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振りかざす正義と救いたい悪意

作者: 七七街
掲載日:2026/03/16

雨の匂いがした。


 それは、血の匂いによく似ていた。


 レインは城壁の上から、遠く燃える平原を見ていた。夜のはずなのに地平の向こうが赤い。遠すぎて悲鳴は届かない。けれど、あそこにまだ生きている誰かがいて、火に追われ、逃げ遅れ、家を失い、名も知らぬ兵士に蹴り倒されているのだろうとわかった。


「……また一つ、街が消えたか」


 そう呟いた声は、もう若くはなかった。


 かつて村を飛び出した時、レインは十七だった。今は二十七だ。十年。たった十年で、泥にまみれた孤児まがいの少年は、王国に最も憎まれる反逆者になった。


 灰旗軍総帥、レイン・グレイ。


 王都ではそう呼ばれているらしい。北では災厄、南では解放者、西では悪鬼。名前は土地で変わったが、意味はどれも同じだった。秩序の敵。平穏の破壊者。討たれるべきもの。


 レインは自分の手を見た。火傷の痕、剣ダコ、古傷、乾いた血。綺麗な手だったことなんて、一度もない。


「総帥」


 背後で扉が開き、静かな足音が近づいた。


 振り返らずともわかる。ノエルだった。十年前、最初に拾った仲間だ。飢えと暴力にやせ細っていた少女は、今では灰旗軍の参謀として王国の将軍たちに名を知られている。


「報告か」

「はい。第二門の防壁、夜明けまでは持ちます。西の避難民も七割が収容済みです」

「三割は?」

「……途中で神殿騎士団に見つかりました」


 それで終わりだった。ノエルは言い訳をしないし、レインも求めない。見つかった避難民がどうなったか、想像する余地はなかった。


 しばらく二人で赤く染まる平原を見ていた。やがてノエルが言った。


「今夜、使者が来ます」

「どこから」

「聖都」

「停戦か」

「おそらく。あるいは降伏勧告」

「十年遅いな」


 レインが笑うと、ノエルは笑わなかった。


「総帥」

「なんだ」

「もし、本当に停戦なら」

「それはない」


 言い切った声は、自分でも驚くほど固かった。


「向こうは俺たちを国として扱わない。反乱でも革命でもなく、ただの害獣駆除だと思ってる」

「でも、向こうも疲弊しています。王都近辺の収穫は半減、聖都も北方経路を失って」

「それでもだ。正義は、疲れたからといって自分の看板を下ろさない」


 ノエルは黙った。


 その沈黙に含まれる意味を、レインは知っていた。彼女はずっと前から、勝敗ではなく終わり方を考えていた。灰旗軍がどこで止まるべきか。誰を生かして何を残すか。そういうことを考える役目を、自分で背負ってきた。


