振りかざす正義と救いたい悪意
雨の匂いがした。
それは、血の匂いによく似ていた。
レインは城壁の上から、遠く燃える平原を見ていた。夜のはずなのに地平の向こうが赤い。遠すぎて悲鳴は届かない。けれど、あそこにまだ生きている誰かがいて、火に追われ、逃げ遅れ、家を失い、名も知らぬ兵士に蹴り倒されているのだろうとわかった。
「……また一つ、街が消えたか」
そう呟いた声は、もう若くはなかった。
かつて村を飛び出した時、レインは十七だった。今は二十七だ。十年。たった十年で、泥にまみれた孤児まがいの少年は、王国に最も憎まれる反逆者になった。
灰旗軍総帥、レイン・グレイ。
王都ではそう呼ばれているらしい。北では災厄、南では解放者、西では悪鬼。名前は土地で変わったが、意味はどれも同じだった。秩序の敵。平穏の破壊者。討たれるべきもの。
レインは自分の手を見た。火傷の痕、剣ダコ、古傷、乾いた血。綺麗な手だったことなんて、一度もない。
「総帥」
背後で扉が開き、静かな足音が近づいた。
振り返らずともわかる。ノエルだった。十年前、最初に拾った仲間だ。飢えと暴力にやせ細っていた少女は、今では灰旗軍の参謀として王国の将軍たちに名を知られている。
「報告か」
「はい。第二門の防壁、夜明けまでは持ちます。西の避難民も七割が収容済みです」
「三割は?」
「……途中で神殿騎士団に見つかりました」
それで終わりだった。ノエルは言い訳をしないし、レインも求めない。見つかった避難民がどうなったか、想像する余地はなかった。
しばらく二人で赤く染まる平原を見ていた。やがてノエルが言った。
「今夜、使者が来ます」
「どこから」
「聖都」
「停戦か」
「おそらく。あるいは降伏勧告」
「十年遅いな」
レインが笑うと、ノエルは笑わなかった。
「総帥」
「なんだ」
「もし、本当に停戦なら」
「それはない」
言い切った声は、自分でも驚くほど固かった。
「向こうは俺たちを国として扱わない。反乱でも革命でもなく、ただの害獣駆除だと思ってる」
「でも、向こうも疲弊しています。王都近辺の収穫は半減、聖都も北方経路を失って」
「それでもだ。正義は、疲れたからといって自分の看板を下ろさない」
ノエルは黙った。
その沈黙に含まれる意味を、レインは知っていた。彼女はずっと前から、勝敗ではなく終わり方を考えていた。灰旗軍がどこで止まるべきか。誰を生かして何を残すか。そういうことを考える役目を、自分で背負ってきた。
レインは城壁から視線を外し、ようやく彼女を見た。
「言いたいことがあるなら言え」
「あります」
「だろうな」
「あなたは止まる気がない」
夜風が二人の間を吹き抜けた。
レインは笑いもしなかった。
「今さらだな」
「今さらだから言うんです。最初、私たちは拾われたんです。捨てられた者、見放された者、正義に選ばれなかった者を拾って、寒さと空腹から守って、居場所を作った」
「そうだ」
「でも今は違う。今の私たちは、世界を変えるために人を巻き込んでいる」
「最初からそうだった」
「違います」
ノエルの声が少しだけ強くなった。
「最初は、生き延びるためだった。あなたが怒っていたのは、奪われたものに対してでした。今のあなたは、まだ奪われてもいないものまで壊そうとしている」
レインは目を細めた。
「何が言いたい」
「聖都を落とした後です」
「……」
「神託院を壊し、王家を追い出し、神殿騎士団を折った後。あなたはどこで終わるんですか」
その問いは、真っ直ぐだった。
十年前なら、すぐ答えられただろう。王都を落とせば終わり。神託院を燃やせば終わり。あの白い神殿を崩せば終わり。そう信じていた。
