第3話~花の香り
「……ああ、札幌行きはキャンセルで」
通話を切った一文は、わずかに肩を落として息を吐いた。
その仕草だけで、ただの予定変更ではないとわかる。
「……変更だ」
「え、いまなんて?」
泡がドアの前で大げさに振り返る。
「北海道いかないの!? 雪、見たかったのに!」
「雪はまだだ。ほら、支度しろ」
「えぇぇ……でもニュースにも何も出てないよ? 本当に?」
泡はスマホをひらひらさせながら食い下がる。
一文は冷たい指で鞄のファスナーを閉め、短く返した。
「確かな筋からだ」
「またそれぇ……」
泡はほほを膨らませる。
「ビタくんの“確かな筋”、絶対まともじゃないでしょ」
その言い方には軽さがあるのに、
目だけは一文の表情を“探るように”見ていた。
「向かう先は名古屋だ」
「うぅ〜……。じゃあお昼はエビフリャーね。名古屋はそれで手を打つ」
一文は小さく笑った。
ほんの一瞬だけ、曇っていた表情が緩んだ。
ビルを出ると、雨は細い糸のように地面へ降りていた。
傘はいらないほどの霧雨だが、空気にひんやりとした緊張が混じっている。
その緊張を破るように――。
「ゼニちゃーん、ちょうどよかった!」
商店街の角から、肉屋のおばちゃんがエプロン姿で手を振った。
「揚げたてコロッケ、今できたとこ! 持ってきな!」
「おばちゃーん!!」
泡は弾丸のように駆け寄り、紙袋を受け取る。
「イチモンちゃんも、はい」
「……ありがとうございます。代金を――」
「いらないの! 若い子には美味しいの食べてもらわなきゃ、店やってる意味がないでしょ!」
泡はもうかぶりついていて、ほっぺたが熱で真っ赤だ。
「んまっ……! あっつ! でもんまっ!」
一文も一口かじり、その熱に目を細めた。
「……美味しいです」
「ふふふ、よかった。今日はどこ行くの?」
「ひと仕事です。終わったらまた寄ります」
「すきやき!すきやきが食べたい!」
泡が言う。
おばちゃんは腹を抱えて笑った。
「イチモンちゃん、ゼニちゃんに美味しいすきやき食べさせたげなよ。いい肉取っとくから!」
一文は、苦笑しながら頭を下げた。
その横顔を、泡はこそっと見ていた。
――この穏やかな景色が、いつまで続くんだろう。
そんな不安が、ほんの一瞬、泡の胸をくすぶった。
新幹線の車内
泡は窓に額をくっつけ、流れる景色を追っていた。
「あーあ、北海道行きたかったなあ……雪見たかった」
「雪は、まだだが……終わったら、今度こそ札幌だ」
「……ほんと?」
「嘘は言わない」
泡は肩の力をふっと抜き、座席に座り直した。
その安心の落ち方が、一文には痛いほどよくわかった。
名古屋駅に降り立つと、午後の陽は傾き始めていた。
湿った風が線路の隙間から上がり、火照った肌に張りつく。
泡は駅前の案内板を見上げ、頬をふくらませる。
「でもさ、蟹のかわりにエビフライ……。なんか釈然としないかも」
「文句は現場を片づけてから言え」
ぶっきらぼうに言いながらも、一文の歩調は泡に合わせている。
肉屋で貰ったコロッケの余韻だけは、まだ二人の間に温度を残していた。
現場付近
事件現場は、繁華街の表通りから一本外れた細い路地だった。
昼でも薄暗いその場所に、黄色い規制線が張られ、数名の警官が残っていた。
「ここは――」
若い巡査が制止しようとした瞬間、後方から声がかかる。
「通していい。報告屋だ」
警部の一言で、道はすぐに開いた。
いつものやりとり。
しかし、泡はどこかむず痒そうに袖をつまんだ。
「なんかさ……こういう扱い、慣れないんだよね」
「慣れなくていい。慣れたら終わりだ」
淡々と返しながら、一文は規制線の向こうへ入っていく。
泡も続き――そして、足が止まった。
被害者は二十代の女性。
倒れた胸元に、あの黒い彼岸花がそっと添えられている。
泡はその花を見た途端、体をわずかに引いた。
「……っ」
視線を逸らすかと思えば、逆に覗き込む。
吐き気と興味が一緒にせり上がってくるような、不安定な呼吸。
「きもちわる……」
と言いながら、
泡は手を伸ばし、黒い花弁へと顔を近づけた。
ほんのわずかに、吸い寄せられるように――。
そのとき、シャツの襟元がわずかにずれて、鎖骨の下に白く浮かぶ線が覗いた。
「……あれ、これ……」
胸の中央を縦に走る、薄く古い縫合痕。
泡は眉を寄せ、指先で空をなぞるようにその位置を確かめる。
「手術……?」
呟いた声は、誰にも届かないほど小さかった。
だが次の瞬間、ふわりと鼻先をくすぐる香りが泡の意識をさらっていく。
「……っ、なんか……」
花の匂い。
香りは柔らかく、どこか記憶をくすぐるような――。
泡は思わずさらに顔を近づける。
「……懐かしい、香り……」
瞬間、一文の瞳が鋭く揺れた。
「アブク、触るな」
低い声だった。
いつもより、少しだけ“怒り”が混じっている。
「びっくりした……!触らないよ!それくらいわかってるよ!」
泡は、怖がっているのか、怒っているのかわからない表情で、一文を見上げた。
一文は答えない。
ただ、黒い花を見下ろす眼差しだけが――人間のものではないほど静かだった。
事件は午前。
場所は繁華街の一本裏。
人が多いのに、目撃情報はゼロ。
「……また、誰にも見られずにか」
一文の呟きは風に流される。
泡はしゃがみ込んで、被害者の顔をのぞき込む。
「ねえ……眠ってるみたいだよね」
その声には、
無邪気さではなく、“興味”が滲んでいた。
一文は黙って頷く。
その瞬間――
彼の視線の奥には、“黒い花の向こう側”が映っていた。
まるでそこに、何かが立っているかのように。
泡は気づいていた。
一文の視線が、死体ではなく花を見ていることを。
そしてその花の色が、“彼の過去に触れる鍵”であることも。
だが、口には出さない。
出したら、戻れなくなる気がした。
雨粒がひとつ、花弁の上で弾ける。
黒が、ほんの一瞬だけ揺れた。