 レインは城壁から視線を外し、ようやく彼女を見た。


「言いたいことがあるなら言え」

「あります」

「だろうな」

「あなたは止まる気がない」


 夜風が二人の間を吹き抜けた。


 レインは笑いもしなかった。


「今さらだな」

「今さらだから言うんです。最初、私たちは拾われたんです。捨てられた者、見放された者、正義に選ばれなかった者を拾って、寒さと空腹から守って、居場所を作った」

「そうだ」

「でも今は違う。今の私たちは、世界を変えるために人を巻き込んでいる」

「最初からそうだった」

「違います」


 ノエルの声が少しだけ強くなった。


「最初は、生き延びるためだった。あなたが怒っていたのは、奪われたものに対してでした。今のあなたは、まだ奪われてもいないものまで壊そうとしている」


 レインは目を細めた。


「何が言いたい」

「聖都を落とした後です」

「……」

「神託院を壊し、王家を追い出し、神殿騎士団を折った後。あなたはどこで終わるんですか」


 その問いは、真っ直ぐだった。


 十年前なら、すぐ答えられただろう。王都を落とせば終わり。神託院を燃やせば終わり。あの白い神殿を崩せば終わり。そう信じていた。


 けれど今は、聖都を前にしても終わりの形が見えなかった。


「……向こうが膝をつくまでだ」

「その“向こう”はどこまでですか。王都ですか、神殿ですか、神託ですか。それとも、この世界の正義そのものですか」


 レインは答えなかった。


 答えられない問いを、ノエルはいつも一番先に持ってくる。


「停戦の使者には会ってください」

「お前は停戦したいのか」

「したいわけではありません」


 ノエルは少しだけ視線を伏せた。


「でも、あなたがこのまま進んだ先で、誰が最後まで残るのかは考えています」


 残るのはきっと、自分だけだ。


 レインはそう思ったが、口には出さなかった。


「……下がれ。使者が来たら呼べ」

「はい」


 ノエルは踵を返しかけ、ふと立ち止まった。


「総帥」

「なんだ」

「私は、あなたに拾われてよかったと思っています」

「そうか」

「だから、あなたが何になっても最後まで見ます」


 その言葉を置いて、彼女は去った。


 城壁に一人残され、レインは遠い火を見続けた。


 雨の匂いが、まだしていた。


   *


 十年前、レインが見た最初の死は、神託に従った死だった。


 辺境の小さな村だった。痩せた畑、川霧、冬の早い土地。そこでは春の初めに必ず神官が来て、その年に必要な犠牲を告げた。豊作のための牛、疫病避けの井戸、橋の修繕に回す若者。時々、人間も含まれた。


 その年、神託はレインの妹の名を告げた。


 まだ九つだった。痩せて、よく咳をして、それでもレインの作る木の笛を吹くのが好きな子だった。


 村人は泣いた。母は縋った。父は土下座をした。神官は首を振った。


「神託は、村を守るためにある」


 それが正しい言葉なのだと、みんな知っていた。


 レインだけが知らなかった。


 だから夜中に妹を連れて逃げた。村はずれの森を抜け、山を越え、どこか神の届かない場所まで走るつもりだった。


 でも、朝になる前に見つかった。


 神殿騎士ではなかった。ただの村人だった。皆、泣いていた。泣きながら、妹を連れ戻した。村を守るためだと何度も言いながら。


 妹は最後まで泣かなかった。


 ただ処刑台の前で、レインの方を見ていた。


 その目だけが、ずっと残った。


 ――兄ちゃん、なんで。


 実際には何も言われていない。だがレインには、そう聞こえた。


 その日の夕方、村は雷で半分焼けた。


 神託は当たった。妹を捧げても、村は無事ではなかった。


 そのことに、誰も声を上げなかった。神託は絶対だ。村人たちはそう信じたいのではなく、そう信じなければ壊れてしまうから、信じた。


 レインは壊れた。


 神殿を焼こうとした。失敗した。半殺しにされ、谷に捨てられた。


 そこで初めて、灰色の旗を見た。


 谷底に簡素な幕舎がいくつも並び、痩せた子どもたちと傷だらけの大人たちが焚き火を囲んでいた。誰も制服を着ていない。誰も同じ名を持っていない。だが全員、社会から切り捨てられた人間の顔をしていた。


 その中央にいたのが、ガウスだった。


 当時の灰旗軍総帥。いや、まだ“軍”ですらなかった。二十人ほどの寄せ集めの盗賊団に過ぎない。王都の法では、ただの犯罪者だ。実際、略奪もしたし、兵糧も奪った。綺麗な集まりではなかった。


 だがガウスは、レインに初めてこんなことを言った。


「泣けるなら、まだ人間だ」


 レインはその場で泣いた。妹が死んでから一滴も出なかった涙が、谷底でようやく出た。


 ガウスは笑った。


「よし。じゃあ飯を食え。怒りは腹が減ってると役に立たん」


 その一言で、レインは拾われた。


 そこからの十年は、流れの速い川みたいだった。


 最初はただ、生き延びるためだった。谷底に集まる孤児、奴隷崩れ、追放兵、税に追われた農民、神殿に見捨てられた病人。そういう者を拾って飯を与え、山の廃砦に拠点を作った。王都に見えない場所に、選ばれなかった者のための小さな町を作った。