けれど今は、聖都を前にしても終わりの形が見えなかった。
「……向こうが膝をつくまでだ」
「その“向こう”はどこまでですか。王都ですか、神殿ですか、神託ですか。それとも、この世界の正義そのものですか」
レインは答えなかった。
答えられない問いを、ノエルはいつも一番先に持ってくる。
「停戦の使者には会ってください」
「お前は停戦したいのか」
「したいわけではありません」
ノエルは少しだけ視線を伏せた。
「でも、あなたがこのまま進んだ先で、誰が最後まで残るのかは考えています」
残るのはきっと、自分だけだ。
レインはそう思ったが、口には出さなかった。
「……下がれ。使者が来たら呼べ」
「はい」
ノエルは踵を返しかけ、ふと立ち止まった。
「総帥」
「なんだ」
「私は、あなたに拾われてよかったと思っています」
「そうか」
「だから、あなたが何になっても最後まで見ます」
その言葉を置いて、彼女は去った。
城壁に一人残され、レインは遠い火を見続けた。
雨の匂いが、まだしていた。
*
十年前、レインが見た最初の死は、神託に従った死だった。
辺境の小さな村だった。痩せた畑、川霧、冬の早い土地。そこでは春の初めに必ず神官が来て、その年に必要な犠牲を告げた。豊作のための牛、疫病避けの井戸、橋の修繕に回す若者。時々、人間も含まれた。
その年、神託はレインの妹の名を告げた。
まだ九つだった。痩せて、よく咳をして、それでもレインの作る木の笛を吹くのが好きな子だった。
村人は泣いた。母は縋った。父は土下座をした。神官は首を振った。
「神託は、村を守るためにある」
それが正しい言葉なのだと、みんな知っていた。
レインだけが知らなかった。
だから夜中に妹を連れて逃げた。村はずれの森を抜け、山を越え、どこか神の届かない場所まで走るつもりだった。
でも、朝になる前に見つかった。
神殿騎士ではなかった。ただの村人だった。皆、泣いていた。泣きながら、妹を連れ戻した。村を守るためだと何度も言いながら。
妹は最後まで泣かなかった。
ただ処刑台の前で、レインの方を見ていた。
その目だけが、ずっと残った。
――兄ちゃん、なんで。
実際には何も言われていない。だがレインには、そう聞こえた。
その日の夕方、村は雷で半分焼けた。
神託は当たった。妹を捧げても、村は無事ではなかった。
そのことに、誰も声を上げなかった。神託は絶対だ。村人たちはそう信じたいのではなく、そう信じなければ壊れてしまうから、信じた。
レインは壊れた。
神殿を焼こうとした。失敗した。半殺しにされ、谷に捨てられた。
そこで初めて、灰色の旗を見た。
谷底に簡素な幕舎がいくつも並び、痩せた子どもたちと傷だらけの大人たちが焚き火を囲んでいた。誰も制服を着ていない。誰も同じ名を持っていない。だが全員、社会から切り捨てられた人間の顔をしていた。
その中央にいたのが、ガウスだった。
当時の灰旗軍総帥。いや、まだ“軍”ですらなかった。二十人ほどの寄せ集めの盗賊団に過ぎない。王都の法では、ただの犯罪者だ。実際、略奪もしたし、兵糧も奪った。綺麗な集まりではなかった。
だがガウスは、レインに初めてこんなことを言った。
「泣けるなら、まだ人間だ」
レインはその場で泣いた。妹が死んでから一滴も出なかった涙が、谷底でようやく出た。
ガウスは笑った。
「よし。じゃあ飯を食え。怒りは腹が減ってると役に立たん」
その一言で、レインは拾われた。
そこからの十年は、流れの速い川みたいだった。
最初はただ、生き延びるためだった。谷底に集まる孤児、奴隷崩れ、追放兵、税に追われた農民、神殿に見捨てられた病人。そういう者を拾って飯を与え、山の廃砦に拠点を作った。王都に見えない場所に、選ばれなかった者のための小さな町を作った。
