第9話~黄昏
東京。夕暮れの商店街へ向かう帰り道。
泡はコンビニ袋を指で揺らし、つま先で舗道を弾くように歩いていた。
ビルの隙間から流れ込む夕陽は赤く傾き、影だけが先に夜へ落ちていく。
「ねぇビタくん。すき焼きに入れる豆腐ってさ、絹と木綿、どっちが正義だと思う?」
「……どちらでもいい」
「え〜? 人生の分岐点だよ? ここ間違えると破局するカップルもいると思うんだよな〜」
一文は黙ったまま歩く。
泡は横跳びで追いつき、覗き込む。
「しらたきは先入れ? 春菊は? うどんは最後まで待つ派?」
「……お前、本当に死体を見た帰りか?」
泡は肩をすくめ、笑った。
「見たからお腹が減るんだよ。ほら、“生きてるんだもーん”って実感するじゃん」
無邪気な表情。
けれど、夕陽がその瞳を照らした瞬間だけ──何か黒い揺らぎが、奥底で波紋のように蠢いた。
商店街の入り口に差し掛かった時、風向きが変わった。
夕方のはずなのに、店のシャッターは半分閉まり、通りの気配が薄い。
揚げ物の匂いも、八百屋の声も──音の“温度”がない。
風鈴のような音がしたが、それは風のリズムと合っていなかった。
何かが風に混じって鳴っている、とでも言うような。
「……ねぇビタくん。ここ、こんなに静かだったっけ?」
泡が立ち止まる。
次の瞬間、表情から“人間的な温度”がすっと消えた。
まるで音ではなく、気配そのものを吸い込むように。
一文も遅れて、胸の奥がざわつくのを感じた。
喉の内側がひりつく。
理由は分からない。
ただ本能だけが警鐘を鳴らし、足を止めろと言っている。
そのとき──泡は急に走り出した。
「おい、待て!」
一文の声は、泡には届かない。
泡は一直線に駆け抜け、商店街の角を曲がる。
──ターンッ。
乾いた銃声が、夕暮れからすべての色を奪った。
一文の心臓が跳ね、足の裏が急に冷たくなる。
息が胸で固まり、身体が前へ進むのを拒んだ。
角を曲がると、泡が立ち尽くしていた。
その視線の先に──黒いローブの影が立っていた。
フードの奥は闇そのもの。
街灯に照らされても輪郭を返さず、そこだけ世界が欠け落ちたように見える。
影は地面に落ちず、ただ立っている。
足元には、肉屋のおばちゃんが倒れていた。
白いエプロンに赤が滲み、まだ残っている体温が周囲の冷えと対照的だ。
「……なんで……」
泡の声が震えた。
だが震えはすぐに止まり、呼吸が整う。
瞳の奥底に、深く沈んだ色が浮かぶ。
その変化に、一文の喉がぎゅっと締まった。
「……そっか。“こう”なるんだ」
声は少女の音色なのに、底が冷たい。
泡は、家に帰るような自然さで一歩踏み出した。
「あなたが──『死神』だよね?」
問いというより、“思い出した”という響き。
ローブの影は何も言わない。
ただ、泡だけを見ていた。
沈黙なのに、明確な“肯定”がそこにあった。
一文は震える手で、泡の肩を掴む。
「下がれ、アブク……あれは、“人間じゃない”」
自分の声が震えていることに、一文自身が驚いた。
泡は振り返らず、静かに言う。
「ねぇビタくん。これでやっと……聞けるんだ」
そっと耳の南京錠へ指を滑らせる。
その仕草は、艶やかで、危うく、
そして──“本来の自分を思い出していく人間の動き”だった。
風が旗を揺らし、かすれた布の音が境界線のように鳴る。
死神の影が、ゆっくりと一歩だけ前に進んだ。
そこで初めて、一文は呼吸を忘れた。
影の下──地面のタイルには、人の影が落ちていなかった。
影は影を持たず、ただ黒を湛えているだけ。
泡が、小さく息を吸う。
そして──
「ねぇ、おまえは……だぁれ?」
夕暮れの空気が、そこで完全に止まった。




