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言葉(仮)  作者: アヒル
言葉(仮)
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二章 【再会】

 あの日から、今日が何日目なのか分からない。いくつか場所を移動して。たくさんの人に話しかけられた。たぶん、ここは病院なのだろう。

 毎日白衣を羽織った笑顔の男に顔を覗かれ、変な言葉で話しかけられる。この人が先生だということは理解できる。でも、何をそんな熱心に喋っているのかが分からない。

 スプーンを操って、食事を僕の口に運んでいる人、この人も医者なのかな。笑っているが、やっぱり何を言っているのか分からない。

 夜が来る。嫌だな。


 あの日から、今日が何日目なのか分からない。いくつか場所を移動して。たくさんの人に話しかけられた。たぶん、ここは病院なのだろう。

 今日はどこかで見たことのある男の人と、女の人が来た。いつものように何かを僕に喋ってる。もちろん分からない。ただ、いつもならみんな笑ってくれるのに。この人たちは笑ってくれない。

 スプーンが口に運ばれる、いつも笑ってくれるから、僕はこの人が嫌いじゃない。でもね。これを食べると夜が来るでしょ。だから今日は食べないことにするよ。

 夜が来る。嫌だな。


 あの日から、今日が何日目なのか分からない。いくつか場所を移動して。たくさんの人に話しかけられた。たぶん、ここは病院なのだろう。

 ――あれ、あの日ってなんだっけ――

 先生、あの日ってなんだっけ。先生、あの日ってなんだっけ。

 先生、あの日ってなんだっけ。先生、あの日ってなんだっけ。

 いつの間にか涙が流れていた。心臓が破裂しそうなほど大きくなっている。

 息が出来ない。苦しい。死んじゃうよ先生。

 死んじゃうよ! 死んじゃうよ!

『…………………………』

『……………………』

 ――あぁ、そうだ。 死んだのは僕の母だ――

 喉に焼け付く痛みを感じた。たくさん先生が来て、口に布を押し込まれた。窓のない部屋に連れてかれ、一人ぼっちにさせられた。

 柔らかそうな白い壁に囲まれた大きな部屋。その中のひとつの壁が、スクリーンのように映像を映し出していた。いつか見た黒と赤の世界。僕を狂わしたいのだろうか。誰がこんなことを……。

(頼むからもう止めてくれ! もうたくさんだ! 誰か!)

 破裂した血液、歯から上の無い顔、中からめくれた様な身体、無残に散らばった破片、怯える女性、愉快に笑う猫のキーホルダー。また心臓が膨らみ、苦しみが襲う。叫んでないと死にそうだ。


 あの日から、今日が何日目なのか数えてみた。もう三ヶ月が過ぎていた。いつの間にか僕は十五歳になっていたんだ。今日もたくさんの人に話しかけられる。たぶん、ここはきっと僕のような人間をまともにするための病院だ。

 僕のいる部屋は、開くことの無い強化ガラスの窓際に、背の低いベッドが置かれ、中央に食事をするテーブルと椅子、隅には小さな本棚が設置されていた。厳重に閉じられた窓付き扉の脇には、洗面所とトイレが完備されている。

 僕にとってこのシンプルな部屋は、窮屈で、湿っぽくて、陰鬱な気分にさせる牢獄である反面、安心を与えてくれる頑丈な砦でもあった。どちらの面も、今の僕にとって、とても重要な役割を担っている。

 僕の他にも何人か患者がいるらしく、遠くで誰かの叫び声がする。とても嫌な音だ、その音が怖くて僕は必死に耳を塞ぎ、そいつが僕の部屋に入って来るのではないかと、ひたすら扉を凝視した。