それだけで、敵は勝手に増えた。
王都は彼らを盗賊と呼んだ。神殿は異端と呼んだ。地方領主は害獣と呼んだ。けれど灰旗に来る者は後を絶たなかった。正義に救われなかった者にとって、灰旗は初めての居場所だったからだ。
ガウスが死んだのは五年前だった。
討伐ではなく病だった。あまりに間の抜けた死に方で、レインは三日間ずっと怒っていた。
死ぬ前、ガウスは寝台の上で言った。
「お前が継げ」
「嫌だ」
「知ってる。だが他にいない」
「ノエルの方が向いてる」
「参謀は前に立つな。お前は前で燃える役だ」
「燃えたくない」
「嘘つけ」
ガウスはその時、妙に優しい顔をした。
「お前はずっと、世界の真ん中を燃やしたがってる」
そうしてレインは総帥になった。
総帥になって最初の冬、灰旗は村を一つ救った。神託で捨てられた飢饉の村だった。王都は「維持不能」として切り捨て、神殿は「神の試練」と言った。
灰旗はそこへ食糧を運び、王都の倉から奪った麦を配り、領主の徴税官を吊るした。
その村の子どもが、レインの手を握って泣いた。
「ありがとう」
レインはその時、自分が正しいと初めて思った。
だから進んだ。
捨てられた村を救った。奴隷を逃がした。地方の腐敗を潰した。正義の旗の下で笑っていた貴族を、正義の届かない夜道で引きずり下ろした。
王都は彼らを反乱軍と呼んだ。灰旗はその名を受け入れなかった。自分たちは奪われたものを奪い返しているだけだと信じていた。
レイン自身も、そう信じていた。
それがいつから変わったのか、今となってはわからない。
*
聖都からの使者は、夜半に来た。
白旗を掲げた三騎。門前で武装解除し、城塞の広間へ通された。レインが玉座代わりの長椅子に座ると、使者の筆頭はゆっくりと礼をした。若い女だった。まだ二十代半ばほど。白銀の法衣、神殿騎士の剣、胸には青い聖印。
「聖都神託院、執行官セレス・オルディアと申します」
「長い肩書だな」
「必要な長さです」
「俺には無意味だ」
セレスはわずかに眉を寄せたが、それ以上は反応しなかった。
広間の左右には灰旗の幹部が並んでいた。ノエル、巨漢の元鉱夫ロト、片目の射手リザ、元神官のミハル、そして十年前からレインの背中を見てきた者たち。皆、使者を見る目が冷たい。
「用件は」
「停戦の提案です」
「やはりな」
「双方の被害は限界に近い。これ以上の消耗は、王国全土に回復不能の損失を与えます」
「王国全土、ね」
レインは肘掛けに頬を預けた。
「俺たちは王国に含まれるのか」
「法の上では」
「都合がいい時だけ」
セレスは一度、深く息を吸った。
「灰旗軍総帥レイン・グレイ。あなた方の行為が、地方において一定の支持を得ていることは把握しています」
「支持、か。ずいぶん綺麗に言う」
「現実を言っているだけです」
「なら現実をもう少し言えばいい。俺たちがなぜ支持されているか」
「……」
「正義が遅いからだ」
広間が静まった。
「王都も神殿も、守るべきものを守るのが遅い。見捨てるのだけは早い。そこへ俺たちが行く。だから人が集まる」
セレスはレインを見つめた。
「それでも、あなた方は多くを殺した」
「そうだ」
「町を焼き、兵を殺し、神殿を壊し、民を巻き込んだ」
「そうだ」
「自覚はあるのですね」
「あるとも。自覚がないなら、ただの狂人だ」
セレスの目に、ほんの少しだけ感情が浮かんだ。怒りではない。たぶん、失望だった。
「では、なぜ止まらないのです」
「止まれば戻るからだ」
「何が」
「全部だ」
レインはゆっくり立ち上がった。
「神託院を残せば、また村は切り捨てられる。神殿騎士団を残せば、また誰かが正義の名で踏み潰される。王家を残せば、また飢える土地が地図の端で黙殺される」
