第10話~死神
ローブの男は、泡の姿を見た瞬間──
風の流れそのものがわずかに乱れた。
その揺らぎは微細で、しかし確かに“秩序のほころび”だった。
「……どういうことだ」
フードの奥から漏れたその声は、
音というより、古い鐘の残響のようだった。
「人払いの結界を張った。“生きた者”は、入れぬはずだ」
泡はくるりと首を傾け、無邪気に目を丸くした。
「へぇ……そうなんだ。
でも、わたし──たぶん、“生きてる”よ?」
ローブの男の指が、わずかに震えた。
その震えは、驚愕でも警戒でもない。
もっと深く、
“理解を逸脱したものに触れた時の揺らぎ”だった。
「……お前は、何だ」
泡は、耳の南京錠を指先でなぞる。
金属音は微かだが、商店街の空気のすべてを揺らした。
「それ、わたしも知りたいんだよね。
でも、いまはそれより──」
一文が泡の肩を掴む。
「アブク、下がれ。こいつは……」
泡は振り返らず、透明で静かな声を落とした。
「ねぇビタくん……これでやっと、聞けるね」
その声には、艶と静寂があった。
「死神さん。
あなたの──目的はなぁに?」
ローブの男は沈黙した。
しかしその沈黙こそが、答えより雄弁だった。
やがて、古い石の裂け目から漏れるような声音が落ちる。
「……かつて、死は呼吸のように訪れた。
風が吹くように。
夜が来るように。
定めた順に、静かに、確かに」
その響きは、耳ではなく骨に届いた。
「だが、人は“終わり”を押し返した。
医療の名の下に、死を追い返し続けた。
世界に記された順番を、書き換え始めた」
泡の目が、わずかに揺れる。
「……それが、いけなかったの?」
「いけないのではない。
だが、“世界”は均衡を保とうとする。
奪われた“終わり”の分だけ、どこかに歪みが生まれる。
帳尻は、必ず合わされる」
一文が前に出る。
「それで、殺すのか。帳尻合わせのために、命を」
ローブの男は一文を見た。
その視線に、怒りも敵意もない。
ただ、深い静けさだけがあった。
「私はのぞんで“殺し”などしていない。
終わるべき命を、終わるべき形に戻しているだけだ。
だが──事故や病では、もう届かない者もいる。
医療が、運命を押し返してしまったからだ」
泡が、息を呑んだ。
「……だから、銃なの?」
男は静かに語る。
「医療が、機械が、人間の執念が……
“終わり”そのものを跳ね返す。
触れれば触れるほど、死の形は壊れてゆく」
死神は銃を見つめた。
その視線は、まるで嫌悪と諦念が同居していた。
「……だから、私はこれを選んだ。
私自身が“死の感触”を持たなくて済むように」
一文が息を呑む。
「おまえ……手を汚したくないのか」
死神は静かに頷いた。
「私は人間を恨んではいない。
だが、もう直接ふれることは……耐えられん。
触れた者の温度が、願いが、祈りが、
皮膚に染みついて離れなくなる」
その語りは、神話の語り部のように静かで、
同時に、人間よりあまりにも弱かった。
「銃なら、間に“距離”がある。
私の手の温度と、死ぬ者の温度がまじり合わずに済む。
音と衝撃だけが、終わりを連れて行く」
そう言いながら、死神はわずかに顔をそむけた。
その仕草が、人間よりも人間的だった。
泡は、小さく囁くように問う。
「……やさしいんだね、死神さん」
男の肩がわずかに揺れた。
否定も肯定もせず、静かに紡ぐ。
「……私は知りすぎた。
だから銃を持った。
死の痛みを、できるだけ“均一”にするためだ。
誰に触れたかで、重さが変わらないように」
一文はその告白に、言葉を失う。
死神は鎌を捨て、触れる死を拒み、
“感触のない死”という最も人間的な方法を選んだのだ。
一文が問いかける。
「死を選ぶ基準はなんだ」
「選んでなどいない。
私は、ただ“戻された者”を迎えに来ているだけだ」
泡は、そっと目を閉じた。
「……じゃあ、おばちゃんは今日が運命だったってこと?」
「運命はとうに尽きていた」
泡の手が、耳元の南京錠に触れる。
その金属の冷たさが、皮膚を通して心臓に届く。
ローブの男の言葉が落ちた瞬間、
泡の呼吸がふっと整った。
さっきまで涙の気配すら漂わせていた顔が、
まるで別の仮面にすげ替わるように、静かに変わる。
瞳の揺れが止まり、
表情から感情の“ざわめき”が消える。
──「……そうなんだ」
その声は淡々としていた。
驚きも悲しみも怒りも、どこにも浮かんでいない。
一文は、横でその変化を見てはじめて息を呑む。
泡は、死の答えあわせをされた子どものように、
ただ淡々と、素直に結論を受け入れている。
──むしろ、待っていたかのように。
「おばちゃんは、もう終わってたんだね。
それを……今日、取りに来たんだ」
泡の声は薄く笑っていた。
その笑みは優しいのに、どこか、あまりにも静かだ。
ローブの男は泡を見つめる。
「……理解が早いな」
「ううん。だってね──」
泡は、足元の黒い彼岸花に視線を落とし、
その赤を映す瞳をふっと細めた。
「“死ぬ人”って、みんな……どこかで気づいてるでしょ?