 それだけで、敵は勝手に増えた。


 王都は彼らを盗賊と呼んだ。神殿は異端と呼んだ。地方領主は害獣と呼んだ。けれど灰旗に来る者は後を絶たなかった。正義に救われなかった者にとって、灰旗は初めての居場所だったからだ。


 ガウスが死んだのは五年前だった。


 討伐ではなく病だった。あまりに間の抜けた死に方で、レインは三日間ずっと怒っていた。


 死ぬ前、ガウスは寝台の上で言った。


「お前が継げ」


「嫌だ」

「知ってる。だが他にいない」

「ノエルの方が向いてる」

「参謀は前に立つな。お前は前で燃える役だ」

「燃えたくない」

「嘘つけ」


 ガウスはその時、妙に優しい顔をした。


「お前はずっと、世界の真ん中を燃やしたがってる」


 そうしてレインは総帥になった。


 総帥になって最初の冬、灰旗は村を一つ救った。神託で捨てられた飢饉の村だった。王都は「維持不能」として切り捨て、神殿は「神の試練」と言った。


 灰旗はそこへ食糧を運び、王都の倉から奪った麦を配り、領主の徴税官を吊るした。


 その村の子どもが、レインの手を握って泣いた。


「ありがとう」


 レインはその時、自分が正しいと初めて思った。


 だから進んだ。


 捨てられた村を救った。奴隷を逃がした。地方の腐敗を潰した。正義の旗の下で笑っていた貴族を、正義の届かない夜道で引きずり下ろした。


 王都は彼らを反乱軍と呼んだ。灰旗はその名を受け入れなかった。自分たちは奪われたものを奪い返しているだけだと信じていた。


 レイン自身も、そう信じていた。


 それがいつから変わったのか、今となってはわからない。


   *


 聖都からの使者は、夜半に来た。


 白旗を掲げた三騎。門前で武装解除し、城塞の広間へ通された。レインが玉座代わりの長椅子に座ると、使者の筆頭はゆっくりと礼をした。若い女だった。まだ二十代半ばほど。白銀の法衣、神殿騎士の剣、胸には青い聖印。


「聖都神託院、執行官セレス・オルディアと申します」

「長い肩書だな」

「必要な長さです」

「俺には無意味だ」


 セレスはわずかに眉を寄せたが、それ以上は反応しなかった。


 広間の左右には灰旗の幹部が並んでいた。ノエル、巨漢の元鉱夫ロト、片目の射手リザ、元神官のミハル、そして十年前からレインの背中を見てきた者たち。皆、使者を見る目が冷たい。


