第12話~エピローグ
第12話~エピローグ
報告を終えた午後、事務所の空気はどこか軽くなっていた。
一文がPCを閉じると、泡はすでにコートを羽織り、玄関でくるくると回っていた。
「ねぇビタくん、今日は“生きてる”味がする日だよ」
「……すき焼きか」
「うん。約束でしょ?」
二人は並んで事務所を出た。
冬の陽は低く、街を斜めに照らしていた。
風は冷たいが、どこか柔らかい。世界が少しだけ、昨日より静かに呼吸しているようだった。
商店街は、いつものようににぎわっていた。
八百屋の声、揚げ物の匂い、子どもの笑い声。
昨日、あの影が立っていた場所も、今はただの通り道だ。
泡が足を止める。
肉屋の前──シャッターは半分開いていた。
「……あいてる」
「閉店準備中らしいな」
そのとき、隣の豆腐屋の店主が声をかけてきた。
「おう、鐚さんにアブクちゃん。来てくれたのかい」
「……様子を見に来ただけだ」
「そっか。ありがとよ。あの店、昨日の今日でな……息子さんが戻ってきてな。閉める前に、せめて残った肉だけでも売ろうって。卸屋の連中も手伝ってくれてるんだ」
泡が小さく頷く。
「おばちゃん、最後まで“売り切るのが仕事”って言ってたもんね」
「そうそう。あの人らしいよなぁ……」
豆腐屋の主人は目を細め、少しだけ空を見上げた。
「……で、今日はすき焼きかい?」
「うん。いいお肉、買いに来たの」
「そりゃあ、あの人も喜ぶよ。ちょっと待ってな、声かけてやる」
豆腐屋が店内に声をかけると、若い男性が顔を出した。
白いエプロンに、見覚えのあるロゴ。
彼は泡を見ると、少し驚いたように目を見開いた。
「……あの……母がお世話になりました」
「ううん、大丈夫。すき焼き用のお肉、ください。いいやつ、二人分」
「はい……ありがとうございます」
包まれていく肉を見つめながら、泡はぽつりとつぶやく。
「“終わった人”の場所に、“始まる人”が立つんだね」
一文は何も言わなかった。
ただ、泡の手から受け取ったレジ袋の重みを、しっかりと感じていた。
そのとき、男がふと思い出したように、奥から何かを取り出した。
「……あの、これ。母が書き残してたんです。鐚さんに渡してほしいって」
差し出されたのは、小さく折りたたまれたメモ用紙。
端が少しだけ油で透けていて、文字は丸く、どこか懐かしい筆跡だった。
一文は黙ってそれを受け取り、そっと開く。
そこには、すき焼きのレシピが丁寧に書かれていた。
割り下の分量、火加減、具材を入れる順番──
そして、最後にこう添えられていた。
> ゼニちゃんに、美味しいすき焼き食べさせてあげてね。
> お肉は甘めが合う子だと思うよ。
泡はそっと覗き込み、ふっと笑った。
「……やっぱり、おばちゃんってすごいね」
一文はメモを丁寧に胸ポケットにしまった。
「今日は、甘めにするか」
泡はにっこりと笑った。
その笑みは、昨日より少しだけ、あたたかかった。
---
夜。
事務所の小さなキッチンには、甘辛い香りが満ちていた。
鍋の中では、割り下がぐつぐつと音を立て、牛肉がゆっくりと色を変えていく。
「……いい匂い」
泡がぽつりと呟く。
ソファの前に置かれたちゃぶ台の上、湯気が立ちのぼる鍋を囲んで、二人は向かい合っていた。
「肉、入れるぞ」
「うん。春菊も、あとでね」
一文が手際よく具材を並べ、泡は箸を構えて待つ。
やがて、煮えた肉を一切れすくい、泡の器にそっと置いた。
「いただきます」
「……いただきます」
泡は一口、口に運ぶ。
柔らかく、甘く、舌の上でとろける味。
「……おいしい」
そう言った瞬間、ぽろりと涙がこぼれた。
泡は自分でも驚いたように目を見開き、慌てて袖でぬぐう。
「……あれ、なんで……?」
「どうかしたのか」
「ううん、ちがうの。なんか……あったかくて……」
言葉がうまく続かない。
泡は笑おうとするが、また涙があふれてくる。
自分の涙に追いつけないように、泡はまばたきを繰り返した
「おばちゃん、ほんとに……甘めが合うって、分かってたんだね」
一文は黙って、泡の器にもう一切れ肉を入れる。
「食え。冷める」
「……うん」
泡は涙をぬぐいながら、また一口、口に運んだ。
その顔は、笑っているのか泣いているのか分からない。
けれどその姿は、確かに“生きている”者のものだった。
湯気の向こうで、一文は静かに箸を動かす。
鍋の音だけが、部屋の空気をやさしく満たしていた。
──世界はまだ、回っている。
“順番”を抱えながらも、今日を生きる者たちの足音で。
---
◆特別観察対象報告書
対象識別名:銭屋 泡(通称:アブク)
報告者:鐚 一文
報告種別:定期経過報告(第4次)
提出日:令和7年12月15日
---
一、対象概要
本対象は「死に花事件」に随行した補助者であり、事件後も当方の監視下にある。
外見・行動様式は人間の少女に近似するが、複数の点で“構造的逸脱”が存在する。
---
二、観察記録(抜粋)
1. 構造干渉耐性
死神による排除術式を無効化し、術域に侵入可能。
死神は対象を“戻った者”として認識できず、「何者か」と困惑を示した。
死神の視界において対象の輪郭は一部欠損し、言語化不能の“空白”として処理されていたと推察。
2. 対象の発話傾向
無邪気を装うが、死や消失に関する理解が異常に深い。
日常会話にも“死の輪郭をなぞるような比喩”を自然に用いる。
対象は自身の“生の質”を測りかねている様子が散見される。
3. 夢・記憶
来歴に関する記憶は欠落。
反復する夢には「光からの落下」「階層間の断絶」「帰還拒否」が含まれる。
これらは宗教的意味合いよりも、構造論的な“層外逸脱”の示唆が強い。
---
三、身体・精神特性
生理反応は人間と一致。
医療機関の検査は拒否。理由は説明不能。
死への恐怖反応は極めて希薄。
黒い彼岸花、死神の干渉領域に対し高い親和性。
---
四、仮説および所見
1. 対象は、生者でも死者でもない。
2. また、“死後の存在”でも“未生の存在”でもない。
3. そのため、本報告書では暫定的に、対象を
《層間脱落体》
と分類する。
※従来分類に該当例なし。
死神が対象を“帳尻の対象外”として扱った事実は重大である。
死が“扱えないもの”がこの世界に居るなら、それは死神の体系の外──
すなわち、“人間の生死体系の外側”に由来する可能性がある。
補記:
対象の涙に接した際、当方は記録者としての距離を一瞬喪失した。
その感情は報告書の範囲外だが、観察の精度に影響しうるため記す。
---
五、今後の対応
対象の言動・夢を定期的に記録。
死神側の動向、および構造変動との相関を監視。
必要に応じ、「ラプス」が人間社会に与える影響を再評価。
本報告書は次回以降、専門用語を拡張し“可視化不能領域”の記録欄を設置する。
---
以上。
観察は継続する。
鐚 一文