 怖くて、寒くて、耳の内側に響く自分自身の呻き声がまた怖かった……。

 ごめんなさい先生、今日は一人にして下さい。食事も要りません。僕の顔を見て微笑まないで下さい。

 それでも先生はやってくるし、スプーンが口に運ばれた。

 夜が来るとあの日の後のことを、必死に思い出そうとしていた。でも、どんなに頑張っても、どうしても思い出せない。


 あの日から、五ヶ月が経過した。僕はいつからか、たくさん患者のいる病棟に移されていた。前とは違う開放的な一人部屋だった。

 物も色々増えていた。ノート、筆記用具、折り紙、画用紙、クレヨン。僕はそのどれにも触らなかった。触ったら、手に取ったら、他の患者と同じになってしまう気がしていたのかもしれない。まるで呆けたように、飽きることなく画用紙を黒く塗っているだけの女性、折り紙を折り始め、形になる間際に破いて捨ててしまう男。クレヨンで化粧をする老婆。僕はこの人たちとは違う。絶対に違う。

 食事は決まった時間に食堂で食べる。好きなものを自分でよそって食べるのだが、どれも味がしない不味いものだった。食堂には他の患者もたくさんいるのだが、僕はいつも隅で一人で食べる。他の患者と一緒になんて食べれるわけがない。

 ある程度の自由が許されるようになったので、最近は毎日何をするかを自分で決めていた。

 まず、朝起きたら最初に母のことを考える。一緒に遊びに行ったこと。褒められて嬉しかったこと。母の得意料理がとても美味しかったこと。母の姿、服、声、表情、癖、香水、好きなお酒、好きな俳優、好きな歌、好きな本。毎日違う母を思い出していた。

 どうして一日の始まりに、そんな悲しくなるようなことを考えるのか、それは毎晩夢に母が出てくるからだ。ときには笑顔で、ときには最後の姿で。

 午後になり、昼食を終えると、雨が降っていない場合に限り、僕はいつもの場所へ向かう。コの字型の建物に囲まれた広い庭の、ほぼ中央に植わった大きな楓。その傍らにある白いベンチに座って、どんより黒ずんだ梅雨の空を見上げる。紙コップに注がれたお茶を飲みながら、こんな生活に意味なんてあるのだろうか、ここから出たい、どうやったら出れるのか、そんなことをいつまでも考えていた。

 ここの夜は早い、夕食を終えて風呂に入り、部屋に戻るとすぐ消灯時間になるので、あとは寝るだけ。だが、もちろんすぐになど寝れない。暗闇の中で目を閉じるのが怖いからだ。

 母が死んだことは、理解できているはずなのに。でも暗闇の中にいると、たまにあの光景が映って離れなくなるときがある、そうするとまた大声を上げてしまい、先生達に迷惑をかけてしまう。他の事はだいぶ自分で考えられるようになったのに、それでもやっぱり、夜だけは怖い……。



 ある朝、いつものように、部屋のベッドに腰掛けて母のことを考えていると、先生が来た。

 最近は先生達の話す言葉も理解できるようになってきた。正確にではないけれど、聞き取れた単語を拾って、自分でくっつけて。もう一度再生してみるのだ。今は何て言っているだろう。

「…………長野…………お爺ちゃん……会って……」

 多分、長野の爺ちゃんに会ってみるか。と、そう言っているんだろう。僕はこくりと頷いた。

 しばらくして、先生が僕の部屋に何人か連れてきた。僕が顔を向けると、爺ちゃんと婆ちゃんらしき人物を捕らえることができた。二人ともすぐに泣き出した。『らしき――』というのは、あまりに久しぶりで、こんな顔だったっけ、という疑念が生まれたからだ。

 ――あれ、もう一人、泣いている人がいる。女の子だ……。

 僕は不思議に思いながらも、いつの間にか僕の肩に触れていた爺ちゃんに目を戻す。泣いている爺ちゃんが何かを喋っているのを見つめながら、僕はどれくらい爺ちゃんに会っていなかったのかを考えた。

 確か……最後に帰ったのは……。

 そうだ、僕が小学校の授業で書いた絵が、まぐれで市の特選賞を取った年の正月だ。

 市役所に展示されていた絵が家に返却されたと聞いて、爺ちゃんがどうしても欲しいとねだるので、どうせなら田舎に帰ったときに直接渡そうと思って、冬休みに届けに行ったんだ。