「用件は」

「停戦の提案です」

「やはりな」

「双方の被害は限界に近い。これ以上の消耗は、王国全土に回復不能の損失を与えます」

「王国全土、ね」


 レインは肘掛けに頬を預けた。


「俺たちは王国に含まれるのか」

「法の上では」

「都合がいい時だけ」


 セレスは一度、深く息を吸った。


「灰旗軍総帥レイン・グレイ。あなた方の行為が、地方において一定の支持を得ていることは把握しています」

「支持、か。ずいぶん綺麗に言う」

「現実を言っているだけです」

「なら現実をもう少し言えばいい。俺たちがなぜ支持されているか」

「……」

「正義が遅いからだ」


 広間が静まった。


「王都も神殿も、守るべきものを守るのが遅い。見捨てるのだけは早い。そこへ俺たちが行く。だから人が集まる」


 セレスはレインを見つめた。


「それでも、あなた方は多くを殺した」

「そうだ」

「町を焼き、兵を殺し、神殿を壊し、民を巻き込んだ」

「そうだ」

「自覚はあるのですね」

「あるとも。自覚がないなら、ただの狂人だ」


 セレスの目に、ほんの少しだけ感情が浮かんだ。怒りではない。たぶん、失望だった。


「では、なぜ止まらないのです」

「止まれば戻るからだ」

「何が」

「全部だ」


 レインはゆっくり立ち上がった。


「神託院を残せば、また村は切り捨てられる。神殿騎士団を残せば、また誰かが正義の名で踏み潰される。王家を残せば、また飢える土地が地図の端で黙殺される」


「それを変えるために、すべてを壊すのですか」

「必要なら」

「その先に何があると?」


 レインは一瞬、言葉に詰まった。


 セレスはそれを見逃さなかった。


「あなたは“今”を否定することには慣れている。では、その先にある世界を、ちゃんと描いたことがありますか」


 ノエルがわずかに身じろぎした。レインは気づかないふりをした。


「少なくとも、今よりはましだ」

「それは信仰と何が違うんです」


 その言葉だけが、妙に深く刺さった。


 神託を信じる者たちを、レインはずっと軽蔑してきた。未来を勝手に定められ、それに縋る弱さを嫌ってきた。


 だが自分もまた、「今を壊せばその先はましになる」と信じているだけではないのか。


 その疑念が一瞬だけ頭をもたげたが、すぐに押し込めた。


「用件は終わりか」

「……停戦には応じないと」

「応じない」

「では次に会う時は」

「戦場だろうな」


 セレスは静かに礼をした。


「最後に、一つだけ」


 彼女は顔を上げた。


「私はあなたを、ただの怪物だと思いたかった。けれど今の話を聞いてしまった。だから厄介です」

「厄介?」

「あなたは、半分だけ正しい」


 そう言い残し、使者は去った。


 広間に残った者たちは、しばらく誰も口を開かなかった。やがてロトが拳を鳴らす。


「停戦なんざ、するわけねえ」

「ええ」とリザが言った。「向こうだってそのつもりで来たわけじゃない。ただの確認よ。総帥がまだ引き返せるかどうか」

「で?」

「顔見ればわかるでしょ。無理だって」


 軽口のようでいて、刃だった。


 ノエルは何も言わなかった。


 レインは玉座代わりの長椅子に座り直した。


「明朝、西門を開く。こちらから聖都へ打って出る」

「了解」

「了解いたしました」

「承知」


 幹部たちが一人ずつ応え、去っていく。


 最後にノエルだけが残った。


「まだ何かあるか」

「あります」

「今日は多いな」

「最後なので」


 その言葉に、レインは眉をひそめた。


「縁起でもない」

「縁起の問題ではありません。明日で全部決まる」

「決めるんだろう」

「ええ」


 ノエルは真っ直ぐにレインを見た。


「あなたが明日、聖都の中枢へ入るなら、私は西門の防衛に残ります」

「却下だ」

「戦力配分です」

「ノエル」

「総帥命令なら従います。でも、そうしたら東の避難経路が死にます」


 レインは舌打ちしたくなった。


 彼女はいつも正しい。いや、正しいというより、数字と現実を持ってくる。感情でひっくり返せない形で。


「生きろ」

「難しい命令ですね」

「命令だ」

「それをあなたに言われると、少し腹が立ちます」


 珍しく皮肉を返し、ノエルは笑った。ほんの少しだけ、昔の、痩せた少女の面影があった。


「……もしあなたが勝ったら」

「ん?」

「勝ったら、今度こそ止まってください」


 レインは答えなかった。


 ノエルはそれを見て、静かに礼をして去った。


   *


 夜明け前、雨が降った。


 灰色の雨だった。血と煤で汚れた城塞の石が、ゆっくり濡れていく。兵たちは無言で武具を整え、矢束を背負い、刃を研いだ。誰も歌わない。勝利の空気ではなかった。終わりに向かう朝の空気だった。


 レインは鎧を着なかった。昔からそうだ。重いものは嫌いだった。代わりに黒い外套を羽織り、妹の形見である木の笛を首から下げた。音はもう出ない。何度も血に濡れ、欠け、修理され、ただの木片に近い。だが捨てられなかった。


