第2話~雨音の向こう
第2話~雨音の向こう
雑居ビル四階。
湿ったカーペットと古びた壁紙の匂いが、雨の湿気と混ざり合っていた。
窓を叩く雨粒は、まるで外界だけが時間を刻んでいるかのように規則正しい。
部屋の温度だけがそのリズムにつれて、静かに、確実に奪われていく。
一文は、その冷えとまったく無関係のようにキーを叩いていた。
画面の白い光が、彼の眼鏡のレンズを硬く照らす。
「……現場検証終了。被害者、三十七歳男性。死因は心臓への銃弾一発。苦痛の痕跡なし」
淡々とした声に、一瞬だけ呼吸が混じる。
区切られる言葉だけが、部屋の底へ静かに落ちていった。
「現場に黒い彼岸花。警察回収済み。染料反応なし。“存在しない色”と判定。犯行推定時刻は──」
「ねえねえ、ビタくん」
ソファに寝転がっていた泡が、スマホを掲げたまま声をかけた。
「“死に花”ってタグ、また伸びてるよ。
“黒い花の死神”とか、“安らかな殺人”とか。呼び方、どんどん増殖中」
「……安らかな殺人、ね」
一文の指は止まらなかったが、声の温度がわずかに低くなる。
「人は死を怖れながらも、何かしら意味を与えようとする。
“美”でも、“恐怖”でも、手に取れる形に変換しないと落ち着かない」
泡は画面をスクロールしながら眉をひそめた。
「でも、“選ばれた者だけの証”なんて言ってる人もいるよ。
……死ぬことが特別みたいじゃん、なんか」
「特別ではない。死はすべてに平等だ」
「ほんとにぃ?」
泡はスマホをくるくると回し、にやりと笑う。
「事件、全部見返してみたんだけどさ。
場所も時間もバラバラ。札幌、京都、東京、福岡、大阪……で、また東京。
同じ日に二件とか。どう考えても、人間の移動じゃないよね」
フッと鼻で笑い、
「北から南まで、よく働きますなぁ」
皮肉混じりに吐き捨てて、軽く肩をすくめる。
「単独犯では不可能だな」
「人間なら、でしょ?」
一文の指が止まった。
雨のリズムが、その瞬間だけ乱れたように聞こえる。
彼はデータを開き直す。
年齢、性別、職業、生活圏──一切の共通点はない。
ただ二つだけ、抗えない線で貫かれていた。
銃弾による即死。
そして、黒い彼岸花。
「無差別殺人にも見えるが……」
一文は低く言う。
「……死神なら、無差別には殺さない。
死は“訪れる”ものだ。奪いに行くものじゃない」
泡はその横顔をじっと見つめた。
「じゃあ、やっぱ死神じゃないのかー。残念」
「わからない。
なにより……やり方が異常すぎる。銃は、人間の道具だ」
泡はスマホをスワイプしながらぼそりと言った。
「……ねぇビタくん。
この黒い花、なんか気持ち悪いよね――って、あっ!」
一文は少し乱暴にスマホを取り上げ、画像を拡大した。
黒い彼岸花の花弁。その、光を拒むような色。
その瞬間。
泡の表情がわずかに崩れた。
まるで、自分の内側に針が刺さったみたいに、くちびるをきつく噛む。
「うげ……やっぱ気持ち悪い」
声は軽い。
だが、次の瞬間だけ泡の目に“何かの記憶”のような影が走る。
普段のはしゃぎがその影に吸いこまれていく。
「でもさ……」と泡は無理に笑うように続けた。
「ちょっと興奮するっていうか。……わかる?」
言葉は軽いが、手の爪は白く食い込んでいる。
指先はポケットの隅で、見えない鍵を探るように落ち着かない。
「見える“黒”じゃないんだよね。
吸いこまれるっていうか……あれ?」
自分の言葉に泡は苦笑した。
「あはは、変な言い方。でも“美しい”より“欠けてる”。
そういう黒だから、気持ち悪いのかも」
一文は泡を一度だけ見る。
そして、黒い花弁へ視線を戻した。
「この色は……世界のどこにも存在しない」
その声は、いつになく揺れていた。
泡はすぐに気づいた。
「ビタくん……知ってるんでしょ、この色」
「知らない」
「嘘だよね」
「……」
雨音が、言葉より静かに沈む。
長い沈黙のあと、一文はひどく低い声で言った。
「……死神のローブと同じ色だ」
「えっ……なにそれ」
「死神の正装。この世の光を拒む“質”をしている」
泡は鳥肌を払うように肩をすくめた。
「じゃあ……やっぱり死神?」
「わからない。ただ……もし本物だとしたら──やり方が乱暴すぎる」
泡は大きく息を吐き、わざと明るい声を貼った。
「で、一件目はどこだっけ?」
「札幌。繁華街の路地裏だ。警察は何も掴めていない」
「おお!ホッカイドー!行くぞビタくーん!」
荷物も確認せず立ち上がる。
だがその背中には、期待とも不安ともつかないものが滲んでいた。
泡が動いた瞬間、空気がふっと揺れた。
北の空へ伸びる細い光が、裂け目のように彼らを誘う。
一文はその光を見つめ、息をうっすら吸う。
だが光はすぐに雨雲へのみ込まれた。
薄闇が戻ると同時に、部屋の温度がひとつ深く沈む。
「――アブク」
呼び止められた泡が振り返ると、一文はスマホに視線を落としたまま眉を寄せていた。
「……七人目がでた。今度は名古屋だ」
光は消えた。
ただ雨だけが、死神の足音のように規則正しく降り続けていた。