 僕の書いたへんちくりんな絵を、たいそうな額縁に入れて居間に飾って皆で眺めてたな。

 課外授業で写生しに行ったときに書いた、川辺の絵。自分でいうのもなんだけど、どうしてこんな絵が選ばれたのか、不思議でしょうがなかった。飾ってみたときに、皆がその絵を唸りながら褒めちぎるので、僕は恥ずかしくて顔を真っ赤にさせていたと思う。その後大晦日の番組を見ながら酒盛りが始まると、つまらなくなった僕を気にしてか、いとこの女の子が絵について細かく質問してきたのを覚えてる。あれはなに? これはどうして?と。

 思い出した。爺ちゃんの後ろで泣いているのは、あのときの女の子なのか。そうか……。

 あれは確か僕が三年生のときだったから……、六年前だ。そうか、六年で人の顔ってこんなに変わるものなんだな。爺ちゃん、こんなに白髪だらけじゃなかったよな。婆ちゃんはこんなにシワシワで小さくなかったはずだ。

 そして何より、いとこの女の子はこんなに大人っぽくなかったし、こんなに綺麗ではなかった。

 僕の記憶の中の彼女は、いつも三つ編みを両肩にぶら下げて赤いフレームの眼鏡を掛けた、お勉強が得意そうな感じの、少し暗い女の子だった。確か僕は彼女のことを『みくちゃん』と呼んでいた。

 今のみくちゃんは昔見た彼女の母親に被るところがある。僕の母の姉にあたるその人は、僕の母よりも一ランク上の女性といった感じで、ものすごく美人な人だったのを覚えている。とても明るくてやさしい人だった。いつの頃かは覚えていないが、うちの母と同様に夫とは離婚していた。

 ――そういえば。彼女の母親は来ていないんだな……。

 そうやって自然にすぅっと沸いてくる記憶を確かめている合間にも、ずっと爺ちゃんは僕に話しかけていた。僕は、かろうじて頭に入ってきた「大きくなったな」とか「爺ちゃん達のこと覚えてるか」といった言葉に頷いて応えていた。

 爺ちゃんは「先生と少し話しをしてくる」と言って、皆を連れ部屋から出て行った。

 少しして、みくちゃんだけが部屋に戻ってきた。「少しお庭に出てみない?」と言うので僕はいつもの場所へ案内した。そこへ着くと彼女は大きく背伸びをした。

「良いところねー」

 笑顔で喋ったときの彼女の声は、よく通る高いアルトのとても澄んだ水色の音色だった。きっと街中で聞こえたら皆振り向いてしまうだろう。現に今僕がそうしているように。

 彼女は七分袖のチュニックを着て、下にはハーフジーンズに、少しかかとの高くなったサンダルを履いていた。チュニックの色がとても印象的で、その色は、夕日が地平線に半分隠れた頃、真上に現れる、深く、神秘的な色だった。

 ベンチに腰掛けると、彼女もそれにならって僕の隣に座った。その後十分くらい、特に話をするわけでもなく、ただ何も考えず、遠くの空を見つめていた。

 梅雨が明け、晴れ渡った夏の空はとても清々しく、ゆるやかに吹く風が、少し汗ばんだ体に心地よかった。

 ここは『良いところ』だったのか……。そう思った。

 気付くとすぐ傍まで爺ちゃん達と先生が来ていて、また少し僕に話しかけてから、お別れを言って帰って行った。皆が笑顔で帰っていくのを見て、僕は言い表せぬ寂しさを感じていた。

 明くる朝、どういう訳かまた来た爺ちゃん達と一緒に病院を出ることになった。僕は治ったのだろうか。自分ではよく分からない。

 たぶん爺ちゃんの物であろうセダンの後部座席に乗せられた。運転席には爺ちゃん、助手席には婆ちゃん。そして隣にみくちゃんが座ると、僕に向けてにっこりと微笑んでいた。この子は何が楽しいのだろうか……。