「それを変えるために、すべてを壊すのですか」
「必要なら」
「その先に何があると?」
レインは一瞬、言葉に詰まった。
セレスはそれを見逃さなかった。
「あなたは“今”を否定することには慣れている。では、その先にある世界を、ちゃんと描いたことがありますか」
ノエルがわずかに身じろぎした。レインは気づかないふりをした。
「少なくとも、今よりはましだ」
「それは信仰と何が違うんです」
その言葉だけが、妙に深く刺さった。
神託を信じる者たちを、レインはずっと軽蔑してきた。未来を勝手に定められ、それに縋る弱さを嫌ってきた。
だが自分もまた、「今を壊せばその先はましになる」と信じているだけではないのか。
その疑念が一瞬だけ頭をもたげたが、すぐに押し込めた。
「用件は終わりか」
「……停戦には応じないと」
「応じない」
「では次に会う時は」
「戦場だろうな」
セレスは静かに礼をした。
「最後に、一つだけ」
彼女は顔を上げた。
「私はあなたを、ただの怪物だと思いたかった。けれど今の話を聞いてしまった。だから厄介です」
「厄介?」
「あなたは、半分だけ正しい」
そう言い残し、使者は去った。
広間に残った者たちは、しばらく誰も口を開かなかった。やがてロトが拳を鳴らす。
「停戦なんざ、するわけねえ」
「ええ」とリザが言った。「向こうだってそのつもりで来たわけじゃない。ただの確認よ。総帥がまだ引き返せるかどうか」
「で?」
「顔見ればわかるでしょ。無理だって」
軽口のようでいて、刃だった。
ノエルは何も言わなかった。
レインは玉座代わりの長椅子に座り直した。
「明朝、西門を開く。こちらから聖都へ打って出る」
「了解」
「了解いたしました」
「承知」
幹部たちが一人ずつ応え、去っていく。
最後にノエルだけが残った。
「まだ何かあるか」
「あります」
「今日は多いな」
「最後なので」
その言葉に、レインは眉をひそめた。
「縁起でもない」
「縁起の問題ではありません。明日で全部決まる」
「決めるんだろう」
「ええ」
ノエルは真っ直ぐにレインを見た。
「あなたが明日、聖都の中枢へ入るなら、私は西門の防衛に残ります」
「却下だ」
「戦力配分です」
「ノエル」
「総帥命令なら従います。でも、そうしたら東の避難経路が死にます」
レインは舌打ちしたくなった。
彼女はいつも正しい。いや、正しいというより、数字と現実を持ってくる。感情でひっくり返せない形で。
「生きろ」
「難しい命令ですね」
「命令だ」
「それをあなたに言われると、少し腹が立ちます」
珍しく皮肉を返し、ノエルは笑った。ほんの少しだけ、昔の、痩せた少女の面影があった。
「……もしあなたが勝ったら」
「ん?」
「勝ったら、今度こそ止まってください」
レインは答えなかった。
ノエルはそれを見て、静かに礼をして去った。
*
夜明け前、雨が降った。
灰色の雨だった。血と煤で汚れた城塞の石が、ゆっくり濡れていく。兵たちは無言で武具を整え、矢束を背負い、刃を研いだ。誰も歌わない。勝利の空気ではなかった。終わりに向かう朝の空気だった。
レインは鎧を着なかった。昔からそうだ。重いものは嫌いだった。代わりに黒い外套を羽織り、妹の形見である木の笛を首から下げた。音はもう出ない。何度も血に濡れ、欠け、修理され、ただの木片に近い。だが捨てられなかった。
出陣の前、ロトが言った。
「総帥。今日死ぬ気か」
「毎日死ぬ気でやってきただろ」
「今日だけは違う顔してる」
「そうか?」
「ああ。帰る気がない顔だ」
レインは少し笑った。
「お前はどうだ」