 出陣の前、ロトが言った。


「総帥。今日死ぬ気か」

「毎日死ぬ気でやってきただろ」

「今日だけは違う顔してる」

「そうか?」

「ああ。帰る気がない顔だ」


 レインは少し笑った。


「お前はどうだ」

「俺は最初から、お前が死ぬまで付き合うと決めてる」


 ロトは鈍い斧を肩に担ぎ、そう言った。


 その言葉はありがたくて、重かった。


 リザは別れ際に、「右から三番目の塔、あれだけは私が落とす」と言った。十年前、彼女の弟があの塔の処刑台で首を落とされたからだ。


 ミハルは、かつて神官だった頃の癖で、出陣前に全員の肩へ順番に手を置いていった。祈りではなく、確認のように。


「誰も神に渡さない」と彼は言った。


 朝日が雲の向こうで白くにじむ頃、灰旗軍は門を開いた。


 聖都への進軍は、驚くほどあっけなく始まった。


 西門前の平野には、神殿騎士団が整列していた。白銀の鎧、青い聖印、統一された旗。美しかった。正義はいつも、美しく並ぶ。


 先陣を切ったのはロトだった。咆哮を上げ、斧を振り下ろし、最前列をまとめて砕いた。そこへリザの矢が飛ぶ。灰旗の兵が雪崩れ込む。


 開戦から一刻で、平野は泥と血の色になった。


 レインは剣を抜いた。細身の片刃。特別な名剣ではない。十年前、ガウスから受け継いだだけの剣だ。


 最初に向かってきた騎士は若かった。まっすぐな目をしていた。正義の教育を受け、正義のためにここに立っている顔だった。


 レインはその剣を弾き、喉を裂いた。


 若い騎士は目を見開いたまま崩れた。


 この男にも家があっただろう。守りたいものがあっただろう。自分こそが秩序を守る側だと信じていたはずだ。


 レインはそのことを知った上で、次の敵へ向かった。


 戦いは長く続かなかった。灰旗軍はもう、ただの寄せ集めではない。十年かけて鍛え、拾い、削り、作り上げた勢力だった。しかも今日の彼らには、勝利より先に終わりへの執念があった。


 神殿騎士団の左翼が崩れ、右翼が包囲される。聖都の門が閉じようとする。レインはそこへ一直線に突っ込んだ。


 その時、背後で地鳴りのような音がした。


 振り返ると、西門側の城壁で黒煙が上がっていた。


 ノエルの持ち場だ。


 嫌な予感が胸を刺した。だが戻れない。今ここで止まれば、すべてが中途半端になる。レインは歯を食いしばり、前だけを見た。


 聖都の門を破ったのはミハルだった。元神官の彼は聖印の構造を知っており、神殿の結界に最短で穴を開けた。その直後、胸を貫かれた。


 レインが駆け寄った時には、もう血が広がっていた。


「ミハル!」

「……っ、総帥」


 彼は笑おうとして、失敗した。


「結界は……三分……」

「喋るな」

「最初に拾われた日……覚えてますか」

「覚えてる」

「よかった」


 ミハルは薄く息を吐いた。


「私、あの日……神殿より、あなたが怖かったんですよ」

「今、言うことか」

「でも、ずっと……そっちの方が、正しい恐怖でした」


 その意味を聞き返す前に、彼の目から光が消えた。


 三分。


 レインは立ち上がった。泣く暇もなかった。三分で門を抜けなければ、ミハルの死はただの一人分の死になる。


 聖都の街路は静かだった。住民は避難している。いや、避難させられている。神殿騎士と灰旗軍がぶつかる中心から、一般市民だけは外されている。秩序だった撤退だ。どこまでも、正義はこういうところだけ上手い。


 レインは神託院を目指した。大聖堂の奥、白亜の塔。神の言葉を降ろす場。


 途中、右から三番目の塔が崩れた。リザが約束通り落としたのだとわかった。


 だがその次の瞬間、塔の上から一条の光が走った。眩いほど白い槍が、街路を斜めに切り裂く。


 嫌な気配にレインが身をひねった時には、遅かった。


 光の先に、リザがいた。


 片目の射手は、自分ごと塔を落とすつもりだったのだろう。崩れかけた石の上で血を吐きながら、それでも最後の矢を番えていた。聖都の司祭を射抜き、その直後、白い槍に胸を貫かれた。