 その微笑の後ろに映る建物が、威圧的な顔でじっと僕を睨んでいた。徐々に遠ざかっていくそれを見て、僕は、開放感と罪悪感を同時に味わっていた。何故だか分からないが、まだあそこに居なくてはならない気がしていた。

 車内はゆったり広く、乗り心地が良かった。きっと最近買ったのだろう、柑橘系の芳香剤の匂いに混ざって、新車独特のビニールっぽい匂いがした。少し走ってから爺ちゃんはラジオをつけた。途端に車内は女性のパーソナリティの笑い声に包まれた。リスナーからのハガキを読んだり、ゲストと夏休みの予定を話し合ったり、とても賑やかで、その音は僕から罪悪感だけをそっと拭い去ってくれた。

 車は高速道路に乗ると、すぐにサービスエリアに寄った。トイレのことを聞かれ僕が首を横に振ると、婆ちゃんとみくちゃんが車から出て行った。二人で手を取り合ってトイレに向かうのが見え、婆ちゃんの足でも悪いのかと少し気になった。

 待っている間、これから始まるであろう新しい生活のことを考えて少し不安になっていた。

 ――今度はきっと、この人達に迷惑を掛けてしまう……。

 細かいトンネルが多くなってきて、所々で消えるラジオの音が、僕の不安をより一層強いものへと煽っている。

 進路に現れた小高い山が、まるで餌を吸い込む魚みたいに大きく口を開けて迫ってくる。意思とは反対に車がそれに飛び込んで行き、途端に車内が暗闇に包まれる。ラジオの音と一緒に、僕の存在もこの世から消えてしまいそうな感覚を感じていた。

 そんな折、爺ちゃんがカーナビのボタンを操作しだしたかと思うと、弱々しかったラジオの音が音楽に切り替わり、聞いたことのあるピアノのイントロが流れ始めた。知らない人などいない、有名すぎるイギリスのバンドの有名すぎるこの曲。英語の授業で歌わされてから好きになり、音楽の先生に頼んで、イントロの部分だけピアノを教わったことがある。

 僕は頭の中で授業で習った歌詞を読んでいた。なるほど、この歌詞のように生きれたら、もっとずっと楽になれるかもしれない。


   ――あるがままに……

      このままそっとしておこう

      いつか必ず答えが見つかる

      あるがままに……


 その後も彼らの有名な曲が続いた。所々で爺ちゃんが一緒になって口ずさんだが、わざとなのか本気なのか、とにかくへたくそなので二人に笑われていた。爺ちゃんも笑っていたのでわざとなのかも知れないと思った。

 長いトンネル郡を抜けてからは、窓の外の流れる景色を見ていたら、あっという間に長野の山間にある爺ちゃんの家に着いた。車から手を引いて降ろされると、みくちゃんに手招きされ、家の玄関へ向かった。

 見た目は六年前のままだった。白と黒のツートンカラーで、とても大きな二階建ての和風建築だ。みくちゃんがカラカラと引き戸を開けて中へと入っていった。引き戸の音がやけに懐かく感じる。僕の記憶の中にある田舎の風景は、決まってこの音から始まる。引き戸を開ける音、心地よい木の匂い、床の軋む音、親戚の集まった賑やかな居間、僕の成長に驚く声、という流れだ。

 中を覗くと、家の中は記憶の風景とは違っていた。彼女は軽くトイレや風呂などの生活に必要な設備を案内しながら、三年前に改装したことを話してくれた。

 それから玄関を入ってすぐ右にある居間に通された。田舎っぽい八畳広間で、ここだけはほとんど記憶の風景と一緒だった。

 部屋の中を見回すと、所々で小さい頃の記憶がだぶって見えてしまう。僕だけじゃなく、母さん、爺ちゃん、婆ちゃん、みくちゃん、みくちゃんのお母さん。どれも眩しい笑顔だった。

 この居間は、入ってきた廊下側の引き戸の他に、家の奥にある広すぎるダイニングキッチンからも行き来できる扉が付いている。それ以外の壁は二面とも全て膝の高さから窓になっており、その下は出っ張った収納になっていて腰掛けられるようになっている。田舎にはよくある造りだ。

