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薬草 旅烏 布切れ

作者: IronLotus

ある日。

私の前には、汚らしい布切れが落ちていた。

布切れは古く、所々に色がにじみ、およそまともな神経をしている者は触ってはいけない雰囲気だけを醸し出している。


なんだかこれ、匂いますね、と、ひざ元の臭い毛玉が、鼻を鳴らしながら言った。

いつの間に、この毛玉は膝の上にいただろうか。

やはり付き合いも長くなると、個人の領域というものに遠慮が無くなるものだ。


「なるほど、臭う。今日は風呂に入れて、その季節外れの冬毛をすべて換毛させてやろう。」


私が毛玉の襟髪を掴み上げると、毛玉はぴょいと跳ね上がって膝から降りると、プルプル震えて抗議をした。


私じゃありません、このきれはしです、それに風呂にはまだ寒い季節です…などぶつくさ言いながら、毛玉はにょっきり生えた手足を伸ばして、文机に手(…足?)をかけて、熱心に布切れの匂いを嗅いでいる。

腐ってもイヌ科の習性といったところだろうか。


別に腐ってません。と、佇まいを直した狸は、思案を重ねるような仕草と表情を繰り返している。

首を上下左右にひねっていると、旅先の土産にした『赤べこ』によく似ている、と思う。

その姿は、長く生き、錆びついた記憶の書庫と、闘うようでもある。


彼女は、そう珍しくもない、人の言葉をほぼ完璧に操る物の怪だ。

物の怪はあまり粘らずに、書庫の整理を諦めた様子である。すぐに私に答えを求めるような視線を向けた。


「何、ということはない。旅烏の路銀稼ぎさ。」


老若貴賤、人が生きる世では、自然に生まれてきてしまう、呪物とでも呼ぶべきものがある。

それは、人の新陳代謝の代償に出る老廃物に似て、世の老廃物のようなものだ。

誰かが、それを掃除してやらねばならない。

他人がやりたくもない事をやるのが仕事で、仕事には報酬が発生する。

私の本業ではないが、これもまた糊口をしのぐ生業ということである。


「ま、これは本当に人の老廃物だがね。」


布切れには、すでに乾いて久しい人間の血がこびりついているのだ。


ゲッ、と毛玉は仰け反る。この狸、妖怪変化のくせに、人間の血に忌避感があるらしい。

しかし、どうしてそんなものが呪物に、と毛玉は問う。


「無論、ただの人血ではない。どんな匂いがしたかね。」


鉄さびた…少しばかり苦い匂いとカビ…と狸。


「おそらく苦味は、薬草だ。ここに少し色が滲んでいる。出血を止めるために、用いたのだろう。」

私が指をさす。

何らかの怪我の被布であったということでしょうか…その人物はその怪我が元で命を落とし、怨讐が纏った被布に染み付いて…毛玉は勝手に震えだす。


「違うよ。この呪物に纏わる人物は全員存命であるそうだ。」


ではますますわかりません、呪われる所以がないではありませんか、と毛玉は袋小路に迷い込んだような顔をする。



「単純な話さ。この布が、今から100年は前の19世紀の産物であるからだ。」


狸は満面に不満を示す。

古きが呪われるわけではない、そうであるならば、自分などもすでに無害でPrettyな毛玉ならず呪物である、と。


「だから、単純な話だと言っているだろう。」


(人を祟った狸が無害であるかは、この際関係のない話であるが。)


「この布の場合、使った人間と使われた人間に問題があったのだ。」


狸はすでに白旗を振っている。最近覚えたレッサーパンダの『獣真似』として、立ち上がって両手を上げていた。

誇りまで投げ捨ててまで全てを知りたがるのならば、教えてやってもいいだろう。


「19世紀から存命の人間が、ただの人間であるものかね。」


短く上がる狸の声。

人間五十年。人類最長寿で、百二十年。

人の身でまたぐには、あまりに長い川である。



この布は、吸血鬼とその被害者である人物が用いた布であるらしい。

付着した血は、『旧人間』側のものであるとされている。


吸血鬼の血には魔力が宿る。

死するときには、自らの血と、眷属に与えた全ての血が蒸発して消えるそうだ。


この布に残った血は、「つまりそういうこと」であるとされている。

そうして、随分古いので詳しくはわからないが、ただの吸血鬼の血に留まらない異常性も帯びているらしい。


吸血鬼の血は特段の魔力とともに、疫病にも似た厄介さも併せ持つ。


一口舐めるだけでも彼らの不死性の一端を手にする。

霧と化す吸血鬼としての性質からなのか、気化してもその性質を失わない。

軽々しく燃やすなど、もってのほかである。

浴びたもの皆異常性を帯びる不死の煙が上がり、やがて雲になり雨となって…


考えるだに恐ろしい事である。


じゃあそれ、どうするんですか、と、狸は、文机から一番遠い部屋の隅で尻尾を抱えて丸くなっていた。


「そうだな…それを悩んでいたんだけれど…やはりこうするのが良いだろうな。」


ぱちり、と指を鳴らす。

部屋がどろんと薄暗くなる。

部屋中の影の向きがぐるりと変わる。

文机に私の影法師が伸びる。

狸が悲鳴を上げている。黒い犬の「吻」だけが文机から天井に向かって飛び出す。


次の瞬間には、もう布切れはそこにはなかった。

影法師から覗かせた牙が満足げで、食事の礼を言っているようでもあった。

すぐに影の向きはあるべき場所へと戻っていく。

部屋もすぐに明るくなった。


ポチちゃん、お腹、壊しちゃいますよう…と狸は顔を涙でぐしゃぐしゃにしながら言った。


「彼はポチではない。それに…」


私は、そこで思いとどまった。

この狸は、おそらくまだ自らの先に待ち受ける運命を、受け入れてはいない。


この狸は、獣から妖怪変化と成った時点で、限定的ながら不死性を手に入れている。

無論、今呪物を食らった『黒い犬』もそうである。

その身に不死の血を取り入れたとて、熾に薪を足すだけの事だ。


彼らは、人類が創世以来憧れてやまぬ「不死」程度、憂慮する必要もないのだ。

私はそれを羨ましいとは思わない。


何度かこうして機会が眼の前に転がってきて、考えたことはある。だが、知己の生と死をただ見送る側になるとしたら、どうであろう。

既に何もない、文机の上に視線を落とす。

吸血鬼と、元人間はどんなふうにそれを決めたのだろう。

楽観的に。悲観的に。刹那的に。享楽的に。

意地悪な運命の女神が、彼らをその袋小路に追い込んだのだろうか。



ふと、私を見上げる狸の視線に気づく。

それに、なんですか?と、涙も乾いた顔である。

つい、浸らなくてもよい感傷に浸ったようだ。


「それに、お前を風呂に入れなくてはいけないんだったな。」


飛び出して逃げようとした狸を捕まえる。


抗議の声を上げる臭い毛玉と共に、私は風呂へ向かうことにした。


たとえ不死でも不老でも、生きている限りは、老廃物だって出るものだ。

ときにはこうやって、掃除してやらねばな。

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