序章 【鈴虫】
声には不思議なちからがある
文字にはない、特別なちから
世界にひとつしかないあなたの音で
あなたの言葉を話してみよう
受け取った相手は必ず感じる
あなたの不思議なちからを
ベッドに腰掛けている彼女から差し伸ばされた細い腕を、ただ僕は見つめている。彼女の背後には大きな窓があり、白いレースのカーテンが掛けられていた。そこから射し込む月の光を受けて、この暗く、殺風景な部屋は、ぼんやりと青白く映し出されていた。
妖しげに光る彼女の腕は、とても物悲しく見えた。
秋の涼しくてさわやかな夜風に吹かれ、遠くで木の葉がざわついている。その音に混じって聞こえてくる鈴虫たちの交響曲。今の僕には迷子の子供が早く母親に見つけてもらいたくて泣き叫ぶ悲痛な声。そんなふうに聞こえていた。
――嫌な音だ……。
そう頭に浮かぶと、足先から這い上がるように震えが湧き上がるのを感じた。何がそうさせるのか、僕は思い出さなくてはいけない。けれど、思い出そうとすればするほど身体が拒否をする。心臓が、頭が、目が、耳が、全てが痛くなる。
どれくらい経った頃だろう。ふと、慈愛にあふれた、細く、やさしい声で僕の名前を呼んだのが聞こえ、一瞬、鼻の奥がツンとしたのを感じた。
ゆっくり進んで彼女の傍まで行くと、もう僕は立っていられなかった。彼女の前に跪いた形になると、彼女はそっと、そのか弱い手で、僕の頭をやさしく撫でてくれた。
たぶん、僕はひどい顔だったと思う。胸の奥から込み上げてくる感情を、必死に塞き止めていたからだ。
「我慢……、しなくていいんだよ……?」
(っ!)
「おいで……」
(……。)
もう、抵抗は無駄だった。
途端に目の奥が熱くなり、彼女の姿が水の世界に覆われてしまった。
ひとつ……、ふたつ……。
みっつ、よっつ、いつつ。
「……ぅ……ぅ…………うぅ」
喉から勝手に漏れてくる音に、悔しくなって、彼女に聴かれたくなくて、らくだ色の下地に茶色い格子模様の入ったひざかけをのせた彼女の膝に、顔を埋めて嗚咽した。彼女のひざかけが生温い僕の泪を吸い込んでは、すぐに冷たくなっていくのを感じて、僕は少し申し訳ない気持ちになっていた。
そんなこと、気にもしていないだろう彼女の手が、相変わらずゆったりとしたリズムで僕の頭をやさしく撫でてくれている。彼女は僕が泣き止むまで、いつもそうしてくれる。僕が泣いている理由も聞いてはこない。全て、分かっているから。
泣くのは嫌いだけど、彼女にそうしてもらっているときは、不思議な程心地よくて、彼女のとても良い匂いがして、このひとときがたまらなく好きだった。
「鈴虫ってね」
僕が落ち着いてきた頃、彼女は、子供を寝かし付ける母親のように、暖かい声で話し始めた。
「鳴いているのは全てオスなのよ。ほとんどの場合、メスを探すときに鳴くの。生まれてからすぐには鳴けなくて、何回も、何回も苦しい脱皮を繰り返して、やっと美しい音色で鳴けるようになるの。苦しみを乗り越えて手に入れた、その美しい鳴き声のおかげでメスと出会うことができるのよ。でもね、やっと見つけたメスと交尾をすると、オスは羽が壊れて、二度と鳴けなくなって、やがては死んでしまうんですって……」
えっ、という顔をしている僕に、彼女はニコっと笑ってから続けた。
「私はこの話が好き」
カーテンが風を受けて揺らめき、合間からいっそう強く、月の灯りが部屋を照らした瞬間、『だって――』と続けた彼女の視線が、恥らうように右下へ落ちるのが分かった。
「たくさんの鳴き声の中から、そのオスの鳴き声に惹かれるのは、たった一匹のメスだけなんですもの。お互いが出会うため、そして、子供へと未来を繋げるため、たくさんの苦労を重ねて生きてきた……。それって本当に素敵なことだと思うの……。それに、とっても綺麗……」
『聞こえるでしょ……』と言って、彼女は意識を外へ向けるように、瞼を閉じた……。
思わず見とれてしまい、僕の喉から短い吐息が漏れた。さわやかな夜風に揺られて、片側の耳に掛けた髪の毛がほどけかける。それを彼女の指がそっと押さえる。そうした彼女の仕草は、とても美しかった。
彼女に習い、そっと耳を澄ました。この部屋を訪れたときよりも、大きく不規則に木の葉が揺れていた。
『サァーーー…………スゥーーーー……』
『……ン……リーン』
(あっ)
『……リリリリー……リリリリー……』
『リーン、リーン、リーン、リーン』
(本当だ……。綺麗な音。)
しばらくして、『落ち着いた?』『眠れる?』という質問に頷くと、僕は彼女の部屋を出て、隣にある自室へと戻り、再び横になった。
こうしてもらった後の夜は、眠るまで彼女のことを考えられる。
彼女は真夜中だというのに、ノックをして入ってくる僕に向かって、嫌な顔ひとつ見せたことは無い。それどころか、決まってやさしい微笑みを向けてくれるのだ。
微かに残った彼女の匂いは、甘く切ない桜の匂いがした。その匂いをそっと抱きしめながら、僕は静かに目を閉じた。あんなに嫌な感じがした、鈴虫の泣き叫ぶ声は、いつしか淡い恋心を綴った美しいバラードに変わっていた。