「俺は最初から、お前が死ぬまで付き合うと決めてる」
ロトは鈍い斧を肩に担ぎ、そう言った。
その言葉はありがたくて、重かった。
リザは別れ際に、「右から三番目の塔、あれだけは私が落とす」と言った。十年前、彼女の弟があの塔の処刑台で首を落とされたからだ。
ミハルは、かつて神官だった頃の癖で、出陣前に全員の肩へ順番に手を置いていった。祈りではなく、確認のように。
「誰も神に渡さない」と彼は言った。
朝日が雲の向こうで白くにじむ頃、灰旗軍は門を開いた。
聖都への進軍は、驚くほどあっけなく始まった。
西門前の平野には、神殿騎士団が整列していた。白銀の鎧、青い聖印、統一された旗。美しかった。正義はいつも、美しく並ぶ。
先陣を切ったのはロトだった。咆哮を上げ、斧を振り下ろし、最前列をまとめて砕いた。そこへリザの矢が飛ぶ。灰旗の兵が雪崩れ込む。
開戦から一刻で、平野は泥と血の色になった。
レインは剣を抜いた。細身の片刃。特別な名剣ではない。十年前、ガウスから受け継いだだけの剣だ。
最初に向かってきた騎士は若かった。まっすぐな目をしていた。正義の教育を受け、正義のためにここに立っている顔だった。
レインはその剣を弾き、喉を裂いた。
若い騎士は目を見開いたまま崩れた。
この男にも家があっただろう。守りたいものがあっただろう。自分こそが秩序を守る側だと信じていたはずだ。
レインはそのことを知った上で、次の敵へ向かった。
戦いは長く続かなかった。灰旗軍はもう、ただの寄せ集めではない。十年かけて鍛え、拾い、削り、作り上げた勢力だった。しかも今日の彼らには、勝利より先に終わりへの執念があった。
神殿騎士団の左翼が崩れ、右翼が包囲される。聖都の門が閉じようとする。レインはそこへ一直線に突っ込んだ。
その時、背後で地鳴りのような音がした。
振り返ると、西門側の城壁で黒煙が上がっていた。
ノエルの持ち場だ。
嫌な予感が胸を刺した。だが戻れない。今ここで止まれば、すべてが中途半端になる。レインは歯を食いしばり、前だけを見た。
聖都の門を破ったのはミハルだった。元神官の彼は聖印の構造を知っており、神殿の結界に最短で穴を開けた。その直後、胸を貫かれた。
レインが駆け寄った時には、もう血が広がっていた。
「ミハル!」
「……っ、総帥」
彼は笑おうとして、失敗した。
「結界は……三分……」
「喋るな」
「最初に拾われた日……覚えてますか」
「覚えてる」
「よかった」
ミハルは薄く息を吐いた。
「私、あの日……神殿より、あなたが怖かったんですよ」
「今、言うことか」
「でも、ずっと……そっちの方が、正しい恐怖でした」
その意味を聞き返す前に、彼の目から光が消えた。
三分。
レインは立ち上がった。泣く暇もなかった。三分で門を抜けなければ、ミハルの死はただの一人分の死になる。
聖都の街路は静かだった。住民は避難している。いや、避難させられている。神殿騎士と灰旗軍がぶつかる中心から、一般市民だけは外されている。秩序だった撤退だ。どこまでも、正義はこういうところだけ上手い。
レインは神託院を目指した。大聖堂の奥、白亜の塔。神の言葉を降ろす場。
途中、右から三番目の塔が崩れた。リザが約束通り落としたのだとわかった。
だがその次の瞬間、塔の上から一条の光が走った。眩いほど白い槍が、街路を斜めに切り裂く。
嫌な気配にレインが身をひねった時には、遅かった。
光の先に、リザがいた。
片目の射手は、自分ごと塔を落とすつもりだったのだろう。崩れかけた石の上で血を吐きながら、それでも最後の矢を番えていた。聖都の司祭を射抜き、その直後、白い槍に胸を貫かれた。
遠すぎて声は聞こえない。
それでも、口の動きだけは見えた。