 遠すぎて声は聞こえない。


 それでも、口の動きだけは見えた。


 ――やった。


 その口元は、ひどく満足そうだった。


 レインは走った。走るしかなかった。仲間が死ぬたびに止まっていたら、ここまで来た意味が消える。


 神託院へ辿り着いた時、扉の前に一人立っていた。


 セレスだった。


 使者として来た時と同じ白銀の法衣。剣を抜いている。顔色は青いが、足は揺れていない。


「やはり、あなたが来ると思った」

「どけ」

「嫌です」

「死ぬぞ」

「そうでしょうね」


 雨の残りが石畳を光らせていた。二人の足元に、空が淡く映る。


 セレスは剣を構えた。


「あなたを止めれば、まだ終わり方を選べる」

「終わり方?」

「これ以上、あなたを悪にしなくて済む」


 その言葉に、レインは思わず笑った。


「今さら、善悪の話か」

「今さらだからです」


 セレスの目は真っ直ぐだった。


「あなたはずっと、自分が救われなかった怒りでここまで来た。でもそれは、救われなかった全員の代弁ではない」


 レインは剣を握り直した。


「説教なら後にしろ」

「後がないから言っています」


 セレスが踏み込んだ。


 速い。正確だ。神殿騎士として理想的な剣だと、一合でわかった。無駄がなく、綺麗で、躊躇がない。たぶん彼女は本当に、この国を守ろうとしている。


 だから厄介だった。


 レインの剣は雑だ。戦場の中で無理やり伸びた剣だ。生き延びるための切っ先。正しさよりも、届くことを優先した剣。


 数合で、セレスの白い法衣が裂けた。だが同時に、レインの腕にも浅い切り傷が走る。


「あなたは」とセレスが言う。「本当に、最初から怪物だったわけじゃない」


「……」

「なのに、なぜそんな顔をするんです」


 レインは答えなかった。


 どんな顔をしているのか、自分ではわからなかった。


 だが次の一撃で、セレスの剣を弾き飛ばした。彼女は膝をつく。喉元に刃を突きつける。


「終わりだ」

「そうですね」


 セレスは不思議なほど静かだった。


「殺してください」

「……」

「私は、あなたを止められなかった。なら、あなたの物語の障害として死ぬしかない」


 レインの喉が、ひどく乾いた。


「お前は本気で、自分が正義だと思ってるのか」

「思っています」

「神託院がどれだけの人間を見捨ててきたか知っていても?」

「知っています」

「ならどうして」

「それでも、今日この街であなたに家族を殺される子どもがいるからです」


 その言葉だけが、深く入った。


 今日この街で、誰かが家族を失う。


 かつて自分がそうだったように。


 その子にとって、レインは神と同じ側の加害者になる。


 剣先がぶれた。


 セレスはその一瞬を逃さなかった。落ちた剣ではなく、腰の短剣でレインの脇腹を刺した。浅くはない。だが致命でもない。


 レインは反射で彼女を斬った。


 白い布に赤が広がる。


 セレスは倒れながら、わずかに笑った。


「……半分だけ、正しい人」

「喋るな」

「最後まで……厄介、でした」


 そのまま彼女は動かなくなった。


 レインは立ち尽くした。


 足元で白と赤が混じっていく。遠くではまだ戦いの音がする。神託院の扉は目の前だ。


 なのに、指が動かなかった。


 半分だけ正しい。


 その言葉が、頭の中で何度も反響した。


   *


 神託院の最奥は、拍子抜けするほど静かだった。