自分の番が、とうに過ぎてるって」
その言葉には、妙な重量があった。
一文が低く言う。
「アブク、お前……」
「ビタくん」
泡は微笑む。
さっきまでの子どもじみた無邪気さではなく、
金属のような冷たさと艶を帯びた微笑みだ。
「間違えたら罰があたるのは当たり前だもんね」
その声の落ち着きが、一文の背筋を冷たく撫でた。
ローブの男もまた、奇妙な静寂をまといながら言葉を続けた。
「私がここにいるのは運命ではない。
ただ、世界が歪んだ記録を正すためだ。それを見逃すだけ世界は狂い、より多くの命が消える」
泡は、南京錠を指でやさしく叩く。
その音は小さく、だが妙に響いた。
「ねぇ、“死神”さん」
「……なんだ」
「わたしの“番”は、まだ?」
商店街の空気が、ひやりと凍りついた。
一文が反射的に泡の腕を掴む。
「アブク、何言って──」
しかし泡は、微笑んだまま一文の手をすり抜けた。
その表情は、ただの好奇心でも、死への憧れでもない。
もっと奇妙で、もっと静かで、
深い深い井戸の底に沈んだような“問い”だった。
ローブの男は沈黙し、
しばらく泡を見つめ──そして、ゆっくりと首を横に振った。
「お前からはなにも感じない。
お前は“戻された者”ではない。
……そのはずだ」
その一言に、泡は長く息を吐いた。
安堵とも落胆ともつかない、
妙に艶っぽい息。
「そうなんだ。
──じゃあ、生きなきゃなんだね」
一文はぞっとする。
その声の奥に、泡の“別の何か”が微かに笑っている気がした。
ローブの男は、風のような声で言った。
「近い将来……特大の帳尻合わせが起きる。
その時が来れば、私はまた来る」
泡は目を細めた。
「うん。
そのときはちゃんと教えてね。
……わたしの“終わり方”」
言い終えた泡の笑みは、
夕暮れの商店街の静けさと同じ匂いをしていた。
──生と死の境目を歩く者の笑み。
ローブの男が一歩後ろに下がった瞬間、
突風が吹き、商店街の旗が一斉に鳴る。
風がやむと、
そこにはもうローブの男の姿はなかった。
地面には黒い彼岸花だけが、
ゆっくりとしおれていくように揺れていた。
一文は、泡の肩にそっと触れる。
「アブク……お前、本当に大丈夫か」
泡は、一文の手をやんわりと避け、
そのまま空を眺めて小さく笑った。
「ふふ……死神ってさ、
わたしのこと、なんて思ったんだろうね」
まるで自分の“死に順”を考えるみたいに軽い声だった。
「じゃあ……おばちゃんは?」
「とうに運命は尽きていた」
泡の呼吸がふっと整う。
その瞬間、商店街の音がすべて遠のいた。
子どもの表情がすっと消え、
深い湖のような静けさが、瞳の底に広がる。
「……そうなんだ」
感情の温度が、一滴も残っていなかった。
それは“理解”ではなく──“回帰”だった。
「おばちゃんはもう終わってて……
今日、それを取りに来たんだね」
「理解が早いな」
「ううん。だってね──」
泡は地面の黒い彼岸花に視線を落とし、
ふっと色のない笑みを浮かべた。
「“死ぬ人”ってさ、どこかで分かってるでしょ?
自分の番が、とうに過ぎてたってこと」
一文は背筋を掴まれたような衝撃に息を呑む。
「アブク、お前……」
「ビタくん」
泡は穏やかに笑う。
その微笑は、柔らかいのに、底がまるで無だった。
「人ってね、“死に方”より
“死ぬ順番”を間違えるほうが……ずっと悪いんだって。
今日、わかったよ」
一文の指が微かに震える。
彼は気づいた。
この少女は、死神より“向こう側”に近い。
死神が静かに言う。
「いずれ、世界は大きく揺らぐ。
その時が来れば、私はまた来る」
泡は優しい声で応える。
「うん。
そのときはちゃんと教えてね。
──わたしの“終わり方”」
ローブの男の気配が揺れる。
それは畏れにも似ていた。
突風が吹き、旗がばさりと揺れる。
風が止むと、そこに死神の姿はもうない。
地面に残った黒い彼岸花だけが、
世界のひだのようにかすかに震えていた。
一文はそっと泡に触れる。
「アブク……本当に大丈夫か」
泡はその手をやんわり避け、
夕空を見上げて、ふっと笑った。
「ねぇビタくん……
死神ってさ──
わたしのこと、なんて思ったんだろうね」
その声はまるで、
死神に“順番”を確認されなかった者の、
奇妙な安堵のようだった。