 昔のままの配置で中央に長方形の木製テーブルが置かれていたが、それとは対照的に、いつ来ても部屋の隅に陣取っていた台座の上のブラウン管テレビは、大きなくてスマートな液晶に変わっていた。

 既に爺ちゃんは部屋の上座に座って夕刊を読んでいた。僕はその正面に座らされ、みくちゃんはそのままキッチンへ消えてしまった。

 特に何を考えるでもなく座っていたら、みくちゃんがお茶を運んできて爺ちゃんと僕の前に出すと、僕の脇の出っ張った収納に腰掛けた。その後は爺ちゃんとみくちゃんが改装するときの苦労話を、楽しく笑いながら話しかけてくれた。奥のキッチンでは婆ちゃんが夕食の支度をしていた。

 僕は、不思議な感じが頭から離れず、ふわふわしていた。

(あんなに病院の出方が分からなかったのに、本当にあっさり出られてしまったな。)

 少しだけお茶をすすってみたら吐息が漏れた。それだけで爺ちゃんやみくちゃんは嬉しそうに微笑んでくれた。



 たった数時間でこんなにも世界が違って見えるなんて、思いもしなかった。とりあえず今は、母のことを考えるよりも、この三人と今後どうやって付き合っていこうかを考えることができた。

 しばらくして、夕食が運ばれてきた。ひとつ、ふたつと、お皿に盛られた色鮮やかな料理がテーブルを埋めていく。

 僕はその光景を見て、徐々に血の気が引いていった。

「おい、どうした美月」

 爺ちゃんが驚いた顔して僕を見ている。僕はいつの間にか小刻みに震えていたのだ。

 テーブルの上に並べられた料理は、その組み合わせ、盛り付け方、お皿の選び方、そのほとんどが母のそれと同じだった。真ん中にある牛肉とごぼうのしぐれ煮なんて、上に糸切唐辛子を乗せるところまで一緒だった。

 なのに、母だけが居ない……。そう思った瞬間、母と二人きりの食卓が視界に飛び込んでくる。なんでもない時間、なんでもない会話、なんでもない母の笑顔、その全てが、かけがいのない幸せな食卓に思えて急に胸が苦しくなる。

(あんまりじゃないか……。たまの休みに腕をふるって僕のために作ってくれたのに、母抜きで食べなくちゃならないなんて。ここに座って、一緒に食べながら、学校であった話を聞いてよ。僕が行儀の悪い食べ方をしているのを叱ってよ。ねぇ、母さん……。)

「美月くん! ねぇ、どうしたの? 大丈夫?」

 みくちゃんが僕の肩に手をあてて心配そうな顔で覗きこんでくる。

(見ないで!)

 僕は顔を手で覆い隠した。

 涙があふれてきていた。叫んでしまいそうだった。

(だめだ! 来るな!)

 折角あの場所から引き取ってくれたのに、今ここで叫んだらまた戻されてしまう。そう思って必死に湧き上がる衝動を押さえつけていた。

(戻りたくない! 来るな! 頼むから! もう一人は嫌だ!)

「美月くん! ねえってば!」

 彼女は僕の手を半ば強引に引き剥がした。

(っ!)

 彼女の顔が目の前にあった。彼女は僕をたしなめる顔で見ていた。まるで、言う事をきかない子供に向かって、母親がそうするときのように。

 だが、明らかにそれとは違うところがあった。彼女は泣いていた。

(なん……で?)

 よく見ると、テーブルを囲んで座っている爺ちゃんや、婆ちゃんも、僕を見ながら静かに涙を流していた。

(どうして……?)

