拶をしに行った。

 キッチンに入ると彼女はすぐに僕の気配に気が付いて、挨拶をしながら振り返った。

「あっ、おはよー……っ!」

最後の一瞬、深紅の顔が痛みに歪んだのを見逃さなかった。彼女の身に何が起きたのかを探した。すぐに見つかった。足だ。足首に痛々しい包帯を巻いている。一体朝から何してんだこの人は、と思った瞬間。チクリと腕の傷が痛み出すのと同時に、頭の中で映像が再生される。


 ――部屋の隅で膝を抱えて腕を引っ掻いている僕だ。

    口を大きく開いて何かを叫んでいる。


 それを見た瞬間、背筋が凍りつくのを感じた。様子のおかしい僕に気付いて、彼女が慌てて弁解する。

「ち、違うの、これは今朝階段から落ちちゃって……」

 言ってから彼女はハッとなった。何が違うというのだ。それはやましいことがある人の典型的な言い訳じゃないか。今度は腕の傷がズキンと痛んで、次の映像が流れ始めた。


 ――我を忘れて叫び続けている僕。

    必死でなだめようとしている深紅の姿。それを僕は……。

    苦痛に顔を歪める深紅。叫び続ける僕……。


 気が付くと僕は両腕を抱え、小刻みに震えていた。僕の肩を掴んだ深紅が今にも泣きそうな顔で何かを言っている。僕は彼女に謝らなくてはならない。怪我を負わせた責任を取らなくてはいけない。彼女を見て口を開く。

(ごめん……)

 くそっ! 言葉にならない!

(ごめんね深紅……)

 どうしたら良いんだ! 彼女に僕はどうしたら!

「もういいよ……」

(えっ)

「平気だから……」

「もうそんなに謝らなくていいから……」

(通じた……のか?)

 震えが止まったのを見て、彼女はゆっくり僕の腕を解いてから両手を取って言った。

「お散歩、行ってくれるよね」

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