【第四話】「残業は二倍、危険も二倍」
課長級怪物との初戦──残業と報告書地獄の末に、なんとか倒した俺たち。
だが、終わったと思った瞬間に届くのは、さらなる仕事の通知音。
二体同時出現? 出動命令? はい、承知しました。
……俺はまだ、死ねない。給料日が来ていないからだ。
「全員、次の現場へ急行だ!」
通信機越しに響く瀬川の声は、割れる寸前のスピーカーのように耳を刺す。
俺はまだ路地裏のアスファルトに膝をつき、荒く息を吐いていた。
つい五分前まで戦っていた課長級《鉄骸種》は、煙を上げながら動かない。周囲には倒壊した街灯、車のクラクション、焦げ臭い風。
「……マジかよ。こっちはHPゲージほぼゼロなんだけど」
「黙って走れ、社畜戦闘員。残業メーターはまだ赤く光ってるぞ」
瀬川の皮肉が、疲労でぼやけた頭に響く。
俺の能力《過労覚醒》は、疲労すればするほど能力が上がる。今の俺は今日で一番強いはずだが、その代償に心臓が全力で抗議している。
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救急車や消防車をかき分け、俺たちは黒塗りの移動車両に飛び乗った。
助手席には若宮、後部座席には俺と中堅隊員の成田。
エンジンが唸り、サイレンの赤が車内を断続的に照らす。
「今回の二体、どっちも災害レベル“係長級”。速度は遅め、でも接触したら金属腐食。防御装備も三分でアウト」
「三分って……台所用のゴム手袋より短命じゃねーか」
「そういう冗談は、戦闘後に聞く余裕がある時にしてくれ」
若宮の声は淡々としているが、その指は緊張で微かに震えている。
車内には汗と血とオイルの混ざった匂いが充満していた。窓の外では、港湾地区に向かうにつれ、倉庫街特有の冷たい潮風が流れ込んでくる。
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現場に到着すると、既に一体目が暴れていた。
高さ三メートルはあろうかという、鎧兜のような外殻を持つ異形。
コンテナを片手で持ち上げ、投げ捨てた先でトラックが横倒しになった。
「瀬川班長代理! 二体目の位置は?」
「港の反対側だ。分散して対応する。拓海、お前は俺と行くぞ!」
班長の声に従い、俺は特殊警棒を握り直す。
疲労で足が重いが、その重さが逆に能力を引き上げている感覚がある。
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瀬川が囮となって怪物の注意を引き、その隙に俺が背後に回り込む。
警棒を振り下ろすと、衝撃と共に黒光りする外殻がひび割れた。
中から金属を腐食させる粘液が噴き出し、アスファルトが泡立って溶けていく。
「拓海! 距離を取れ!」
瀬川の警告で後方に跳ぶ。直後、怪物が腕を振り回し、近くのフォークリフトを粉々にした。
俺たちは息を合わせ、何度も殻を叩き、粘液を避けながら攻撃を重ねる。
五分後──外殻を粉砕し、心臓部に電撃を叩き込むことで、一体目は沈黙した。
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だが休む暇はない。
俺たちはそのまま港の反対側へ走る。
途中、通り過ぎる港湾労働者が避難していくが、皆、恐怖と混乱で顔色が真っ青だ。
地面には腐食された金属片が点々と落ちており、潮風に混ざって鉄の焦げる匂いが漂う。
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二体目の現場に到着すると、若宮たちが必死に応戦していた。
既に防御装備はボロボロで、右腕のプロテクターは溶けて形が崩れている。
「間に合った! 若宮、下がれ!」
俺は怪物の腕を受け止める。衝撃で全身が震えるが、踏ん張る。
《過労覚醒》の出力が限界近くまで高まり、視界が赤く染まる。
成田が右から牽制し、瀬川が左から外殻を叩く。
俺は正面から殻を押し上げ、隙を作って心臓部に電撃を流し込んだ。
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怪物が崩れ落ち、ようやく戦闘が終わる。
息を吐く間もなく、瀬川が無線に応じた。
「……はい、了解。ええ、報告書は今日中に」
その瞬間、戦場よりも冷たい現実が降りてくる。
徹夜確定の通知音──“報告書提出期限”。
俺は心の中で静かに叫んだ。
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戦闘が終わると、現場はまるで廃墟のようだった。
港湾クレーンの一部は根元から折れ、コンテナは潰れ、舗装路面はあちこちで泡立っている。腐食液のせいだ。
緊急対応班の作業員たちが、白い粉末を撒きながら腐食を止めていく。
「おい拓海、大丈夫か?」
瀬川が声をかけてきた。
俺は膝に手をつき、肩で息をしながらうなずく。
「……なんとか。心臓はまだ止まってないし、残業代は出るだろ」
「残業代が出るかは上の判断だな。……ま、期待するな」
戦場の煙の向こうで、若宮が隊員たちに撤収指示を出している。
防具は溶けて使い物にならず、全員の制服が黒ずみ、焦げている。
誰もが疲弊しきっていたが、表情には安堵があった。
少なくとも、この地区の人間は全員避難完了だ。
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撤収車両に乗り込み、基地へ戻る。
車内では、みんな無言。
聞こえるのはサイレンと、瀬川が吸う缶コーヒーのプルタブ音だけだ。
やがて車は基地に到着。
正門を通過すると同時に、俺の携帯に通知が届く。
《至急:本日の戦闘報告書を作成し、23:59までに提出》
──ああ、やっぱり地獄は続く。
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隊員休憩室に入ると、椅子に腰掛けた途端、全身の力が抜けた。
制服の下のTシャツは汗でびっしょり。
自販機で買ったスポーツドリンクを一気に飲み干すと、隣に座った成田がぼそっと言った。
「拓海さん……今日で僕ら、たぶん10時間くらい戦ってましたよね」
「……まあな。でも、普通のブラック企業だって12時間労働とかザラだろ」
「いや、普通のブラック企業は金属腐食液は飛んでこないんで」
そのやりとりを聞いた瀬川が、奥のソファで小さく笑った。
「お前ら、早く書けよ報告書。俺はとっくに書き終えた」
「早すぎるだろ!」
「箇条書きと専門用語だけだ。細かいのは事務方がなんとかする」
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パソコンの画面を開くと、真っ白な報告書フォーマットが俺を迎える。
今日の戦闘経緯、敵の特徴、被害状況……そして最後に「反省点」。
指がキーボードの上で止まった。
反省点なんて山ほどあるが、書いたところで次回が楽になるわけでもない。
──でも、書かないと給料は出ない。
これが俺の戦場のもう一つのルールだ。
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深夜0時近く、ようやく全員が報告書を提出し終える。
廊下に出ると、窓の外は雨が降っていた。
街灯が濡れたアスファルトに滲み、遠くでトラックの走る音がする。
「さて……寝るか。明日も出勤だしな」
独り言のようにつぶやくと、若宮が後ろから声をかけてきた。
「明日は休暇のはずですけど?」
「そうだったか?」
「ええ。ただし、“出動命令がなければ”ですけどね」
……つまり、休暇は幻想だ。
俺は苦笑いしながら、部屋の鍵を開けた。
【第四話・完】
戦闘も報告書も終わった深夜。
心身はボロボロだが、まだ完全には眠れない。
なぜなら、スマホの待機通知ランプが、港湾地区の夜よりも赤く光っているからだ。
──次回「徹夜報告書マラソン」。
怪物よりも恐ろしいのは、やっぱり人間かもしれない。