 巨大な神像も、天を貫く奇跡の光もなかった。白い部屋の中央に、円形の石盤が一つあるだけ。その上に薄い金の膜が揺れている。


 近づくと、膜の中に無数の文字が浮かんだ。


 生まれる。死ぬ。結ばれる。失う。栄える。滅びる。


 誰かの人生が、簡素な言葉で並んでいる。


 レインは石盤に手を置いた。冷たい。


「これで、世界を決めてきたのか」


 返事はない。


 当然だ。ただの装置なのかもしれない。神と呼ばれたものの本体が、人格ですらない可能性を、レインはここへ来る途中で何度も考えていた。


 神とは何か。正義とは何か。


 考えても答えは出なかった。ただ一つ確かなのは、ここが多くを決めてきたということだけだ。


 その時、背後で足音がした。


 ノエルだった。


 血まみれだった。肩から腕にかけて深く裂け、左足を引きずっている。


「……生きてたか」

「そっちこそ」


 彼女は部屋の入口にもたれたまま、浅く息をした。


「西門は?」

「持たせた。ロトが死ぬほど粘った」

「死んだのか」

「まだ。たぶん」


 たぶん、という響きがひどく重かった。


 ノエルは石盤を見た。


「それが神託の核?」

「ああ」

「壊すの?」

「そのために来た」

「そう」


 彼女は少しだけ笑った。疲れきった笑みだった。


「ねえ、総帥」

「なんだ」

「私、ずっと考えてたんです」

「何を」

「あなたがいつ、自分を敵だと認めるのか」


 レインは振り返った。


「……今それを言うのか」

「今しかないから」


 ノエルは壁を伝いながら、ゆっくり歩いてきた。


「最初は、あなたは本当に正しかった。少なくとも私にはそう見えた。救われなかった者を拾って、飯を与えて、寒さから守った」

「今も変わらない」

「変わりました」


 彼女の声は静かだった。責めるでもなく、ただ事実を置いていくように。


「あなたは途中から、救うためじゃなく、壊すために進み始めた」


 レインは目をそらさなかった。


「壊さなきゃ変わらない」

「そうかもしれない。けれど壊した先を、あなたは誰にも見せられなかった」

「……」

「だから皆、あなたの理想じゃなく、あなた自身に賭けたんです」

「それの何が悪い」

「全部」


 ノエルは咳き込み、口元を押さえた。血が滲む。


「あなたが倒れた瞬間、夢ごと終わるんですよ。そんなもの、国でも理想でもない。ただのカリスマです」

「ノエル」

「でも、それでも私はついてきた」


 彼女は笑った。


「だって拾われたから。あなたに生きろって言われたから。……ずるいでしょう?」


 レインの喉が、ひどく痛んだ。


「私は、あなたを正義だと思ってたわけじゃない」

「じゃあ何だ」

「私の世界でした」


 その言葉だけで十分だった。


 十年前、谷底で拾った痩せた少女。飯を出し、寝床を与え、計算と文字を教えた。彼女はやがて自分の右腕になり、誰より先に世界の現実を見た。


 そんな彼女にとって、自分が世界だったのだとしたら。


 それはもう、宗教と変わらない。


 神を憎んでここまで来たのに、自分もまた誰かの神になっていた。


 レインは石盤に手を置いたまま、目を閉じた。


 ここへ来るまでに殺した兵の顔。セレスの白い法衣。平原で燃える街。妹の目。村人たちの沈黙。谷底での焚き火。ガウスの笑い声。ロトの拳。リザの最後の口元。ミハルの「誰も神に渡さない」という声。