 その疑問を感じとったのだろか、彼女は普段よりもやや青みが増した声で、一言ずつ、丁寧にささやいた。

「美月くんはね、もう、一人じゃ……ないんだよ?」

 どっと感情がせり上がってきて、前がぼやけて見えなくなる。次の瞬間、とても温かい感触に包まれた……。彼女が僕を強く抱きしめてくれたのだ。

「悲しいのは、皆一緒だから……ね? 一人じゃないから……」

「……うっ…………うぅ…………」

 不思議な感じだった。今までに無い感じ。もう、叫びたいとは思わなかった。ただ、悲しくて、思いっきり泣きたかった。

「うぅぅぅ…………ううううぅぅぁぁあああ」

 僕は涙が枯れるまで、彼女の中で泣き続けた。

 心が洗われる、とはこういうことを言うのだと思った。重くてどす黒いどろどろの塊で覆われた心の壁が、四人の涙で洗い流されて徐々に薄まっていき、次第に今までそれの下に隠されていたのであろう青色の表面があらわになっていくのが分かった。

 洗い流された黒い塊は、いつまで経っても母の死を受け入れることが出来ない自分への焦燥感なのか、新しい家族に迷惑を掛けてはいけないという使命感だったのか、それとも他の感情によるものなのか、今の僕には分からなかった。

 どれくらい経っただろうか、僕が落ち着いたのが分かると、彼女は僕の首から腕をほどき、軽く涙を拭ってから、まだ少し湿っていたが、とても明るい声で言った。

「さっ、食べよっ?」

 それに見習い、涙を拭ってから僕も顔を上げた。



 久しぶりの暖かな食事が始まった。料理は少し冷めてしまっていたが、どれも本当に美味しかった。驚いたことに見た目は一緒なのだが、母の料理よりも若干薄味で、深みのある上品な味だった。

「どうしたの? 美味しくない?」

 みくちゃんが聞いてきた。たぶん、一口ずつ考えながら食べている僕が気になったのだろう。僕はその理由を教えてあげようと口を開いた。

「……」

 が、音にならなかった。もう一度……。

「…………」

 喋ろうとすると、空気が出てこない。喉がおかしくなったのかと思い、喉を指で触りながら口で呼吸してみると『はー、はー』と音が鳴る。特におかしくは無いようだ。

 もう一度試す。

「……」

 駄目だ。やっぱり喋ろうとしたときだけ空気が止まってしまう。

 いつからか皆の箸は止まっており、三人は少し驚いた顔をしてお互いに顔を見合わせていた。僕の様子に気付いた爺ちゃんが口を開く。

「美月……お前ぇ……」

 みくちゃんが立ち上がり、よろよろと廊下へ出て行った。

 ――僕は言葉を失っていた――

 ショックだった。目の前が真っ暗になっていくのと同時に、いつから喋れなくなっていたのかを思い出そうとしてすぐに止めた。考えるまでもなかったからだ。

「まぁー、そう気を落とすな美月、きっとすぐに戻る」

 爺ちゃんが言い終わるのと同時に、よろよろと何かを抱えたみくちゃんが戻ってきた。僕の隣にぺたんと座ると、「はい」と言って抱えてきた物を僕に手渡した。

 それは、どこにでもよくある大きいサイズのスケッチブックだった。よく意味も分からず、表紙をめくって中を見ると、そこには真っ白なページだけがどこまでも続いていた。

 『ピッ』という何かが抜けた音に顔を上げると、彼女は細い方のキャップが外され、太い方のキャップの先にはめ込まれた油性マジックを差し出していた。

(そういうことか。)

 僕は彼女から油性マジックを受け取ると、懐かしい匂いを感じながら、さらさらと言葉を文字にした。

 書き終えてからスケッチブックを裏返し、彼女達に見せた。

『声が出ない』

 どういうわけか、僕の書いた言葉を読み終えると皆の顔が笑顔に変わった。その代表として、みくちゃんが答える。

「うんっ」

 彼女が見せた今日一番の笑顔に見惚れてしまった。それに気付いたのか、彼女の顔がはてなマークに変わっていくのを見て急に恥ずかしくなった。顔が赤くなる前に目を逸らして、もう一度、スケッチブックいっぱいに言葉を書いた。

 僕はまたスケッチブックを裏返して、今度は笑顔と一緒に言葉を見せた。

『おいしい』

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