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大草原の徴(しるし) 〜タルトシュの馬飼い〜  作者: 武陵隠者
第1章『泥の檻』

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泥の中の境界線

 翌朝も、雨は上がらなかった。


 泥炭地特有の冷たく重い雨粒が、黒泥砦の開けた運動場を絶え間なく打ち叩いている。低く垂れ込めた鉛色の雲の下、黒いぬかるみは幾人もの靴底に踏み荒らされ、底なしの沼のようにねっとりと波打っていた。


 その中央へ、一頭の老馬が引きずり出されていく。太い麻縄を頭に巻きつけられ、兵士ふたりに力任せに引かれた老馬は、壊疽した左前脚をかばうように激しく首を振った。だが、関節の腫れ上がった足首はすでに自重を支えることすらできず、踏み出すたびにずるりと深泥に足をとられる。いななきとも悲鳴ともつかぬ掠れた呼気を漏らし、老馬は大躯を傾けながら、泥の中へどさりと崩れ落ちた。


「おい、ぐずぐずするな! 引き起こせ!」


 兵卒の怒号と皮鞭の音が雨音に混じる。泥まみれになりながらあがく老馬の姿は、もはや軍馬の面影など微塵もなく、ただ処理を待つ不格好な生の塊――泥にまみれた生肉そのものだった。


 広場の片隅では、三脚の上に据えられた鉄鉢で黒炭が赤々と薪を燃やしていた。雨除けの粗末な筵《むしろ》の下、パチパチと爆ぜる火床の奥には、太い鉄棒の先端に丸い紋章が刻まれた烙印が突っこまれている。火床から立ち昇る揺らめく熱気が、濡れた空気を歪ませていた。


 マールトは無言のまま、炭の詰まった重い麻袋を背負い、火鉢の脇に降ろした。灰色の包帯を巻きつけた右手で袋の口を締め直し、すぐさま視線を泥に落とす。


(かかわるな。あの馬はもう終わりだ。脚が壊疽したのだから仕方がない。審問官が正当な管理として決めたことだ。俺には何の関係もない)


 老馬は、昨晩までマールトの差し出した残飯に食らいつき、その右手を容赦なく噛み砕こうとした苛烈な獣だ。決して心を通わせた友でもなければ、同情を寄せる対象でもない。泥の中で無様に衰え、処分される運命にある家畜に過ぎない。視線を一切上げず、濡れた藁と煤の匂いに集中し、砦の景色の一部となりすますことだけを考えた。


「おい、下男」


 火床の脇で鉄棒の熱し具合を確かめていた兵士が、不機嫌そうに顎で老馬をしゃくった。


「見ろよ、あの無様なざまを。役立たずの肉くずなんてのは、こうして早めに焼き切るのが一番なんだ。餌の無駄だし、病気でも移されたら堪ったもんじゃねえ。……お前もそう思うだろ?」


 マールトは一瞬だけ動作を止め、深く頭を下げた。


「……へい」


 声を出さず、ただ首を縦に振る。そうだ、正しい。兵士の言う通りであり、あの白衣の審問官の言う通りだ。役に立たないものは排除される。それが世界の理であり、自分が口を挟む余地などどこにもない。


 だが、同意を示すために深く頷いた瞬間、マールトの視界の端に、庇の陰で腕を組み、冷ややかにこちらを見つめる純白の法衣が映り込んだ。


 一切の汚れを許さぬ審問官ガブリエル。その冷徹な視線は、倒れ伏す老馬と、その傍らで泥に塗れて屈《かが》むマールトの姿を、まったく同等の「排除されるべき不浄」として一括りに見定めているように見えた。


 マールトは喉の奥で息を詰まらせ、右手の包帯を潰すほどの力で握りしめた。


 火床から、赤橙色の鉄棒が持ち上げられる。先端の烙印が、暗い雨空の下で不気味に蠢いていた。


 二人の兵士が、泥の中に組み伏せられた老馬の頭部と腰へ容赦なく体重をかける。


 ――ジューっ。


 重く湿った大気を切り裂いて、肉が焼ける生々しい音が響き渡った。


 赤く熱した鉄が、老馬の左前脚の壊疽した皮膚へ遠慮なく深く押し付けられる。直後、白い煙が沸き立ち、焦げついた毛皮、焼かれた血肉、そして病巣の膿が爆ぜる嫌な臭気が広がった。冷たい雨気を含んだ鼻腔の奥へ容赦なく突き刺さり、胃の底を掻きむしる。