 全部が一度に押し寄せた。


「……ああ」


 その時、ようやく言葉になった。


「悪役は、俺か」


 ノエルは少しだけ目を細めた。


「やっと言った」

「遅かったな」

「ええ。ひどく」


 二人の間に静かな時間が落ちた。


 外ではまだ戦いの音がする。だがここだけは、ひどく静かだった。


「なら」とノエルが言う。「最後くらい、選んでください」

「何を」

「悪役の終わり方を」


 レインは石盤を見た。


 神託の核を壊せば、世界は変わる。だがたぶん大勢が死ぬ。秩序が失われる。王国は割れ、地方は奪い合い、神殿は狂い、灰旗も残党狩りに遭うだろう。


 壊さなければ。ここまでの死が、全部無駄になる気がした。


 だが、本当に無駄なのはどちらだ。


 レインは深く息を吸った。


「ノエル」

「はい」

「生きろ」

「またそれですか」


 彼女は泣きそうな顔で笑った。


「命令だ」

「……聞き飽きました」


「最後だから聞け」


 レインは石盤の上に剣を置いた。


「これを壊す」

「……」

「だが全部は壊さない。神託院だけを止める。王都と神殿の中枢に集まった記録を焼き、未来を決める権限を消す」


「そんな器用な真似」

「できる。俺ならな」


 少しだけ冗談めかして言うと、ノエルは首を振った。


「馬鹿」

「知ってる」


 レインは石盤に両手を置いた。金の膜が震える。熱が走る。神託の核は単なる石ではない。触れた者の可能性と代償を喰う仕組みだ。壊すには、自分の未来そのものを燃やす必要があるのだと直感でわかった。


 ちょうどいい、と思った。


 もう未来など、持っていても仕方がない。


「総帥!」


 ノエルが何か言った。だが遅かった。


 レインは、自分の中に残っていた全部を燃やした。


 妹の声。谷底の焚き火。拾った仲間。憎しみ。怒り。間違えた正義。全部を薪にして、神託の核へ叩きつける。


 白い部屋が光で満ちた。


 石盤に刻まれた文字が次々に剥がれ、宙へ舞う。未来の断片が燃え、灰になり、空へ吸い込まれていく。


 遠くで鐘が鳴った。聖都じゅうの鐘だ。神託院の停止を告げる鐘。


 レインの膝が折れた。


 身体が冷える。視界の端から色が抜ける。


 ノエルが駆け寄ってくる。口が動いている。何か叫んでいる。だがもうよく聞こえない。


「……生きろ」

 とレインはまた言った気がした。

 それが声になったかどうかはわからない。


 ノエルの頬に涙があった。珍しいと思った。彼女は滅多に泣かなかったから。


「私、あなたのこと、嫌いでした」

 と彼女が言うのが、なぜかはっきり聞こえた。

「知ってる」

「嘘です。今思いついたんです」

「……そうか」

「でも、好きでした」


 レインは笑った。たぶん。


「最悪だな」

「ええ、最悪です」


 意識が遠のく。


 白い部屋の天井が、雨上がりの空みたいに滲む。


 悪役は俺か。


 その言葉は不思議と苦くなかった。むしろ、ようやく自分の立っている場所に名前がついたようで、少しだけ楽だった。


 正義ではなかった。救世主でもなかった。


 救えなかった怒りで進み、救うつもりで壊し、いつの間にか誰かの日常を踏み潰す側へ回っていた。そういう男だった。


 それでも、拾った仲間たちの時間が全部間違いだったとは思いたくない。


 だから最後くらいは、自分の死に方を自分で決める。


 それだけで十分だった。


 レインは最後に、どこか遠い谷底の焚き火を思い出した。ガウスが笑っている。ノエルが痩せた手で椀を抱えている。まだ名前もない勢力が、寒さの中で肩を寄せている。


 あの夜だけは、本当に正しかった気がした。


 それでよかった。


 視界が途切れる直前、外から歓声とも悲鳴ともつかない大きな声が響いた。神託院の光が消えたのだろう。世界はこれから、自分で未来を選ばなければならない。


 それが幸福かどうかは、もうわからない。


 でも、少なくとも誰か一人の命が、紙一枚で切り捨てられるよりはましだと信じたかった。


 最後に見えたのは、泣いているノエルではなく、十年前に処刑台の上から自分を見ていた妹の目だった。


 今度は、その目が少しだけ優しかった。


 そこで世界が閉じた。


   *


 後世、灰旗軍総帥レイン・グレイは王国史にこう記される。


 ――神託院を襲撃し、王国秩序を崩壊させた最大の反逆者。

 ――数万の死を招いた災厄。

 ――討たれるべき悪。


 だが同じ時代の別の記録には、こうも残っている。


 ――あの日から、人は未来を命じられなくなった。


 どちらが正しいかは、たぶん立つ場所で変わる。


 ただ一つ確かなのは、レイン・グレイが死んだその日に、聖都の鐘が最後の神託を告げることなく止まった、ということだけだった。

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