――やった。
その口元は、ひどく満足そうだった。
レインは走った。走るしかなかった。仲間が死ぬたびに止まっていたら、ここまで来た意味が消える。
神託院へ辿り着いた時、扉の前に一人立っていた。
セレスだった。
使者として来た時と同じ白銀の法衣。剣を抜いている。顔色は青いが、足は揺れていない。
「やはり、あなたが来ると思った」
「どけ」
「嫌です」
「死ぬぞ」
「そうでしょうね」
雨の残りが石畳を光らせていた。二人の足元に、空が淡く映る。
セレスは剣を構えた。
「あなたを止めれば、まだ終わり方を選べる」
「終わり方?」
「これ以上、あなたを悪にしなくて済む」
その言葉に、レインは思わず笑った。
「今さら、善悪の話か」
「今さらだからです」
セレスの目は真っ直ぐだった。
「あなたはずっと、自分が救われなかった怒りでここまで来た。でもそれは、救われなかった全員の代弁ではない」
レインは剣を握り直した。
「説教なら後にしろ」
「後がないから言っています」
セレスが踏み込んだ。
速い。正確だ。神殿騎士として理想的な剣だと、一合でわかった。無駄がなく、綺麗で、躊躇がない。たぶん彼女は本当に、この国を守ろうとしている。
だから厄介だった。
レインの剣は雑だ。戦場の中で無理やり伸びた剣だ。生き延びるための切っ先。正しさよりも、届くことを優先した剣。
数合で、セレスの白い法衣が裂けた。だが同時に、レインの腕にも浅い切り傷が走る。
「あなたは」とセレスが言う。「本当に、最初から怪物だったわけじゃない」
「……」
「なのに、なぜそんな顔をするんです」
レインは答えなかった。
どんな顔をしているのか、自分ではわからなかった。
だが次の一撃で、セレスの剣を弾き飛ばした。彼女は膝をつく。喉元に刃を突きつける。
「終わりだ」
「そうですね」
セレスは不思議なほど静かだった。
「殺してください」
「……」
「私は、あなたを止められなかった。なら、あなたの物語の障害として死ぬしかない」
レインの喉が、ひどく乾いた。
「お前は本気で、自分が正義だと思ってるのか」
「思っています」
「神託院がどれだけの人間を見捨ててきたか知っていても?」
「知っています」
「ならどうして」
「それでも、今日この街であなたに家族を殺される子どもがいるからです」
その言葉だけが、深く入った。
今日この街で、誰かが家族を失う。
かつて自分がそうだったように。
その子にとって、レインは神と同じ側の加害者になる。
剣先がぶれた。
セレスはその一瞬を逃さなかった。落ちた剣ではなく、腰の短剣でレインの脇腹を刺した。浅くはない。だが致命でもない。
レインは反射で彼女を斬った。
白い布に赤が広がる。
セレスは倒れながら、わずかに笑った。
「……半分だけ、正しい人」
「喋るな」
「最後まで……厄介、でした」
そのまま彼女は動かなくなった。
レインは立ち尽くした。
足元で白と赤が混じっていく。遠くではまだ戦いの音がする。神託院の扉は目の前だ。
なのに、指が動かなかった。
半分だけ正しい。
その言葉が、頭の中で何度も反響した。
*
神託院の最奥は、拍子抜けするほど静かだった。
巨大な神像も、天を貫く奇跡の光もなかった。白い部屋の中央に、円形の石盤が一つあるだけ。その上に薄い金の膜が揺れている。
近づくと、膜の中に無数の文字が浮かんだ。
生まれる。死ぬ。結ばれる。失う。栄える。滅びる。
誰かの人生が、簡素な言葉で並んでいる。
レインは石盤に手を置いた。冷たい。
「これで、世界を決めてきたのか」
返事はない。
当然だ。ただの装置なのかもしれない。神と呼ばれたものの本体が、人格ですらない可能性を、レインはここへ来る途中で何度も考えていた。