「ひ、イィィィィン――っ!」


 鼓膜を突き破る断末魔の悲鳴。狂乱した巨躯がのたうち回り、血と濁った膿を四方に撒き散らした。


 マールトは金縛りに遭ったように見つめていた。胸の中にあったはずの冷徹な観念――「自分には関係ない」「仕方のないことだ」という、保身のために必死に積み上げていた理屈の壁が、焼ける肉の音と悲鳴の一撃でガラガラと音を立てて崩壊していく。


 そこに存在したのは憐れみなどではない。もっと根源的で、おぞましい狂気のような恐怖だった。


 肉の焦げる匂いが、己の皮膚を焼き焦がしているように錯覚する。のたうち回る老馬の濁った瞳が、「次はお前だ」と嘲笑っているように思えた。


 役立たずとして、秩序の邪魔者として焼き切られる。他でもない、この最果ての砦で存在を殺して生きてきたマールト自身そのものだった。この馬が焼き殺されるのを黙認すれば、己の生存に対する最後の抵抗すら捨てることになる。老馬が死ぬ瞬間、マールトという人間の生もまた、泥の底で永遠に終わりを迎えるのだ。


 包帯の下で、肉が嫌な熱を持って脈打ち始めた。


「うああああっ!」


 言葉にならない悲鳴を上げ、マールトは泥を蹴った。


 炭バサミを泥の中に投げ捨てると、制止しようとした兵士の肩を左手で薙ぎ払い、前傾姿勢のまま一直線に突進する。十数歩の距離を一気に詰め、ガブリエルの懐へ飛び込んだ。


「……なっ!?」


 ガブリエルの面に初めて明確な驚愕が走る。避ける暇もなく、泥まみれの身体が激突した。


 バシャリと、重く湿った水音が跳ね上がる。


 完璧だった純白の法衣が、漆黒の泥炭の海へ深々と沈み込んだ。背中から胸元にかけてねっとりとした黒泥がへばりつき、美しく織り上げられた金糸の刺繍を容赦なく塗り潰していく。洗練された高貴な衣は、一瞬にして見苦しい泥の塊へと変貌した。


 ガブリエルが押し返そうとするが、マールトは正気を失った力でその襟首を掴み、泥の中へ押し付け続けた。


「殺す……殺させない……っ!」


 ガブリエルの顔に泥の滴が飛び、その完璧だった理性の仮面が醜く汚されていく。高々と正義を掲げていた男が、いまや自分と同じ泥の底でのたうち回っていた。


「離せ! この下劣な下男が!」


 押し寄せた兵卒たちに背を蹴られ、重い打撃が叩きつけられる。数人がかりで両腕をねじ上げられ、マールトはガブリエルから引き剥がされた。泥の中へ顔面から叩きつけられ、首筋を靴底で踏みにじられる。


 その荒々しい揉み合いの渦中で、泥水を含んで重くなった右手の包帯がずり落ち始めた。


 結び目が解け、何年も隠し続けてきた右手が、雨の中に露わになっていく。


 洗われていく黒泥の下から現れたのは――小指の外側、掌の縁から突き出た、もう一本の肉の芽。骨を通し、爪を抱き、泥水の冷たさに反応して痙攣するように蠢く、「六本目の小指」だった。


 場を支配していた怒号が、嘘のようにピタリと止んだ。


「……退け」


 低く、温度のない声が静寂を破った。


 泥まみれで立ち上がったガブリエルだった。神聖な白衣は見る影もなく汚濁していたが、その眼差しには動揺も屈辱すら残っていない。ただ、世界に紛れ込んだ不純物を検分する、冷ややかな理性が戻っていた。


 屈み込み、汚れのない手袋をはめた指先で、ぬかるみに横たわる六本目の指を静かに指し示す。


「……異形か」


 ガブリエルは立ち上がり、絶対の裁きを宿らせて宣告した。


「老馬の処分は取りやめだ。先に、その歪みを検分する。……この砦には、獣の病患など比較にならぬ不浄が根を張っていたようだ」


 マールトは絶え絶えの呼吸のなか、冷たくなっていく己の右手を見つめていた。


 生き残りたいという純粋な恐怖に突き動かされ、保身の仮面を脱ぎ捨てて抗《あらが》った暴走。それが、隠し通すべき破滅の印を晒し、自らを「排除されるべき不浄」として完全に確定させてしまった。


 逃げ場のない泥の中で、ただ冷たい雨だけが、むき出しになった異形を打ち続けていた。

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