神とは何か。正義とは何か。
考えても答えは出なかった。ただ一つ確かなのは、ここが多くを決めてきたということだけだ。
その時、背後で足音がした。
ノエルだった。
血まみれだった。肩から腕にかけて深く裂け、左足を引きずっている。
「……生きてたか」
「そっちこそ」
彼女は部屋の入口にもたれたまま、浅く息をした。
「西門は?」
「持たせた。ロトが死ぬほど粘った」
「死んだのか」
「まだ。たぶん」
たぶん、という響きがひどく重かった。
ノエルは石盤を見た。
「それが神託の核?」
「ああ」
「壊すの?」
「そのために来た」
「そう」
彼女は少しだけ笑った。疲れきった笑みだった。
「ねえ、総帥」
「なんだ」
「私、ずっと考えてたんです」
「何を」
「あなたがいつ、自分を敵だと認めるのか」
レインは振り返った。
「……今それを言うのか」
「今しかないから」
ノエルは壁を伝いながら、ゆっくり歩いてきた。
「最初は、あなたは本当に正しかった。少なくとも私にはそう見えた。救われなかった者を拾って、飯を与えて、寒さから守った」
「今も変わらない」
「変わりました」
彼女の声は静かだった。責めるでもなく、ただ事実を置いていくように。
「あなたは途中から、救うためじゃなく、壊すために進み始めた」
レインは目をそらさなかった。
「壊さなきゃ変わらない」
「そうかもしれない。けれど壊した先を、あなたは誰にも見せられなかった」
「……」
「だから皆、あなたの理想じゃなく、あなた自身に賭けたんです」
「それの何が悪い」
「全部」
ノエルは咳き込み、口元を押さえた。血が滲む。
「あなたが倒れた瞬間、夢ごと終わるんですよ。そんなもの、国でも理想でもない。ただのカリスマです」
「ノエル」
「でも、それでも私はついてきた」
彼女は笑った。
「だって拾われたから。あなたに生きろって言われたから。……ずるいでしょう?」
レインの喉が、ひどく痛んだ。
「私は、あなたを正義だと思ってたわけじゃない」
「じゃあ何だ」
「私の世界でした」
その言葉だけで十分だった。
十年前、谷底で拾った痩せた少女。飯を出し、寝床を与え、計算と文字を教えた。彼女はやがて自分の右腕になり、誰より先に世界の現実を見た。
そんな彼女にとって、自分が世界だったのだとしたら。
それはもう、宗教と変わらない。
神を憎んでここまで来たのに、自分もまた誰かの神になっていた。
レインは石盤に手を置いたまま、目を閉じた。
ここへ来るまでに殺した兵の顔。セレスの白い法衣。平原で燃える街。妹の目。村人たちの沈黙。谷底での焚き火。ガウスの笑い声。ロトの拳。リザの最後の口元。ミハルの「誰も神に渡さない」という声。
全部が一度に押し寄せた。
「……ああ」
その時、ようやく言葉になった。
「悪役は、俺か」
ノエルは少しだけ目を細めた。
「やっと言った」
「遅かったな」
「ええ。ひどく」
二人の間に静かな時間が落ちた。
外ではまだ戦いの音がする。だがここだけは、ひどく静かだった。
「なら」とノエルが言う。「最後くらい、選んでください」
「何を」
「悪役の終わり方を」
レインは石盤を見た。
神託の核を壊せば、世界は変わる。だがたぶん大勢が死ぬ。秩序が失われる。王国は割れ、地方は奪い合い、神殿は狂い、灰旗も残党狩りに遭うだろう。
壊さなければ。ここまでの死が、全部無駄になる気がした。
だが、本当に無駄なのはどちらだ。
レインは深く息を吸った。
「ノエル」
「はい」
「生きろ」
「またそれですか」
彼女は泣きそうな顔で笑った。
「命令だ」
「……聞き飽きました」
「最後だから聞け」
レインは石盤の上に剣を置いた。
「これを壊す」
「……」
「だが全部は壊さない。神託院だけを止める。王都と神殿の中枢に集まった記録を焼き、未来を決める権限を消す」
「そんな器用な真似」
「できる。俺ならな」
少しだけ冗談めかして言うと、ノエルは首を振った。
「馬鹿」
「知ってる」
レインは石盤に両手を置いた。金の膜が震える。熱が走る。神託の核は単なる石ではない。触れた者の可能性と代償を喰う仕組みだ。壊すには、自分の未来そのものを燃やす必要があるのだと直感でわかった。
ちょうどいい、と思った。
もう未来など、持っていても仕方がない。
「総帥!」
ノエルが何か言った。だが遅かった。
レインは、自分の中に残っていた全部を燃やした。
妹の声。谷底の焚き火。拾った仲間。憎しみ。怒り。間違えた正義。全部を薪にして、神託の核へ叩きつける。
白い部屋が光で満ちた。
石盤に刻まれた文字が次々に剥がれ、宙へ舞う。未来の断片が燃え、灰になり、空へ吸い込まれていく。
遠くで鐘が鳴った。聖都じゅうの鐘だ。神託院の停止を告げる鐘。
レインの膝が折れた。
身体が冷える。視界の端から色が抜ける。
ノエルが駆け寄ってくる。口が動いている。何か叫んでいる。だがもうよく聞こえない。
「……生きろ」
とレインはまた言った気がした。
それが声になったかどうかはわからない。
ノエルの頬に涙があった。珍しいと思った。彼女は滅多に泣かなかったから。
「私、あなたのこと、嫌いでした」
と彼女が言うのが、なぜかはっきり聞こえた。
「知ってる」
「嘘です。今思いついたんです」
「……そうか」
「でも、好きでした」
レインは笑った。たぶん。
「最悪だな」
「ええ、最悪です」
意識が遠のく。
白い部屋の天井が、雨上がりの空みたいに滲む。
悪役は俺か。
その言葉は不思議と苦くなかった。むしろ、ようやく自分の立っている場所に名前がついたようで、少しだけ楽だった。
正義ではなかった。救世主でもなかった。
救えなかった怒りで進み、救うつもりで壊し、いつの間にか誰かの日常を踏み潰す側へ回っていた。そういう男だった。
それでも、拾った仲間たちの時間が全部間違いだったとは思いたくない。
だから最後くらいは、自分の死に方を自分で決める。
それだけで十分だった。
レインは最後に、どこか遠い谷底の焚き火を思い出した。ガウスが笑っている。ノエルが痩せた手で椀を抱えている。まだ名前もない勢力が、寒さの中で肩を寄せている。
あの夜だけは、本当に正しかった気がした。
それでよかった。
視界が途切れる直前、外から歓声とも悲鳴ともつかない大きな声が響いた。神託院の光が消えたのだろう。世界はこれから、自分で未来を選ばなければならない。
それが幸福かどうかは、もうわからない。
でも、少なくとも誰か一人の命が、紙一枚で切り捨てられるよりはましだと信じたかった。
最後に見えたのは、泣いているノエルではなく、十年前に処刑台の上から自分を見ていた妹の目だった。
今度は、その目が少しだけ優しかった。
そこで世界が閉じた。
*
後世、灰旗軍総帥レイン・グレイは王国史にこう記される。
――神託院を襲撃し、王国秩序を崩壊させた最大の反逆者。
――数万の死を招いた災厄。
――討たれるべき悪。
だが同じ時代の別の記録には、こうも残っている。
――あの日から、人は未来を命じられなくなった。
どちらが正しいかは、たぶん立つ場所で変わる。
ただ一つ確かなのは、レイン・グレイが死んだその日に、聖都の鐘が最後の神託を告げることなく止まった、ということだけだった。
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